第捌話

捌ノ壱


 暁が意識を取り戻したのは、ほのかに甘い香りがする布団の中だった。

 外からは雑踏が聞こえてくる。時計を見なければ今が朝なのか夜なのかもわからないのは相変わらずだ。しかし少なくとも今は深夜ではない。この常闇の世界の一日にもだいぶ慣れてきた。

 身体はどこもなんともなさそうだ、と思ったのは一瞬だけ。ちょっと身じろぎしただけで、あちこちが鈍く痛んだ。ハコスカに1発目に殴られた脇腹にだけは、刺すような痛みが走った。

「暁」

 暁が身じろぎして顔をしかめた直後、すぐ近くで声が上がった。

「……クーパー」

 頼みの右目がちゃんと開かない。腫れているのかもしれない。それでも、蒼い燐光を放つ彼の目ははっきり見えた。

「わたし、助かったんだ」

「ああ。よう頑張ったな」

 クーパーの手が、暁の髪をほんの少しだけ撫でた。ちょっとガソリンの匂いがするけれど、温かい手だった。猛烈に照れくさくて、暁はそっぽを向いた。

 まわりの女子の誰よりも背が高くなってしまったせいか、最近は頭を撫でられたことがない。それどころか近寄りがたい雰囲気を放っていたようで、暁にべたべたくっついてくる人間はいなかった。友人がひとりもいなかったわけではないが、他人とは自らある程度の距離を置いていた。

 親さえ暁を撫でなくなって久しい。要は、ちやほやされるような少女には育たなかったのだ。すっかりたくましくなってしまって。

「くやしい。ケンカに負けた」

「ツッパリかお前」

「……また助けられたね。ありがとう、クーパー」

「ええんやで」

「どれくらい寝てた? 今何時?」

「一日も寝とらんで。……まだ4時や。夕方の」

「飴屋は?」

「修理屋に話あるゆうて出かけたわ。店には鍋屋おるで。なんか作ってもらうか?」

「水が飲みたい」

 暁は身体を起こした。脇腹がとんでもなく痛くて、自然と顔が歪む。空腹だったが食欲はあまりなかった。

「寝とれよ。アバラにヒビ入っとるかもしれへんらしいで」

「嘘」

「顔もボコボコやし」

「嘘でしょ」

「足もひねっとる」

「マジで?」

 言われてようやく気づいた。足首に湿布が貼られている。

 暁は頭を掻いて唸った。

「これじゃ戦えないじゃない」

「それ女子高生のゆうことちゃうやろ、アマゾネスかお前は!」

 ついさっきツッパリかとツッコまれたかと思えば今度はアマゾネスだ。わずかな時間で確実にランクアップした。

「わたしアマテラスよりアマゾネスになりたい」

「『アマ』と文字数しか合っとらーん。ほれ水ー」

 クーパーはツッコミといっしょにコップ1杯の水を差し出してきた。見れば、彼のそばには丸いお盆があって、水差しや薬の袋らしきものが乗っていた。そのすぐそばには、鞘に収まった暫。

 暁の視線を追って、クーパーは言った。

「ああ、〈良い薬屋〉が痛み止めくれたんや。飲むか?」

「効きそう」

「効くやろなあ、おきつねさんの子の薬やから。俺には効かへんやろうけど」

「我慢できないほどじゃないけど……飲もうかな」

 薬屋には会ったこともないが、暁は信用することにした。痛み止めは薬包紙に包まれた粉薬で、ほんのりと桜色をしており、粒子が不可思議にきらめいていた。ひと目でただの薬ではないとわかる。

 しかし口に入れてみると、びっくりするほど苦かった。うめきながら水で流し込む。飲んだことを後悔するくらいの苦さだ。

「なにこれすっごい苦い」

「良薬は口に苦しや」

「言うと思った」

「……思てたより元気そうで、よかったわ」

 クーパーは静かに微笑んだ。いつものにかっとした愛嬌のある笑顔ではなくて、それは、49歳のにふさわしい表情だった。彼はときどきこんなふうに、暁の手が届かないほどの大人になる。そして彼のそんな顔を見つめるのは、なんだかわけもなく恥ずかしかった。

「暁。飴屋が戻ってきたら、夜のこと聞かれると思うで」

「そうだね」

「怒られはせえへんやろうけど……、でも、俺も聞きたいわ。なんであんなとこにおったんや?」

「……わからないの」

 正確に言えば、……思い出せない。


 しょきん。


「……!」

「おい、暁!?」

 キリッと頭が痛んで、暁は頭を抱えた。クーパーが腰を浮かしたのがわかった。

 昨日……、いや、今日の深夜2時。それくらいの時間だった。

 しょきん。

 音がして。

 しょきん。

 この部屋から出るつもりなどなかった。しかも、あんな深夜に。浅い眠りから覚めてしまい、ぼんやり月を眺めながら、とりとめのない考えごとをしていた。

 それから……、それから。

 しょきんしょきんしょきん。

 しょっ・きん。


「おれのこと思い出してくれた?」


 はッ、と。

 暁とクーパーは部屋の隅を見た。

 目を開いていたのに、一瞬視界がまたたいた。飴屋が和鋏を握ったときのように。

 その刹那が過ぎた今、部屋の隅には赤い狐面の少年が立っていた。黒い詰襟。暁よりも少し背が低い。両手をだらりと下げている。

「思い……出した」

 暁は頭から手をどけ、長い髪のあいだから、少年を睨みつけた。

、わたしは、こんな目に」

「そうだよ、天照。そろそろ準備もいい感じに整ってきた」

「お前……誰や……!?」

 クーパーにも見えている。ということは、幻覚ではない。少年は確かに存在しているのだ。どういうわけか記憶に残りにくいようだが、それもべつにこの世ではおかしなことではない。

 ただ……、クーパーはかなり驚いているようだ。たぶんそれは、いきなり現れたことにではない。、そんな様子なのだ。

 少年を見ていると、暁の胸と頭と意識の奥は、めらめら音を立てて燃えていくようだ。

 怒りを通り越した感情。

 深夜2時にも、この感情に身のうちを焦がされた。


 殺してやる。


 それは憎悪だった。

 色があるとすれば、血や炎よりもずっと赤い。そんな、抑えが効かない恐るべき感情。

 暁は枕元の暫を引っつかむ。脇腹が痛んだが、痛み止めとアドレナリンのおかげか、さっきよりもずいぶん控えめな痛みに思えた。

 狐面の少年は、右手だけを動かした。何かを持っているような手つき。だが、何も見えない。不可視のものを持っているかのよう。

「暁! よせ!」

 片膝を立てた暁に、クーパーが手を伸ばす。

 そのときだ。


 しょっ・きん。


 少年が手を握った。

 それは鋏を閉じたかのごとく。

 いや実際に持っていた。

 きらりと、大きな裁ち鋏のかたちに、少年の手元でほの白いきらめきが一瞬浮かんだのだ。彼は本当に、見えない道具を持っていたのだ。

 ぼとり、と暁とクーパーのあいだで音がした。

「ぇ」

 それはどちらの声だったのか。

 クーパーの右腕が畳のうえに落ちている。ごくわずかな沈黙。ばすっ、とクーパーの右腕の断面から血が噴き出す。

 彼の腕は、肘の少し先のあたりで、切断されていた。

「ぃッ……」

 クーパーが顔を歪め、左手で右の二の腕を押さえようとした。

 しょきん。

 ぼとん。

 今度は、その左腕も肘のあたりで落ちた。

 そして少年はいつのまにか、クーパーの背後に立っている。その右手は真っ赤に染まっている。不可視の得物も血にまみれ、その輪郭が明らかになっていた。

 間違いない。大きな裁ち鋏だ。

「…………!」

 クーパーの目の光は失われていない。彼は歯を食いしばると、背後の少年を睨みつけた。

 外でけたたましい音が上がった。ミニ・クーパーのホーンだ。誰にでもいいから危機を知らせようと、何度も何度も鳴った。

 少年が舌打ちした。初めて見せた焦りや苛立ちだ。


 しょっ・きん!


 その鋭利な音が鳴り響いた瞬間、クーパーは目を見開いた。外でやかましく鳴り続けていたホーンがふっつり途切れる。そして――。

 ぼヅッ、とロープが切れるような音がして、クーパーの首ののどから左の頸動脈まで傷口がぱっくり開いた。0.5秒後、噴水のような勢いで頸動脈から血が噴き出す。暁も、障子も、布団も畳も少年も、ガソリンの匂いがする鮮血で真紅に染まっていく。

 暁は大きく息を吸い込んだ。

 クーパー、と叫ぶために。

 彼は首を切断されても死なないことはもう知っていた。それでも、悲鳴が口から飛び出した。

「クーパー!!」

 クーパーののどからは、ひゅうひゅう空気が漏れる音がするだけ。暁は気づけば彼のそばにひざまずいて、首の左側を押さえていた。生ぬるい血の勢いはすぐに衰えていく。が、クーパーの目の燐光はかすんできて、焦点が定まらなくなっていく。瞳孔は狐のものになっていた。

 しかしのどの傷はすぐに回復したのか、彼はかすれて苦痛まみれのかぼそい声を上げた。

「なに……すん……ねん……この……ガ、キ……」

「おじさんガソリン臭いね」

「こんな……こと……しても……俺、死なへん……で……」

「知ってるよ。だからわざとやってるんだけど」

 ふふっ、と少年は狐面の奥で笑った。しかし、ちらとその顔がほんの一瞬飴屋の店舗のほうに向けられたのを、暁は見逃さなかった。クーパーの警笛が効いたのだろう、人が集まってきている。そして誰かが足早に近づいてきている。

 確か、今は鍋屋が店番をしていると――。

 少年が裁ち鋏の切っ先をふすまのほうに向けた。

「鍋屋! 来ないで!! 来ちゃだめ!!」

 暁が叫ぶと、近づきつつあった足音が凍りついた。無言だ。だからこそ、その足音が鍋屋だとはっきりした。

「へえ、機転が利くんだ。ただの脳筋じゃないんだね、天照。いいよいいよ」

 少年は笑みを含んだ声を転がし、鋏をしょきっと開けた。

 しょきん。

「ッ」

 しょきん。

「グ、かッ」

 しょきんしょきんしょきん。

「あッ、が、ッ」

 もてあそぶように少年が裁ち鋏を開閉するたび、暁の目の前で、クーパーの身体に切り傷が入る。鮮血が飛び散る。彼のスーツも暁の顔も、真っ赤に染まっていく。

「やめて!!」

 暁がたまらず絶叫すると、少年はおかしげに、ちょっと声を上げて笑った。

 クーパーが咳き込み、血の塊を吐いた。首からの出血はほとんど治まっている。暁はわなわな震える手をどけた。恐怖ではなく、すさまじい怒りによって、全身が強張っている。自分の体温を感じない。身体じゅうの毛が逆立っているような気がする。

「ねえ、天照」

 血みどろの少年は、血みどろの暁の目の前に立っていた。クーパーに寄り添い、膝を立てている暁を、じっと見下ろし――ささやいた。

「きみはさ。結局、お守りされるだけのお姫様なんだよ」

「……ッ」

「きみはさ、無力なんだよ」

「やめて」

「だーれも、ほんとの意味できみを助けてなんかくれないよ。きみのことお荷物だと思ってるし、きみの力なんてちっとも役に立たないって思ってる。きみのまわりの世界はさ。きみがいたっていなくたっておんなじなんだよ。……ちがうか。いないほうがいいって思ってるかな」

「やめて!」

「いなくなったっていいんじゃない? 強がってないでこっちに来れば? 少なくともニシ町でなら、みんなの役に立てると思うけど。みんなのおもちゃになれるし、みんなのおなかを満たせるし。ニシ町の連中もさ、突っ込める穴があって肉がうまければ、べつに誰でもいいってことではあるけど」

 少年は、ゆっくり腰を折って、赤い狐面に覆われた顔を暁に近づけてきた。今や彼のささやきは、頭の中に直接ねじ込まれているかのようだった。


「天照。『火野坂暁』っていう存在なんか、どの世界にもいらないんだよ」



『暁ちゃん。もう二度と電話して来ないでくれる?』


『もうね、ずっと言おうと思ってたんだけど。ウザイっていうか。重荷なの』


『それに暁ちゃん見ると、思い出すの。あの日のこと』


『護ってくれなんて、誰も頼んでないじゃん。大きなお世話ってやつ。わたしね……暁ちゃんとちがって、前に進みたくなった』


『だから、……さよなら。もう二度と会わないし、電話もしない』


(あきらちゃんなんかいらないの)



「――自分やかましいわボケェええええ!!」

 暁の耳元で、ぶぅおん、とエンジン音が炸裂した。

 かと思えば、クーパーが時速60キロの勢いで少年に頭から突っ込んだ。それは果たして頭突きという言葉をあてはめてよいものなのか。いや、車の正面衝突と言うべきだろう。さすがに少年もその速度には反応できなかった。

 少年と両腕のないクーパーが、もんどり打ってふすまに突っ込み、ふすまごと廊下に倒れ込んだ。ふすまの向こうには鍋を抱えた鍋屋がいて、たたらを踏んでいた。そしてその奥には飴屋がいる。

 飴屋が、はっと息を呑んだように見えた。そして、金色と飴色の目を大きく開いた。暁が初めて見る、彼の驚愕の表情。

 少年はクーパーを押しのけ、飴屋を見て舌打ちした。

「くそっ、もうちょっとだったのに……!」


 しょきん。


 終わった。

 誰も彼もがその体勢のままその場から動かない。そんな沈黙が約2秒。

 少年の姿は忽然とかき消えていた。鋏の音とともに世界がちらついた一瞬ののちに、煙も残さず。

 クーパーはうめきながら身体を起こした。そのうめき声は痛みから来るものではなく、激怒によるもののようだ。血まみれの帽子がすぐそばに落ちている。彼は拾おうとしたようだ。肘から下がなくなっていることも忘れて。

 飴屋も鍋屋も、呆然としたまま動かない。少年がいた場所を食い入るように見つめている。

 暁の身体はようやく動いた。手足が冷え切って、震えているのがわかった。よくある漫画のヒロインのように、青ざめておののきながら――クーパーにすり寄ると、帽子を彼の頭にかぶせた。

「クーパー」

 細い声で呼びかけると、クーパーは嘆息した。

「これじゃ抱きしめられへんなあ」

 それを聞いて、暁は、

「俺はお前が必要や思う」

 彼に抱きしめられたくなった。


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