捌ノ弐


 時間が経つと、記憶の中の少年の姿が薄らいでくる。

 だが、もう、完全に消えることはなかった。飴屋も、鍋屋も、クーパーも、赤い狐面の少年をおぼろげながら覚えている。

 深夜に暁が失踪し、ニシ町の入り口にした理由は、長く語らずとも誰もが納得してくれた。あのとき少年とどんな会話をしたのかは、当事者の暁の記憶の中でもおぼろげだ。でもきっと、さっきのようなやり取りをしたのではないか。

 盲目的になるほどの怒りと憎しみを、暁はあの少年に抱いている。

 けれど少年の望みは、ちがうところにあるようだ。

『そろそろ準備もいい感じに整ってきた』

『くそっ、もうちょっとだったのに……!』

 彼が何を企んでいるのかは謎のまま。一見すると、ニシ町に引きずり込もうとしているかに思える。そして確実なのは、ということ。不可視の鋏を用いれば、暁の四肢や首を切断するのも容易だったはずだ。

 暁が気になって仕方がないのは、少年を目の当たりにしたときの、飴屋たちの驚愕だった。

 まるで幽霊を見たような――とは、よく言うが、そんな表現すら生易しく感じられるほどの驚きだった。こんなものがいるはずがない、とでも言いたげだった。

 しかし、暁につきまとう脅威の正体がはっきりしたことで、対策はできるようになったらしい。

 翌日、飴屋は暁を鍵屋に託してどこかに出かけ、夜になってようやく戻ってきた。

 彼は暁に変わったかたちのお守りをくれた。少し大きめで、藍色の布地に暗い飴色の糸の刺繍が施されていた。刺繍は、文字なのか模様なのかわからない。この世界の文字はだいたい読めるようになったはずだが、まったく見覚えのない文字だった。

「これはお狐様由来のお守りではないんだ。社に行くときは外してくれ。だがそれ以外は、ずっと身につけているんだ。風呂に入っているときもだぞ」

「……濡れちゃうけど」

「気にするな。これを手放さないと約束してくれるか? 暁」

「うん」

「もうひとつ、月並みな約束だ。中身を見ちゃあいけない」

「わかった」

 頷いた飴屋の面持ちは、いつになく真剣だった。

 騒動のあと、修理屋を呼ぶことになった。外れて壊れたふすまは直された。ミニ・クーパーも、クーパーが負った傷と連動したように少し傷がついてしまったので、これも直してもらうことになった。

 クーパーの両腕は、いつのまにかもとどおりになっていた。切断された腕をくっつけておいたわけでもない。本当に、暁が目を離したすきに治っているという感じだった。首が飛んだときもそうだった。誰もどのようにして彼の重傷が治るのかを知らない。

 付喪神は『謎の人体部分』を傷つけられても、本体にはさほどダメージが行かないか、対応する故障がすぐに自然回復するようだ。そのかわり、本体を壊されれば人体部分もそれ相応に傷ついて、すぐには直らない。クーパーの場合、エンジンを叩き壊されて修理不能になれば、たぶんことになる。

 両腕を切断されたことで、ミニ・クーパーは前輪がパンクしてしまった。かき切られたのどは、ホーンに影響を及ぼしたようだ。へんな音になっていた。そして出血多量によってガソリンが大量に漏れてしまい、飴屋の店先はものすごくガソリン臭くなっている。

 クーパーは「腹が減った」とぼやきながら飴屋を去って行った。暁のことをとても心配していたが、飴屋を強く信頼しているようだった。

「修理屋のところに行ってたんだってね」

「ああ。ニシ町に、気配を消せるやつや縮地が使えるやつはいないかと聞いていた」

「しゅくち?」

「クーパーは『てれぽーと』とか呼んでいたかなあ」

「ああ、そっちのほうがわかる。……修理屋は、あいつのこと知ってた?」

「いや。だが……、〈悪い胴元〉が話の中で、何度か誰かを〈若〉と呼んでいたのを聞いたそうだ」

 若。

 暁はすぐに思い出した。

「胴元もわたしをすぐ殺したり食べたりしようとしなかった。『若に会わせる』って言って」

「そうか……」

 飴屋は眉をひそめ、目を伏せた。

「飴屋。あなた、あいつを見てすごく驚いてた。あなたのあんな顔見たの初めて。あいつのこと知ってるの?」

 飴屋はしばらく暁と目も合わさず、口を引き結んでいた。話すどうか逡巡していた。暁は辛抱強く飴屋の決断を待った。彼のことだからはぐらかされる可能性もある、と考えながら。

 しかし飴屋は、話す道を選んでくれた。

「――逆だ。のさ」

「……?」

「おれはこの国の住民を全員把握しているんだが、あいつを知らないんだ」

「え……」

「この国に……子供はいないはずなんだよ。暁、おまえさんがこの町で会ったのは、みいんな大人だったろう? ヒガシ町だけじゃあない。ニシ町の連中はほとんど頭になにやらかぶっていたが、少なくとも、子供じゃあないのはわかったはずだ」

 ああ。

 そう言えば、そうだ。

 子供の姿を一度も見たことがない。女の姿も。無線屋がいちばん若いが、それでも20代なかばといったところだ。

 未成年=子供という観点からすれば、常夜ノ国にいる『子供』は、暁ひとりだけ。飴屋たちの中ではそれが常識だったのだ。

「飴屋。わたし、思い出した。なんでなのか、今まで忘れてたんだけど。――わたしにりんご飴を渡したのは、あいつなの」

「……!」

「あいつのせいで帰れなくなったのよ!」

「……暁……、」

「あいつを殺してやりたい」

 暁はうつむき、胸のうちでどろどろと渦巻く感情といっしょに、今の気持ちを吐き出した。飴屋がどんな面持ちでいるのかは知ったことではない。ただ、彼が初めて言葉に詰まっているのがわかる。

 暁の両手は固く握り締められ、ぶるぶる震えている。無意識がそうさせていた。あまりに力を入れすぎて、関節は白くなっていた。触れるものすべてを殴り壊しそうだった。

 そんな手の片方を、飴屋はそっと手に取った。

 それは、暁の反射神経さえ凌駕する力を持っていた。今誰かに触れられたら、反射的に殴り飛ばしそうな気がしていたのに、飴屋に手を取られた瞬間放心したようだった。

 飴屋の考えていることはいつだってわからない。そのせいなのか。今も、まさかこんなことをしてくるとか想像もしていなかった。

「こっちに来な、暁」

 くい、と手を引かれる。

 飴屋はなんでもないことのようにきびすを返し、暁の手を引きながら廊下を歩いた。

 それはまるで魔法にかけられたかのよう。暁は抵抗もできず、何も言えず、彼について歩いていくしかなかった。

 どこに連れて行かれるかと思えば、すでに見慣れた飴屋の店舗だった。

 飴で作られた狐や金魚たちが、暖かい照明に照らし出され、甘い香りを放っている。

 飴屋は棚の猫瓶を眺めたあと、瓶のひとつから飴玉をひとつ取り出した。淡い紫色と桃色のマーブル模様の大玉だ。飴屋はいつものうっすらとした笑みで暁に近づいてきた。

「ほら、口を開けて」

 暁は戸惑いながら口を開いた。飴屋は不思議な色の飴玉を中に入れてきた。

 今まで味わったことのない、それは奇妙な味と香りだった。ひどく甘いかと思えば酸っぱくて、でも、そのあとからわずかな苦味がくる。それがかえって良いアクセントになっているような気がした。

「うまいか?」

 暁はちょっと考えたあとに頷いた。嫌いな味ではなかった。

「これは〈荒司禽あらすとるの庭の葡萄〉味さ」

「……?」

「荒司禽は地獄に住む、復讐と憤怒と憎悪を司る悪魔だと云われている。おれはそいつの庭に行ったことなんかないから、そんな葡萄が本当にあるのかどうかは知らん。ただ……、憎悪に駆られ、復讐を望む者は、この飴がうまく感じられる」

「!」

「おれはべつにその感情が悪いものだとは言わない。怒るのも、憎むのも、仕返しをしたいと思うのも、生きていれば当然のことだからな。だがおれは、べつに悪くはないが危険なものだとも思っている」

「…………」

「憎しみと怒りはひとをめくらにさせる。盲が通りをひとりで突っ走るのは危ないだろう。おれたちはおまえさんの手を引ける。おまえさんが望めばの話だが」

 飴屋はまた棚に向かうと、べつの瓶から金色の飴を取り出し、セロファンに包んだ。

「復讐をするつもりなら、静かに、落ち着け。まわりをよく見るんだ。それより先にやらなけりゃならないことが、他にあるかもしれないからなあ」

 飴屋は金色の飴を差し出してきた。暁はおずおず手を出して、それを受け取った。そうするより他なかった。

「……これは何味?」

「さあ、なんだったかな。忘れちまった」

 飴屋は笑った。いつもの人を食ったような笑み。ぜったいに嘘だ。彼はこの黄金色の飴が何味かを知っている。

 復讐と憎悪の味と香りは、暁の口の中で甘くとろけている。

 その香りの中に、ふと、嗅いだことのある匂いが混じった。

 ……雨の匂いだ。

 暁は店の入り口に目を向ける。飴屋は静かに戸を開けた。

 しとしとと、静かな音が店の中に忍び込んできた。

「ああ、とうとう降り出したか」

 目覚めてからというもの、暁は天気どころではなかった。飴屋のそのひと言で気づかされた。今日はずっと、今にも降り出しそうな天気だったのだろう。それにさえ気づいていなかった。

 常夜ノ国の雨は、暁にとって、初めてのものだった。雨が降るんだ、というのが最初の感想だ。けれどすぐに、クーパーが故障したときのうわごとを思い出した。

 雨がルーフに当たる音を聞くのが好きで、彼はわざわざガレージの外に出ると言っていた。

 さほど強い雨ではない。しとしとという音は心地いい。

 飴屋は袖の中で腕を組み、黙って雨を眺めていた。暁もなかば呆然と、暗闇に降る雨を見つめていた。

「……ん?」

 不意に、飴屋が身を乗り出す。

 彼が何を見たのか、暁もすぐに知るところとなった。

 雨の中から、臙脂色の番傘をさした和装の男がひとり、飴屋に向かって歩いてくる。

 人形屋だ。

 飴屋は傘もささずに外に出ると、人形屋に話しかけた。二言三言言葉を交わしたあと、飴屋は店に戻ってきて、店の片隅に立てかけられた傘を取り、暁に差し出してきた。

「おまえさんに会いに来たそうだ」

「え。人形屋が?」

「なんだい、意外か?」

 飴屋はちょっと意地の悪い笑みになった。暁は慌ててかぶりを振り、傘を受け取ると外に出た。

 人形屋は静かに傘を後ろに傾け、暁に顔を見せた。

 相変わらずの暗い顔。金色の瞳も、陰の中にある。

「見舞いに来た。……災難だったな」

 暁は、クーパーたちが助けに来てくれたときのことを思い出した。人形屋もいっしょに車に乗っていた。天照に興味津々の男たちの中、彼だけはいつもそっけなくて、ろくに目を合わせようともしない。そんな男だから、駆けつけてくれたのを意外に思った。

 今、人形屋はまっすぐに暁を見つめている。そして、手に持っていたものを差し出してきた。

「団子は好きか?」

 ひもで結わえられた紙の包みを暁は受け取る。ちょっと雨を受けていたが、ほんのりと温かい。

「……ふつうかな」

 正直に言うと、あまり食べたことがない。甘いものは控える生活をしていたし、仮にお菓子を買うならば、たいていチョコレートやクッキーだった。和菓子は両親や祖父母のおすそわけを食べるくらいだった。

 人形屋はうつむいた。彼の顔にさす陰が、いっそう強くなる。

「――あいつは、餡子の串団子が好物だった。おまえとは何もかもが違う……」

「……え」

 暁ははっとした。

 キリエ。

 16年前の天照。

 あいつとは、きっと彼女のこと。

 確信があった。飴屋はそれに触れるなと言いたげだったが、人形屋自らが口にするならば、尋ねてもきっといいはずだ。

「人形屋。それって……キリエさんのこと?」

「……っ……」

 人形屋が、ぐっと口を引き結ぶ。

 しまった、やはりその名を口にするべきではなかったか。暁は肝を冷やした。

 が、彼は……答えてくれた。

「そうだ。己の嫁……いや……許嫁だった。己とあの日、祝言を挙げるはずだった」

「…………」

「神前にゆく花嫁行列を襲われ、霧衣きりえは奪われた。……目の前に居ながら、己は護れなかった。この国の太陽も、おのれの嫁も。己に残されたのは、あいつのだけだ」

「あの……人形?」

 青い振り袖姿が美しい、生き物のように動く人形〈俤〉。戦うとき、は恐るべき変貌を遂げる。

 それはきっと――人形屋の、盲目の怒りと憎悪が造り出したからくりだ。

「おまえとは何もかもが違うのに……己はあいつを思い出す……何故だろうな。同じ天照だからか。だとすれば、単純な男だ」

 人形屋は手を伸ばし、暁の口元にそっと触れた。そこには、ハコスカに殴られたときに刻まれた、赤黒い痣がある。人形屋の指はひどく冷たかった。

「養生しろ」

 暁の言葉も待たずに、人形屋は雨の中を歩き始めた。暁はその背を見送るしかなかった。

 と、そこに。

 エンジンの音とヘッドライトの光が近づいてきた。ミニ・クーパーが雨の中をとろとろ走っている。車は人形屋のそばで止まり、窓が開いた。

「人形屋ー。どこ行くんや、お前んち逆方向やろ」

「……社にゆく」

「はあ? こん雨ん中かあ? それにお前、今何時や思てんねん」

 クーパーの素っ頓狂な声が響いた。

「送ったる。乗れや」

「いい」

「服ドロドロんなるで」

「かまわん」

「わっけのわからんやっちゃもー」

 人形屋はすたすたと歩き去ってしまった。クーパーは露骨に呆れたあと、またとろとろ走り出して、今度は暁の前で止まった。

「おう、暁。人形屋と話しとったんか。珍しいこともあるもんやなあ」

「お見舞いに来てくれたの」

「ほーん! そら驚きや!」

「……うん。びっくりした」

 クーパーは元気そう……というより、平常運転だ。ガソリンは補給してきたのだろうか。昨日は暁よりもひどい重傷を負ったのに、もう彼の身体や顔にはかすり傷ひとつない。

「……ケガは?」

「見てのとおりや。抜けたハイオクも満タンにしてきたでー」

「雨、好きなんだっけ」

「ああ。汚れるけど」

 クーパーは笑った。

「飴屋に飴ちゃんもろたんか?」

「あ……、うん」

「歯ぁ磨いて寝ろよー」

「……ねえ。乗せて」

「ぇあ!?」

「雨の音聞いてみたい」

「あっ、いや、まあええけど、いや。あかんやろ。あかんあかん。今何時や思てんねん。どいつもこいつもほんまにもー」

「おれは許可するぞ」

「聞いてたんかい飴屋!」

 いつのまにか外に出てきていた飴屋に向かって、クーパーはこれみよがしにため息をついたあと、助手席のドアを開けた。

「ほれ」

「ありがとう」

 人形屋からもらった団子を持ったまま、暁はミニ・クーパーの助手席に座って、ドアを閉めた。

 かん・かん・たん・ぱん・たん。

 ルーフと雨粒は、かすかに、そんな音楽を奏でていた。


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