伍ノ弐


 どれくらい、沈黙の中でひとり、座っていただろうか。

 外で物音がしたので、暁は鍵屋の店舗に行ってみた。鍵屋が連れてきたのは無線屋だった。無線屋はミニ・クーパーのボンネットを開け、中を覗き込んでいた。

 エンジンルームの中は配線がごちゃごちゃしていた。が、エンジンが少し煤けているところを除けば、とてもきれいに手入れされているように見える。そして車に関してはまったく無知な暁から見ても、使われているエンジンやパーツがかなり古いことがわかった。

 50年現役で走る車は化物、とクーパーは言った。これを見る限りだとそれももっともなような気がした。

 無線屋は慎重にエンジンを調べ、やがて、隙間を覗きながらあっと声を上げた。

「ぼ、ボルトがズレてるぞ。え、エンジンオイルが抜けちまってる。新しいやつ、入れないと。エンジン焼けて、う、動かなくなるぞ。あいつの場合、それ、し、死ぬってことじゃないか? エンジンってし、心臓だもんな」

「エンジンオイル? ……油屋にあるだろうか」

「あ、あると思うけど、え、エンジンオイルにはいっぱい、種類あるんだ。ち、ちがうの入れたら、ハラ壊すぞ。たぶん」

「……なんかさっきうわごとで、メーカーはなんでもいいけど硬いオイルがほしいって言ってたけど。オイルに硬いとかあるの?」

 暁が言うと、無線屋が振り返った。はからずもそれが 「正解」だったらしく、彼の表情は明るくなっていた。

「そ、そそそそれだっ。硬いやつ。鉱物油なんだ、合成油のほうじゃなくて。なるほど。ふふ古い車だもんな。お、おれちょっと油屋行ってくる」

 無線屋は背中を丸めたまま目抜き通りに向かっていった。競歩のような、独特な走り方だ。

 彼の背中を見送りながら、暁は鍵屋といっしょにほっとため息をついた。とりあえずクーパーの不調の原因は判明したし、対処方法もあるらしい。しかし放っておけば大事になったような雰囲気でもある。

 無線屋は重そうなペール缶と道具箱を持って戻ってきた。ペール缶に書かれた文字は、暁には読めない。けれど、きっと『鉱物油』というようなことが書かれているのだろう。

「車もいじれるんだ、無線屋」

「む、無線ほど得意じゃないけどな。そ、それにこいつ、古くてた、単純な構造だから。い、今ののココンピュータで制御されてるのとかは、む、無理だと思う」

 無線屋の手つきは、確かにあまりこなれてはいなかった。ひとつひとつの動作を確かめるように、慎重にオイルを注いでいく。

「こ、こんなもんかな」

「おう! OKやで!」

「あっ」

 無線屋がエンジンルームから頭を引っ込めた次の瞬間、ひとりでにボンネットが閉まった。おまけに、ぶるるんとエンジンがかかった。

「助かったわあ、おおきに」

 ジャケットを小脇に抱えたクーパーが外に出てきていた。顔に貼られたガーゼはそのままだが、さっきまでの弱りようが嘘のようだ。無線屋はちょっと嬉しそうに微笑んだ。

「お、おれ、役に立てたみたいだな」

「エンジンオイル抜けとったんか。いやあ危なかったわあ。気づかへんなんてアホやなあ俺」

「き、気をつけろよ。あ、あと、礼は飴でいいぞ。飴くれっ」

「今飴ちゃん持ってへんよ」

「じじゃあこ、今度でいい。ブルーハワイ味……」

 無線屋は急に何かを思い出した様子で、鍵屋を見た。

「そそそういえば。く、くじ屋の前が騒がしかったぞ。人があ、集まってた。ひ、干物屋だったかな、大声上げてたぞ」

「そうか、行ってみよう」

「送るか?」

「いや、なのだから、君はしばらくゆっくりしていきたまえ。暁はどうする?」

「……ここにいる」

 鍵屋は頷くと、無線屋といっしょに出かけていった。

 ぱすん、とミニ・クーパーのエンジンが切れる。不調で切れたのかと思い、暁はぎょっとした。ほとんど無意識のうちに、目が傍らのクーパーに向けられる。クーパーは……笑っていた。

「お前、俺のほっぺたつねったろ?」

「……起きてたの?」

「寝てたちゅうか朦朧としてたんや。せやけど、なんとなーくわかったぞ」

「つねったんじゃなくてつまんだの」

「なんでそんなことすんねん、もー。無理やり脱がすし」

「……不思議だったから」

 暁は、昨日の出来事を思い出した。

 斧が飛んできて、クーパーの首が飛んだ。そのとき自分は何もできなかった。

 人形屋と鍵屋はクーパーのことを何も心配せず、すぐに車を降りた。べつに彼らが薄情というわけではないだろう。暁も、クーパーは死なないことをすでに知っていた。彼らも知っていただけだ。

 それでも暁は……、首のないクーパーに対して、何かしてやりたかった。人形屋たちと同じ態度を取れなかったのだ。

「ほんとにもう大丈夫なの?」

「お。なんや、心配してくれんのか。……ああ、ゆうべもそうやった。お前、優しいなあ」

 お人好しなだけかもしれない。

 褒められていることはわかっているのに、暁は陰鬱な気持ちになった。本当はもっと、非情になったほうがいいにきまっているのだ。だからこそ、ある日電車に乗る前に、あんなに疲れていた。

 特に今いる環境においては、きっと、昨日の人形屋や鍵屋のように、情に流されずすぐに行動できたほうがいいだろう。奇怪な因習にも似た、終わりのない戦いが続いているこの世では。

 クーパーの笑顔がまぶしかった。暁はたまらずうつむいていた。

 耳元に、クーパーの息がかかる。


「I will protect you even if it costs my soul, "AMATERAS"」


「……えっ」

 クーパーは何ごとかささやいたけれど、それは美しい英語だった。英語の成績がいつも赤点ギリギリだった暁だ。何を言われたのかさっぱりわからなかった。

 わかったのは、最後の『アマテラス』だけ。

 しかしそれも、直後に耳元で起こった「チュッ」という音で、暁の脳髄からは吹き飛ばされてしまった。

「ちょっ、クーパー、」

 なにするの。

 暁は抗議がのどに詰まって出てこなかった。クーパーはそれ以上何も言わず、ただ笑ってウインクをして、車に乗り込んだ。そして颯爽と行ってしまった。

 暁は足が震えているのか身体全体が震えているのか、それともぜんぜん震えていないのか、よくわからなくなっていた。とりあえず恥ずかしい。まわりには誰もいないのに、なにもかもから隠れていたい気持ちだ。いたたまれないと言えばいいのか。こんな経験は初めてだ。オースティン・ミニ・クーパーSはとんでもないことをしてくれた。車のくせに。

 暁は逃げるようにして鍵屋の住居に飛び込んだ。クーパーが寝ていた布団が目に飛び込む。ガス臭くなってしまっていたので、庭の物干し竿にかけておくことにした。

 自屋として使わせてもらっている部屋を横切るとき、隅に置いた包みが目に入った。昨日から続くゴタゴタですっかり失念していたが、それは、仕立て屋が仕立ててくれた服だった。

 暁はようやく包みを開けた。目に飛び込んできたのは、濃いカーキ色。

「え。……なに、これ」

 それはどこからどう見ても、軍服だった。外套と軍帽まである。ブーツを履けば完璧だろう。何かのアニメキャラのコスプレにしかならないような気がしたが、生地はかなりしっかりしていた。本物の軍服など見たことも触ったこともないが、恐らく、これくらい分厚くて丈夫な布で作られているはずだ。

『丈夫で動きやすくてかわいいのを3着仕立ててあげる』

『そう。あなたはカッコいいのがいいのね? 任せてちょうだい』

 確かに仕立て屋はオーダーのとおりに作ってくれた。

 ――でもなあ。まあカッコいいことはカッコいいだろうけど……。

 あまり気は進まなかったが、代金は組合から支払われるはずでもあるしと、暁は着替えてみることにした。

「うわ。ぴったり」

 思わず声に出るほど、サイズはばっちり。いかにも丈夫そうな布なのに、ごわごわすることもなく、動きやすかった。暑すぎもせず寒すぎもしない。それは不思議な感覚でもある。ただ……、やっぱり、軍服で出歩くのはちょっと恥ずかしい。

 町の住民の格好は前時代的ではあるものの、軍服姿は見かけなかった。浮いたりしないだろうか。そうだ、これではかえって目立ちすぎて敵から狙われるのでは。

 ――まぁいいか……。せっかく作ってくれたんだし……。

 気になるのは、クーパーや飴屋たちの反応だ。組合員が「なんだそれ」と言うようなら、仕立て屋には申し訳ないが、制服をメインにさせてもらおうと思った。

 暁が着替えてからしばらく経って、鍵屋だけが戻ってきた。

 着替えた暁を見て、鍵屋はちょっと目を大きく開き、眼鏡を直した。……無言だ。あきれているのかみとれているのか、鍵屋の表情からは感想が読み取れない。

「……どう?」

 不安になって暁が尋ねると、鍵屋はふわっと微笑んだ。

「よく似合う」

 鍵屋は冗談を言うような男ではないし、馬鹿にした様子もなかった。その反応を見て、暁はようやく安心した。この町では「へんな格好」に当たらないようだ。あとは、同じ世界出身のクーパーがどう言うかだ。

「そう。よかった。なんかコスプレみたいで実はちょっと恥ずかしいんだ」

「こすぷれ? すまない、私はあまりあの世の文化には詳しくないのだよ」

「ええっと……、説明が難しいや」

「そうか。クーパーなら知っているかな」

「たぶん。ねえ、ほんとにへんじゃない? この格好」

「ああ。一時期だが、組合には制服があったんだよ。それと似たような感じだった。しかし着るのはべつに義務ではなかったから、だんだん皆出動のたびに着替えるのが面倒くさくなってね。言い方は適切ではないかもしれないが、『自然消滅』してしまった。……私の制服も、探せばどこかにしまってあると思うが……」

「ふうん」

 あまり組合員が軍服を着ている姿は想像できない。和装の飴屋や人形屋も着たことがあるのだろうか。でも、なんとなく、似合いそうだ。

 そして組合とは本当に軍隊なのだと、つくづく思えた。

「クーパーはもう行ったのか」

「……うん。それで、くじ屋の騒ぎってなんだったの?」

 暁が尋ねると、鍵屋の顔色が曇った。

「今日は『隔週くじ』の当選番号の発表日だったのだが、店が開いていなかったんだ。賞金や賞品はさほど大したものではないが、この町は娯楽が少ないから、楽しみにしている者も多い。早く開けろと騒いだようだ。……私に開けられない鍵はない。とりあえず、私が代わりに開けたのだが……くじ屋の姿が消えていた」

「え……」

「少し口は悪いが、仕事ぶりは真面目な男だ。発表日を忘れたことなどこれまでに一度もなかった。当選番号の抽選をした形跡すらなかったから、昨日のうちに何かあったのかもしれない」

「いやな予感しかしないんだけど」

「私もだ。くじ屋は町の中央にある。もしクロギツネの眷属がこんな町の真ん中まで入り込んでいたのだとしたら……」

 暁は、鍵屋と同時にため息をついた。

「今日は少し様子を見よう。軟禁するような真似はしたくないのだが、外には出ないでもらえないか」

「わかった」

 また、家の中で腕立てと腹筋とスクワットをして時間を潰すしかなさそうだ。

 いや、たまには頭を使ったほうがいいか。無線屋が店の片隅に置いていったエンジンオイルのペール缶を見て、暁はひらめいた。

「ねえ、鍵屋。よかったら、この国の字を教えてくれない?」

 鍵屋は納得したように大きく頷いた。

「いいとも。むしろ、今まで気がつかなくてすまなかった。新聞も本も読めないのでは退屈だろう」

「あんまり本読まないようにしてるんだけどね。目に悪いから」

「なに、明るいところで適度に読めば問題ないはずだ。……眼鏡をかけている男が言っても、説得力はないかもしれないが」

 鍵屋はうっすらと苦笑いすると、どこからか新聞を持ってきた。

 読めそうで読めない文字がびっしりと並んでいる。

 暁はずいぶん遅くまで、明るい居間で鍵屋とともに過ごした。鍵屋は静かに、しかし熱心に文字を教えてくれた。

 英語よりも、覚えるのはずっと簡単そうだった。要は文字がちがうだけで、文法は日本語と変わらないのだ。よくよく考えてみれば会話はまったく問題なくできている。クーパーは1年ほどで新聞が読めるようになった、と鍵屋は語った。

「しかし、懐かしいな。こうして天照に文字を教えるのは久しぶりだ」

 小休止に入ったところで、鍵屋はお茶を淹れながら目を細めた。

「天照が来るのはけっこう珍しいこと?」

「ああ。数年にひとりといったところだ。君の前に来たのは、4年前だった」

「……そのひとは?」

 あまりいい答えは期待していなかった。そして思ったとおり、鍵屋は目を伏せて、そっとかぶりを振った。

「あっという間にクロギツネの眷属に捕まって、喰われてしまったよ。ヒガシ町にも辿り着けなかった」

「…………」

「その前の天照も、その前の前の天照も……。我々は護りきれなかった。情けない限りだ。そして、今回の君にしてもそうだと言える。君自身が強かったからなんとか保護できたものの、今回もニシ町に先手を打たれたのだからな」

「どうしてクロギツネの子は天照を喰べようとするの?」

「……希望だからだ。天照は、お狐様の〈白い意思〉が喚び寄せた、常夜ノ世界の太陽。結婚というのは……、良いことであり、めでたいことだろう? それを阻止するのは、悪いことだと思わないか?」

 鍵屋は歯切れが悪くなった。嫁入りの話となると、彼はこんなふうに冷静さを少し失う。

 暁は飴屋から聞かされた話を思い返した。

 ヒガシ町の住人は、善行を積もうとしている。お狐様が喚び寄せた娘と結婚して一生護るというのは、きっと、彼らにとって究極の善行なのだろう。そして天照の嫁入りを阻止し、あまつさえ喰い殺すというのは、恐るべき悪行なのだ。

「しかし、もっと単純な理由なのかもしれない。理解し難い話なのだが……天照はかなり美味いそうなんだ」

「……鍋屋の角煮より?」

「恐らく、クロギツネの子にとっては」

「シロギツネの子は、喰べたいと思わないわけ?」

「君は私を喰いたいと思うのか?」

「ぜんぜん」

「それと同じだよ。とはいえ……、我々は人間とは言えないからな。君が信用できなくても無理はない」

「……信用できないひとの家に居候なんかしない」

 鍵屋がぐっと言葉に詰まり、目を見張っていた。彼はわずかに目を泳がせてから新聞に目を落とした。

 授業を再開したい気になったように見える。

 暁は鍵屋が淹れてくれたお茶を飲み干すと、新聞に目を向けた。




 仕立て屋の店の奥で、4日間ずっと動き続けていたミシンが止まった。

「よーっし。でーきーたっ」

 仕立て屋はの天照の服を広げる。オーダーは3着だったが、サービスでもう1着作ってしまった。勝手に自分でやり出したことではあるが、おかげで徹夜するはめになった。

 髪もぼさぼさだし、お肌もボロボロ。早く化粧を落として、風呂に入らなければ。

 しかし、その前に。

 彼は仕立てた服を1着1着丁寧にたたむと、棚から包装紙を出し、これまた丁寧に包んでいった。

 真っ先に仕立てた組合の制服風の服は、気に入ってもらえただろうか。サイズに関しては心配していない。今まで仕立てた服が体型に合わなかったという苦情は一件もない。オートクチュールである以上、それはあってはならないことなのだ。

 明日……、いや今日、この3着を飴屋か鍵屋に持っていく。そのとき暁があの制服を着ていれば、それは「気に入った」ということだ。仕立て屋はそんな判断基準を定めた。

 それにしても、あんなに背が高くて筋肉質な天照は初めてだ。顔はとてもかわいい。将来はかなりの美人になるはずだ。眼帯をしているのはまさに玉に瑕だが、わけありならば仕方がない。

 時計屋で買ったねじ巻き式の柱時計が鳴った。

「……え?」

 時計は深夜2時14分を指している。もうこんな時間になっていたのか。いや、問題はそこではない。

 なぜ、今、鳴った?

 時計屋が鳴るように仕組んだのか?

 この時間に――

「!」

 注意しろ、と。

 仕立て屋は店舗に続くドアを見た。

 そこに影が、

「さぁさ! お立ち会い! 今宵の主役はあんただよ! 観客はいない。しかーし、〈良い仕立て屋〉さん、あんたの勇姿は、永遠に焼きつけられるのさ。ほれ、このとおり!」

 ばしッ、と虹色の光。

 熱い。

 あ、づい。

 あ゛、

「ア゛ァァアアアアアアアアアアアアア!!」


 ヂュッ。



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