捌ノ惨


「なんかあったんか」

 車に乗ってから暁は何も言っていないのに、クーパーにはお見通しのようだった。さすがは昭和から存在しているだけはある。車は相変わらずゆっくりと、雨のヒガシ町を走っていた。

 暁はむすっとしたまま答えなかった。クーパーはハンドルから手を離して、懐から煙草を取り出した。

 そうだった。確かめたいことがあったのだ。

「貸して」

 暁が黄緑色のパッケージに手を伸ばすと、クーパーは慌てて煙草を暁から遠ざけた。

「あかーん! 未成年は煙草吸ったらあかーん!」

「べつに吸いたくない。見せてほしいだけ」

「お前ほんまか? 俺火ぃ貸さへんで。ぜったい貸さへんで」

「ほんとだってば」

「なにがしたいんやほんまに」

 暁はクーパーからゴールデンバットを受け取った。……ゴールデンバットだった。

『喫煙は、あなたにとって脳卒中の危険性を高めます』

 パッケージの半分を占める警告文も、ちゃんと読めた。それはもはや戻れない、あの世の文字だった。

「これ、向こうのだ」

「ああ、そゆことか。俺煙草屋でその字ぃのやつ選んで買うてんねん」

「いろんな字のゴールデンバットがあるってこと?」

「せや。ここはいろんな世界のあいだにあんねやろ? いろんなとこからいろんなもん流れ着くんや。バットも、字ぃおかしなっとるやつから芥川龍之介吸っとった頃のデザインのやつから、いろいろあんねんで」

「この字、なつかしい」

「せやなあ」

「まだひと月くらいしか経ってないけど」

「…………」

 クーパーは黙り込み、煙草を口に持っていこうとして、すん、と鼻を一度強く吸った。そして、わずかに眉をひそめた。

「お前の飴ちゃん、けったいな匂いやなあ」

「え?」

。飴屋に何味食わされてん?」

「ッ……」

 今度は、暁が少し黙り込んでしまった。

 クーパーは何気ないことを言ったつもりのようで、答えを待たずに煙草に火をつけた。彼が使っているジッポーがユニオンジャック柄だということを、暁は初めて知った。

「ナントカの葡萄味」

「ナントカってなんやそれ」

「復讐に燃えてるひとはおいしく感じられるんだって」

 クーパーがさっと暁の顔を見てきた。

 しばらく、雨がルーフを叩く音だけが聞こえた。車は止まっている。しかし、今は雨ふりの夜の10時過ぎ。店の前で急にミニ・クーパーが止まっても、誰も咎めない。

 不意にクーパーはくわえ煙草でハンドルを握ると、アクセルを踏んだ。

 今までよりも少しスピードが出ていた。暁はぼんやり、ワイパーがフロントガラスを拭うさまを眺める。

 車は目抜き通りから外れて、空き家が並ぶ静かな路地に入った。そのうち、空き家どころか空き地も現れ始めた。ちょうど家一軒分ぽっかりと空いたヒガシ町の隙間はいくつもある。そんなうら寂しい空間のひとつに、ミニ・クーパーは止まった。

 雨足は少し強くなっていた。クーパーが特にどこか操作したようには見えなかったが、ヘッドライトはかちんと消えて、ワイパーの動きも止まった。

「……誰かに何か話したいんなら、ここで話したらええ。俺、ちゅうか……車はみんな聞き上手やねんで」

 暗闇の中で、蒼の目がいちどまばたきした。

 暁は小さくなった飴を噛み砕き、飲み込んだ。飴は最後まで、そこそこおいしく感じられた。

「前に――四季のこと話したよね」

 そして、話し始めた。

「シキ……、ああ、お前のいとこやろ」

「わたしの話聞いて、どう思った?」

「……ん……?」

「四季はどんな2日間を過ごしたと思う? ロリコンのクソ野郎にさらわれて、2日間そいつの家に監禁されてたの」

「……んー……」

「わたしもね、そういうやつが思ったよりたくさん世の中にいるってこととか、変態がいつも女をどうしたいと思ってるかとか、そういうのわかる年になったら、疑うようになった。『本当に何もされなかったのか』って」

「……ん」

「でも四季は本当に何もされなかったって。触られてもいない。ただ、お風呂に入ったときに裸は見られたかも。それくらい。何年経っても答えは変わらなかったから、わたしは信じることにした。……でも……、みんなはちがったの」

「みんな?」

「みんなよ。まわりの大人。まわりの高校生」

「ああ」

「クーパーも思ったでしょ? べつに責めてるんじゃない。それが普通なんだよ。ほんとに何もされてなくても、『何もされてないわけがない』って思うのが」

「ん……」

「噂が広がって、その中では、わたしもいっしょにさらわれたことになってたり、四季といっしょにいたずらされたことになったりしてた」

「……噂か」

「わたしでさえそんなことになったんだよ。四季はもっと……ずっとひどかった。バカにはどんなことされたのって直球で聞かれたし……、1回やられてるんだから痛くないだろって、オレとやろうって。そんなことまで言われたり。四季は中学に入ってからよく泣いてた。わたしの前では。だからわたし、四季にそういうこと言ったやつらみんなぶん殴ってやった」

「ぶん……、……まあしゃあないか」

「大人には怒られたけど、わたし間違ったことした?」

「いや」

「……そう言ってくれる大人もいたし、わたしも間違ってなんかいないと思ってた。でも……ちがってた。特に四季にとってはちがったみたい。最初は間違いじゃなかったかも。それが高校に入ってから変わり始めた」

「…………」

「……四季ね、家出したの」

「なに?」

「誘拐事件のことでからかってきた男子がいて。くだらないこと言われて。四季、そいつの顔にシャープペン刺したの。それで親が学校に呼び出されて。それから……すぐ。……いなくなった。わたし、気づいてなかった。四季が泣かなくなってたこと。四季がわたしと連絡を取ろうとしなくなったこと。よく電話をかけてきたのに。四季は変わっていって、わたしはちっとも変わってなかった。少しも成長してなかった。それに、いい気になってたんだ。四季はわたしを頼ってるんだ、わたしが四季を護らなくちゃ、って。……家出したって聞いて、わたし、四季に電話かけた」

「連絡、ついたんか」

「ついた」

「なんてゆわれたんや」

「――わたしなんかいらないって」

「……!」

「ぜんぶおせっかいだったんだよ、四季にとっては!」


『暁ちゃん。もう二度と電話してこないでくれる? もうね、ずっと言おうと思ってたんだけど。ウザイっていうか。重荷なの。……それに、暁ちゃん見ると、思い出すの。あの日のこと』


『護ってくれなんて、誰も頼んでないじゃん。大きなお世話ってやつ。わたしね……暁ちゃんとちがって、前に進みたくなった。だから、……さよなら。もう二度と会わないし、電話もしない』


『あなたのこと、この世にいないと思うことにしたから』


「わたし……わたし、その電話からずっとイライラして。なんであんなこと言われなきゃならないんだろうって。自分のためでもあったけど、四季のためにも頑張ってきたのに。でもそれも結局わたしの勝手な考えだった。四季が迷惑に思ってたのにも気づかないで、バカみたいに突っ走ってたんだよ。それに、そうやってバカやって生きてて、誰か傷つけててもぜんぜん見えてなかった」

「……他にも、なんかあったんやな?」

「……四季と電話した何日かあとに、不良が仲間連れてわたしに復讐しにきた。何年か前に四季にゲスいこと言って、わたしがぶん殴ったやつ。完璧にグレててバックにヤクザがいるとかどうとか言ってた。わたしをマワそうとして……」

「想像つくぞそのあとが」

「ご想像のとおりだと思うけど、返り討ちにした」

「……あー、うん」

「でも今回はやりすぎたんだ」

「おい、まさかお前」

「殺してはいないよ」

「はあ、よかった」

「竹刀が折れるまで殴った」

「……よくない、ぜんぜんあかんかった……」

「わたし、イライラしてたから……。でもほんとに、今回はやりすぎた。ひとり、どっか骨折ったらしくて。わたし……停学になっちゃった」

「……ほうか」

「親にも久しぶりにすんごい怒られた。先生の前で。いい加減にしろって。おまけに、竹刀そんなことに使いやがってって感じで、剣道部も退部になった。それでもまだわたしイライラしてた。自分が悪いわけじゃないって。今まで大目に見てくれたのになんで今回は、って。……でも。学校の机とロッカーの中身きれいにして、駅に向かってる途中で、急に……疲れたの」

「…………」

「停学と退部食らって、教室に戻ったら、みんなの視線が痛かった。『いつかこうなると思ってた』って言ってるのが聞こえた。わたしってつまりそういうやつだったのよ、みんなにとって。『わけあり』を盾にして、キレたらめちゃくちゃに暴れる狂犬。不良とそんなに変わらない。親も先生も、昔わたしと四季がひどい目に遭ったから、それでいじめられてるから、同情して、理解してくれて、わたしがくだらないやつぶん殴っても許してくれてるんだと思ってた。でもちがったんだよ。わたしが知らないところでずっとずっと頭を下げて、わたしの尻拭いをしてたんだ。わたし、やっとそれに気づいたの、あの日」

「…………」

「わたしなんか家にも学校にもいないほうがいいんだって、思った。――わたしが中心で回ってた世界。そんなもの、ぐちゃぐちゃに潰れて消えてなくなればいいんだ、って」

「……それでか」

「……たぶんね」

「お前の絶望やな」

「いっときのね」

「…………」

「16年前の天照のキリエさん。彼女のことは何も知らないけど、でも、キリエさんや人形屋が味わったことこそがほんとの絶望だと思う。向こうには、絶望で自殺するひとだってたくさんいたし。わたしのなんか、ほんとにくだらない。ちっぽけで、ガキみたい。……ガキか、あなたたちから見たら。もしかしたら次の日にはきれいさっぱり忘れてたかもしれないのに。わたしバカな脳筋だもん」

「暁、」

「なのにわたし……、わたし、どうして……。どうしてもうちょっと頑張れなかったんだろう」

「…………」

「……うちに帰りたい。なんで……? なんで……っ……?」

「――なあ、暁」

「っ、」

「もう頑張らなくてええよ」

 ふと、雨の音が聞こえた。クーパーが愛する音で、暗い車内が満たされるはずだった。

 でも暁はそれどころではなくなっていった。かすかな雨音をすすり泣きでかき消していく。

 ドラマの女やまわりの女子高生がちょっとしたことで泣くのを見て、なんて弱いやつらだと内心馬鹿にしてきた。だからこそ今までずっと頑張って我慢してきたのに、これでぜんぶ無駄になってしまった気がした。負けてしまった気がした。暁は10歳の子供のように泣いていた。

 でもクーパーは、これでいいと言う。

 彼がどんな顔をして言ったのかは知らない。運転席から少し身を乗り出して、暁を抱きしめていたから。ガソリンと煙草の匂いがした。暁はクーパーのスーツを濡らして泣き続けた。クーパーの手が頭を撫でているのがわかった。

 これでいいのなら、何も間違っていないのなら、大人がそう言うのなら、泣き続けてもいいのだろう。

「帰りたい。帰りたいよ……」

「ん……、……うん、俺もや」

「……おとうさん……、……おかあさん……っ……」

「…………。俺は、お前の親にはなられへんけど。いつもそばにおるから、寂しなったら中で泣けばええ。車はな、ひとりで泣くにはええとこやねんで」

「……っ……」

「よう話したなあ。どや、俺も聞き上手やろ?」

 暁は泣きながら頷いた。

 でも自分は、本当にこれでいいのだろうか?

 こんなことをしておいて、明日からクーパーとどんな顔をして会えばいいのだろう?

 クーパーのことだから、きっと何食わぬ顔で、本当に何事もなかったかのように、またおはようさんと言ってたこ焼き片手に現れる。この夜のことを秘密にしてくれと言えば、きっと誰にも話さない。

 でも本当に、自分はいったいこれからどうするつもりなのだろう?

 この町から、この国からは、出られない。いくら泣いても過去は押し流せない。ここに住み続けるためには組合を仕事をしなければならない。だからクーパーとは、これからもずっと毎日顔を合わせるのだ。それなのに。

 こんなところを見せてしまったら、いくらクーパーがいつもどおりに振る舞ってくれても、肝心の自分が冷静ではいられなくなる。

 それに、そもそも、いつこの胸から離れられるのだろう?

 ずっとこうしていたい。

 常夜と雨音の中で。

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