第漆話

漆ノ壱

 

 常夜ノ国の『夜』は本当に、深い。

 この国はいつでも夜だ。でも、皆が寝静まる本当の『夜』は、耳鳴りがしそうなほどに静かで、時の流れさえ遅くなっているように思える。

 あえて出歩く者はいない。ほとんどの店は16時に閉まり、酒を出す飲食店も19時には閉めてしまうという。今外にいるのは、櫓で物見を務める者だけだ。

 目を覚ました暁は、枕元に置いた時計を見た。まだ深夜2時だ。

 飴屋のもとに戻ってから、1週間が経った。修理屋はすぐ近くの店舗で商売を始めている。まだ住民から全面的に信頼はされていないようで、仕事は少なく、暇らしい。しかし出歩くのは控えていて、ほぼ一日中店にいるそうだ。飴屋をはじめとした組合員が毎日様子を見に行っていた。

 暁は――眠れない日々を過ごしていた。

 眠りにつくと、あの幻灯がまぶたの裏に浮かび上がるのだ。

 そして、仕立て屋が仕立ててくれた服を見たり着たりするたび、暗い気持ちになった。店の奥にあった包みの中身は、やはり、暁の服だった。しかも3着。注文したのは3着だったのに、彼は4着も仕立ててくれたのだ。化粧屋の話では徹夜もしていたらしい。

 2着は同じ軍服であり、もう2着は色合いのちがう『制服』だった。生地も手触りも、暁が通っていた高校の制服とほとんど変わらない。ちょっと窮屈なところさえも。仕立て屋は縫製の天才だった。

 彼はもういない。あのおぞましい力を持つ幻灯屋によって、殺されてしまった。

 暁は戦争というものをようやく理解した。

 飴屋は無線屋ともよく会っていた。無線屋はずっと元気がない。目の下のくまが色濃くなっているので、彼も眠っていないのかもしれない。

 一度、飴屋が出かけているときに無線屋が訪れ、暁とふたりきりになったことがあった。そのとき、無線屋はつっかえながら、今にも泣きそうになりながら、話してくれた。

 幻灯屋の『気配』がまるでわからなかったらしい。状況から考えると、幻灯屋は何日もヒガシ町に潜伏していたはずだが、その間一度も彼の気配を傍受できなかったというのだ。

 そんなことは初めてらしい。

 気配が希薄なクロギツネの子もいて、近づいていることになかなか気づかなかったことはあるが、それでも最終的には必ず存在を把握できていた。

 そもそも、寝ているときもいつも無線のスイッチは入れていて、クロギツネの眷属の気配を傍受すると、無線屋は自然と目が覚めていたそうだ。だから〈悪い眼鏡屋〉の件も、今思えばただの見過ごしとは思えない。

 この町か、自分の身に、何か起きているのかもしれない。

 無線屋はラムネ味の飴を舐めながら、暗い顔で語った。

 暁はその話を聞いてから、胸のざわつきが気になって仕方がなくなっていた。不安になっているのか、恐怖しているのか。そんな自分が情けなかった。

 あまり眠れていないことは誰にも話していなかったが、飴屋には見抜かれているかもしれない。それに、そのうちぽろっとクーパーには言ってしまいそうな気がする。良い知らせのない、いやな予感ばかりの日々だけれど、彼の調子は変わらなかったから。ただ、ときどき……、彼は咳をしていた。


 女が裸にされている。

 女は両目から大粒の涙を流している。

 女がバラバラにされている。

 女の首は両目から大粒の涙を流している。


『キリエはね、うまかったよ』


 たまらなくなって、その夜も、暁は深夜に目を覚ましたのだ。

 こんなものを見続けるくらいなら、幼い頃から付き合っている例の悪夢をみたほうが若干ましだ。そんなことまで思うようになっていた。

 障子はほんのりと白んでいる。眼帯をつけて障子にそっと近づき、開けてみると、西に傾いた満月がかがやいていた。

 ぼんやりと月を見つめる。月の大きさや色はほとんど変わらないと思うが、模様はもといた世界から見えるものとだいぶちがう。ウサギは餅をついていないし、カニもいない。狐が……跳びはね、背を丸め、自分の尻尾に咬みつこうとしているように見えなくもなかった。

 こんなふうにぼんやりとするのは、我ながら珍しいことだと暁は思った。暇さえあれば身体を動かしていたから。一分一秒でも惜しかった。かけられる時間のすべてをかけて、強くなりたかった。

 こんな夜、みんなはどうしているのだろう、とも思った。

 飴屋が眠っているところは見たことがなかった。鍵屋はある。トイレに行く際、彼の寝室を横切らなければならなかったから。彼らしく、静かに寝ていた。クーパーは酒屋のガレージか。無線屋は今も起きているかもしれない。人形屋は……。

 そして、家族は。今、向こうも深夜2時すぎなのかどうかはわからないけれど。みんな、どんな夜を過ごしているのだろう――。


 しょきん。


 物音がして、暁は一瞬で身を強張らせた。

 枕元に置いた暫を引っつかむ。しかし、寝間着には浴衣を着ていた。浴衣にはいまだに慣れておらず、動きにくい。


 しょきんしょきんしょきん。


 その音は――鋏の音だ。

 しかし、飴屋の和鋏が立てる音とはとがう。あの音よりもずっとつめたく、硬質で、大きかった。いや、大きくなっている、のだ。音がどんどん近づいている……。


 しょきん――。


 そして、あまりにも、唐突だった。

 寝室の片隅に、赤い狐面をかぶった少年が立っていた。本当に唐突だった。緊張していた暁はまばたきすらしていない。音がすぐ近くで聞こえるから、寝室のすべてをねめつけていた。それなのに、少年はそこにいた。一瞬――いや、それは0.1秒だとか0.01秒だとか、そんなふうに「数える」ことさえままならないあいだの変化。時空の法則そのものが破綻したかのよう。少年はずっと前からそこにいたようにさえ思える。

 その姿を見た瞬間、暁の脳裏に、洪水のように記憶がもどってきた。

 りんご飴。

『よかったらこれあげるよ』

 駅。

『りんご飴嫌い?』

 風にそよぐススキ。

『ようこそ、4年ぶりの天照』

 赤いあかいススキ。


 


 


 赤い狐面の内側で、少年が嗤った。

 見えないけれど、声も漏らしていなかったけれど、それがわかる。

 どうやってここに来たのか、なんの用でここに現れたのか。そんなことはどうでもよかった。暁は、全身の毛という毛が怒りで逆立つのを感じた。

 どうしてこの少年のことを忘れていたのだろう。りんご飴を舐めてしまったことは覚えていたが、誰からもらったものなのかは忘れていた。だが、何も不思議ではない。この国の住民は皆不思議な能力ちからを持っている。

 こいつだ。こいつが。

 こいつのせいで、帰れなくなった。

 もう家族にも四季にも会えない。

 自分は死んだ。

 こいつが殺したのだ。

「久しぶり、天照。やっとこっちに来られたよ……。常夜ノ国は楽しいかい?」

 狐面の奥で少年がそう言った瞬間、暁の理性はぱチんと弾けた。

「……うぉぉぉぉおおおおおおああああアアッッ!!」

 抜刀した。

 刃は満月の光をはね返した。

 憎悪はちりちりと身を焦がしている。同年代と思しきを断つのに、みじんの戸惑いも感じるいとまがない。頭のどこかで赤いススキが揺れている。

 こいつを。


 殺してやる。


 ふふっ。

 少年のかすかな笑い声が聞こえた。

 そして、


 しょっ・きん。





「おッ!? え……、はぁ!?」

 聞いたことのない男の声が聞こえた。

 暁の身体に衝撃が走る。土と草の匂いがした。頬がつめたい。風を感じる。

 気がつくと、暁は草むらの中に倒れ込んでいた。意味がわからない。ほんの一瞬前まで飴屋の家にいたはずだ。そして……、誰かを斬ろうとして……、

 誰を……?

 目の前では、赤いススキが揺れている。

 そしてそのススキと雑草の中に、シルバーの車が止まっていた。四ツ目のセダンだ。デザインは、ミニ・クーパーとはまたちがった方向で古めかしい。ミニ・クーパーはいかにも外国のクラシックカーといった風情だが、その車からは『昭和』を感じた。

 丸い4つのヘッドライトを見て、暁はクーパーが舌打ちしながら言った名前を思い出した。

 ハコスカ。

 日産のスカイライン。

「女……、……フハッ!」

 男の声は、その車のそばから聞こえた。

 車に寄りかかって煙草を吸っている男がいたのだ。彼はすでに車を離れ、近づいてきている。暁は立ち上がった。暫の柄を握る手に力がこもる。

 クーパーとも、飴屋ともちがう。ヒガシ町の住民と明らかにちがう。それは、ひと目で危険だとわかる男。もしかしたら偏見で終わるかもしれないが、身体が勝手に警戒していた。

 男の両目は蒼く、闇ににじむように光っている。それはクーパーの目とまったく同じ色と光だった。髪型はリーゼント。灰色のスカジャンを着て、灰色のジーンズを履いている。背は180センチくらいあるだろう。体格は引き締まっている。がっしりしているが肉づきは程よく、アクション映画の俳優を思わせた。

 クーパーとの共通点はまだあった。若くはないが、年齢不詳なのだ。30代にも40代にも50代にも見える。

「天照か! フハッ、なんだよそれ。マンガかテメェ! ハハハ!」

 太い声で男は嗤う。自分の左目をつついて嗤うのだ。言いたいことはよくわかった。眼帯がおかしいというのだろう。

「……誰?」

「なんだよ、オレのこと聞いてねェのか?」

「……ハコスカ?」

「知ってンじゃねェか、ふざけんなこのガキ。ハハハハ!」

 怒っているのか笑っているのか、よくわからない。彼の「ふざけんな」はもしかしたら、電器屋の「バカヤロ」や「コノヤロ」と同じで、大した意味を持たないのかもしれない。

「そうだよ。1968年式、日産スカイライン2000GTの付喪神だ。昔も今も『ハコスカ』って呼ばれてるぜ。テメェは?」

「…………」

「なんだよ、名乗り損かよ。ハハハッ、オレがバカみてェじゃねェか。クソ野郎が!」

 悪態をついたわりに、彼の顔にはにやにや笑いが浮かんでいた。

 ハコスカの姿は、背後の車とどことなく似ている。クーパーの姿が本体となんとなく似ている気がするのと同じだ。

 クーパーは何をどうしてもハコスカには勝てないと言い切った。確かにミニ・クーパーよりは大きいが、車に詳しくない暁には、なんという数値がどう車の良し悪しを左右するのかさっぱりわからない。

「ジジイは元気か?」

「……誰のこと?」

「クーパーSだよ。ぶっ壊れてなけりゃまだヒガシ町にいるだろ?」

「…………」

「ったく無口な女だな、つまらねェ!」

 周囲は赤いススキがそよぐ草原だが、ハコスカの背後には町の入り口があった。徒歩でも10分とかからず辿り着くだろう。

 ニシ町だ。間違いない。

 ヒガシ町のたたずまいは見慣れつつあったから、そのちがいにはすぐに気づいた。同時に、肝も背筋もぞくっとした。夢遊病にでもかかっていたというのか。ヒガシ町の中心街からニシ町の入り口まで、どうして一瞬で移動してしまったのか――。


 しょきん。


 ここに来たいきさつを思い出そうとすると、鋏が閉じるつめたい音が脳髄の中心で響きわたる。きりっと頭が痛んだ。

 少し強い風が吹いた。暁の髪が乱れ、赤いススキがおじぎを繰り返す。風はニシ町の中から吹いてきたようだった。……得体の知れない、不快な匂いがした。

「まァ、安心しろよ。オレはここのキツネどもとちがって、テメェの肉の味には興味ねェからな。……よく見りゃわりとマブいじゃねエか。ブチ込んだらどんな声出すのか楽しみだ」

 ぞわッ、と暁の全身を撫でる感情があった。

 恐怖ではない。

 とてつもない怒りだった。

 こういう、性欲の塊のような男が、暁は大嫌いだ。この世でいちばん嫌いだ。生き物が繁殖のために性欲を持つのは仕方がないことだと理解しているつもりでも、ときには、性欲というものは穢らわしくて、醜くて、この世に存在してはいけないものだとさえ感じてしまう。

 その欲望が、あの秋の日に、暁と四季からまっとうな人生を奪った。

 自分たちは、いくら説明しても理解されない、『かわいそうな子』になってしまった。

 ハコスカは煙草を投げ捨て、最後の紫煙を吐いてから歩み寄ってきた。

 スカジャンに刺繍された柄が、狐面と鬼火であることがわかってきた。

 暁は震えるほど強く暫の柄を握りしめる。

「――何をブチ込むって?」

「おいおい、なにそんな怒っ……」

「近づくなこのクソ野郎ォアッ!!」

 暁は一歩だけ前に踏み出すと、怒りに任せて暫を振り下ろした。人間の姿をしたものを斬ることに、なんのためらいも感じなかった。

 かがやく白刃はハコスカの肩口に咬みつき、喰い破った。ハコスカは獣の咆哮のような悲鳴を上げた。血が噴水のようにしぶく。斬れた肋骨と血まみれで動く心臓が見えた。致命傷だ。

 ああ、でも忘れていた。クーパーが、暁の目の前で今まで2回頭をなくしているということを。

「あッがッばッ、ッ、クッ、このッ、がアァッぃいいいッてェエエエッッ!!」

 げぼげぼ血を吐きながら、ハコスカは袈裟斬りの傷を押さえて後ろによろめいた。

「いってェェだろうがッ、」

 その蒼い目の中の瞳孔は、アーモンドのかたちになっていた。

 エンジンが唸る音がし、

「こんクソガキャアボケェェ!!」

「ッ!」

 ハコスカが一瞬で間合いを詰めた。

 恐らく時速60キロ。

 血にまみれた拳が、暁の胸の下をまともに殴りつけた。

 ぐさりと拳が突き刺さったかのような痛み。車に撥ねられたかのような衝撃。どちらも暁は経験がなかったが、たぶんこんな感じだろう。暁はティッシュ箱のように軽々と吹っ飛ばされていた。

 今まで沈黙していた日産スカイラインのエンジンがかかり、ヘッドライトがカッと光った。そのボンネットには大きな傷がついていた。威嚇するかのように、ぶるんぶうんとエンジンを空ぶかししている。その力強い音を聞けば、いくら車に無知でも、ハコスカはミニ・クーパーよりパワーがはるかに上だと容易にわかった。

 暁は――息ができなくて、数秒悶絶していた。どこか折れたかもしれないと頭の片隅で思ったが、たぶん大丈夫だ。こんな、たった一撃で戦意をなくしたりはしない。ハコスカは血をどばどば流しながら、鬼の形相で手を伸ばしてきた。

「い、いきなりテメェふざけんなッ、ばっ、ゲフッ、ぶった斬るヤツがあるかテメェッ、女ならきゃあやめてとか言ったらどうなん……」

「近づくなって言ってんでしょこのクズ!!」

「だッッヅ!」

 暫はどこかに落としてしまった。なので、暁は拳を繰り出した。ハコスカは勢いよく詰め寄ってきていたので、フルパワーのストレートが横っ面にクリーンヒットした。それは意図せずカウンターになった。後ろで、スカイラインがごションと1回揺れた。

 だが……。

 ようやく気づいた。

 斬っても、殴っても、。温かい人形を攻撃しているかのような感覚。それはきっとこの『男』が本体ではないから。謎に満ちた、にすぎないからだ。

「調子のンなこのアマァア!!」

 不公平だということにも気づいた。

 オプションを攻撃しても本体にはあまりダメージを与えられない様子なのに、向こうの攻撃には確かな質量がある。本体由来の馬力でもって殴りつけてくる。

 暁はまともに顔を殴られた。意識が一瞬暗転し、視界で火花が散り、耳鳴りしか聞こえず、わけがわからなくなる。脳味噌が揺れるとはこのことなのか。

「痛ェんだよクソが!!」

 もう一発。

「轢き殺すぞテメェ!!」

 さらに一発。

「死ね! くたばれ! ブッ殺してやる!!」

 蹴られて、殴られて、叩きつけられた。自分の顔と身体がどうなっているか、もう暁には何もわからない。痛いのかどうかさえわからない。息がうまくできない。

 だが、片足をつかまれ、ぐいっと持ち上げられたのはわかった。

「いや、殺す前に一発――」

「……ッ!」

 ほとんど無意識のうちに、空いているほうの足でハコスカの股間を蹴り上げていた。車の四ツ目のヘッドライトが一度チカッとまたたき、ハコスカは妙な声を上げて暁の足を離した。車なのに、普通の男と急所は同じらしい。いやそもそも今気づいたが、こいつは性行為ができるのか。車のくせに。

 ――このクズ。死ね。殺すのはこっちよ。死んじまえ。ぶっ殺してやる。

 暁は意識のすべてで呪い、のどの奥でうめきながら草むらを這いずった。身体じゅうが痛いということがわかった。鼻がつまっている。血の味がする。たぶん鼻と言わず口と言わず、顔じゅうから血が流れているのだろう。ぽたぽたと土のうえに赤い水玉模様ができていく。

 グゥワン、と、スカイラインのエンジンが吼えた。

 本当に轢き殺すつもりか。

 さすがに、車そのものが相手では――。

「スカイライン」

 少し離れたところで、ひどく低い声が上がった。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

応援した人

応援すると応援コメントも書けます

ビューワー設定

文字サイズ

背景色

フォント

Androidでは正しく
設定できないことがあります。

応援の気持ちを届けよう

カクヨムに登録すると作者に思いを届けられます。ぜひ応援してください。

新規ユーザー登録無料