惨ノ弐


「次は人形屋だ」

「ほいきた」

「なんかタクシーみたい」

「ええやんタクシー。博物館で展示されとるだけより1万倍マシや」

「博物館か。そう言えば身の上話で聞いたな。おまえさん、じいさんを通り越して化石なんだなあ」

「化石? 甘いわ。バケモンやで俺」

「じゃあ、タクシーやればいいのに。何か仕事しなきゃならないんでしょ?」

「メーターつけなあかんやん? なんやハラ壊しそうでなー」

 暁にはまったく理解できない理屈が返ってきた。古い車なので無理にパーツを追加すると調子が悪くなるということだろうか。

〈良い人形屋〉の店は鍋屋から少し離れていた。広くにぎやかな通りから、路地に入ったところにあった。

 道はかなり狭く、ミニ・クーパーでさえぎりぎり通れる程度だ。車同士ですれ違うのは不可能に近い。この町ではクーパー以外に車をほとんど見かけないので、あまり問題はなさそうだが。

 暁がこの町でこれまでに目にした他の車は、ぼろぼろで錆びだらけのオート三輪2台だけだった。あの2台も喋ったり飲み食いできたりするのだろうか。

 車を降りると、静寂が暁の身体にまとわりついた。人の気配すら感じない。提灯を軒先に吊るしていない建物が多く、夜の帳が落ちている。時間帯から言えばまだ午前中にあたるはずだというのに、このあたりは空気さえ深夜2時の眠りに落ちているようだった。

 人形屋の軒先には、ぼんやりとした光を放つ提灯がひとつだけぶら下がっている。提灯には茶運び人形の絵が描かれていた。

 飴屋は入る前に軽く戸を叩いた。今まで無言でいきなり戸を開けていたが、人形屋は例外なのだろうか。

 店内は薄暗く、かなり殺風景だった。壁や床が年季の入った木造であることも、暗さに拍車をかけている。壁には白い狐面がかかっていた。今まで見たどの狐面よりも、無表情に見えた。装飾はほとんど入っていない、完全な白面。少し薄汚れているだろうか。

 店内には誰もいなかった。

 ……いや、若い女がいる。

 壁際の椅子に座ってじっとしている。

 暁はその人物に目をやって、ぎょっとした。人間ではなく人形だった。美しい瑠璃色の振り袖を着た、美しい顔立ちの。うつむき加減に座るその姿は、何かを憂えているかのよう。そして、まるで生きているかのようだった。

 奥の障子が開き、中肉中背の男が現れた。暁よりも少し背が高い程度だ。飴屋と同じ和装だ。青みがかった黒い単着物のうえに、同じ色の羽織を着ている。

 薄暗い店の中、彼の金色の双眸がきらりと光る。

 年の頃は30代なかば、飴屋と同年代。黒髪には強い癖があった。顔立ちはかなり整っていて、瞳が大きく、かなり目力がある。

 歌舞伎俳優、あるいは老舗の若旦那。そんな、凛としたたたずまい。しかしその顔は、壁際の人形同様、強い憂いを帯びていた。

 金色の瞳は、真っ先に暁をとらえた。そして――彼は、不愉快そうに眉をひそめた。

「町が騒がしいと思ったら、天照が来たのか」

「そうさ、人形屋。顔合わせのついでに、組合費をもらいに来た」

「ふん。まあ確かに、これから何かと入り用になるだろうな」

 落ち着いた声だが、語調には冷たさがある。人形屋は一度奥に引っ込むと、紙幣を持って戻ってきた。飴屋に手渡した枚数は、3枚以上あったように見えた。

「顔合わせと取り立て。これでもう用は済んだだろう」

「ああ」

「帰ってくれ」

 人形屋は冷たく言い放つと、暁たちにくるりと背を向けた。

 この態度が人形屋の常であるのか、飴屋もクーパーも咎めもしない。それどころか、飴屋はまったく気にしない様子で、人形屋の背に声をかけた。

「明日の夜、鍋屋の小料理屋で角煮を食う予定だ。おまえさんも手が空いたら来てくれないか」

「…………」

 人形屋は足を止め、わずかに振り向きかけた。

 暁と目が合った。

 しかし結局何も言わず、人形屋は障子の奥に消えた。



「あいつほんま辛気くさいなあ」

 車に乗り込んでからクーパーはぼやいた。彼の性格なら人形屋の前ではっきり言ってやりそうなものだが。クーパーは人形屋が苦手なのだろうか、と暁は思った。飴屋は苦笑いしている。

「わけありなんだ。大目に見てやってくれ」

「せやけど暁に失礼やろ、あれ」

「根は悪い奴じゃないし、熱いところもあるんだぜ。暁、あいつを許してやってくれ」

「よっぽどのわけありっぽいね」

「実はそうなんだ」

「じゃあ、気にしない」

「すまんなあ」

「なんでお前が謝んねん。……次は?」

「時計屋だ」

「また辛気くさい男か、もー」

 ミニ・クーパーは狭い路地を走り抜けた。

 ヒガシ町の道はかなり入り組んでいて、暁はもうどの方角に飴屋があったかもわからなくなっていた。しかし、クーパーは道を完全に把握しているらしい。本当にタクシー業に向いているのではないか。

 時計屋もまた、あまり人通りのない、静かな路地の片隅にあった。

 西洋風の外観だ。両開きの扉のガラス越しに、たくさんの掛け時計が見える。店内はかなり明るく、金色の光が店の外に漏れていた。

 時計屋は真正面のカウンターに座り、時計をいじっていた。

 暁たちが中に入ると――

 店じゅうの時計が鳴った。鳩時計も掛け時計も柱時計も、いっせいに時を知らせた。

 奇妙なのは、その長針が真上まで行っていないこと。実に中途半端な位置で止まっている。

「――時間どおりだな。来たのか、新しい天照が」

 顔を上げた時計屋は、30歳前後の白人男性だった。色褪せた金髪に、瞳は――まるでペリドットのようなペールグリーン。目が合った瞬間、暁ははっとした。彼の瞳のかがやきが、あまりにも美しすぎて。そして、この町においては異質すぎて。

 奇妙なことにも気がついた。この店の壁には狐面がなく、かわりにスズメバチの顔をかたどった面がかかっていたのだ。

「時計屋。おまえさんのことだからとっくに知っているんだろうが――」

「天照との顔合わせと、今月の組合費の徴収だな。知ってたさ」

 時計屋はカウンターのうえに置かれていた3枚の紙幣を、飴屋に差し出した。それから、いじっていた腕時計の裏蓋を閉めた。

「これは俺から、天照に。時計が必要だろう?」

「それは有り難い。今朝、時計はないのかと言われてな。……暁」

 暁はカウンターに歩み寄り、差し出された腕時計を受け取った。

 革ベルトの色はボルドー。文字盤はスケルトンだ。中で動く真鍮色のムーヴメントが見える。いくつか、きらりと光る赤い石があった。ルビーだろう。

 文字盤に刻まれた数字らしきものは相変わらず読めそうで読めない未知の文字だが、全部で12個だった。どうやらこの世界も、一日は24時間のようだ。時計は12時15分を指していた。

 運動の邪魔になるので、暁は今までめったに腕時計をつけたことがなかった。でも、この時計はひと目で気に入った。

「ありがとう」

「迷ったが、電池式にしておいた。交換は簡単だ、素人にもできる。衝撃にも強くしておいた」

 時計屋の目がすっと動いて、クーパーをとらえた。

「あんたの時計は問題ないか、クーパー?」

「ええ調子やで」

 ぐいっ、とクーパーが左腕を伸ばして親指を立てた。暁は今まで気づかなかったが、彼もお洒落でよく似合う腕時計をしていた。文字盤は銀色。ベルトは白だが、ステッチが深緑……もとい、ブリティッシュ・レーシング・グリーン。

「それならいい。飴屋」

「ん?」

「俺にはやっぱりデウス・エクス・マキナは荷が重い。未来を変えてくれ」

「よくわからんが、わかった。時計屋」

 時計屋はほんの少しだけ哀しげに笑った、ような気がした。



「なんだか不思議な人だった」

 車に乗り込んでから暁が正直に言うと、飴屋とクーパーも同感だとばかりに相槌を打った。

「おれにもあいつが考えていることがよくわからないんだよなあ」

「俺と同じで流れもんなんやろ?」

「ああ。いつの間にかいて、いつの間にか組合に加わっていたんだ」

「ほんとに不思議な人。それに……気がついたことがあったんだけど」

 助手席の飴屋と運転席のクーパーが、同時に振り返った。

「今までまわってきたお店、どこの壁にも狐のお面があった。鍋屋は見当たらなかったけど、たぶん本業のほうのお店じゃなかったからでしょ?」

「おお、気づいたか」

「でも時計屋の壁に掛かってたのは、蜂のお面だった」

「それについては、おいおい話そう。まあ、時計屋は特別だということさ」

 飴屋は帳面を取り出すと、ページをぱらぱらめくった。

「あとは眼鏡屋と無線屋だな。ここから近いのは――」

「どっちかてゆうと、眼鏡屋やろか」

「じゃあ、先にそっちだ」

 車は大きな通りに戻り、しばらく走った。

 眼鏡屋はヒガシ町の比較的端のほうにあった。町の入り口付近、と言い替えてもいい。もう少し先に行けば建物はなくなり、やがて野原に入って、お狐様のお社に向かう道につながるらしい。そして――さらに向こうには、ニシ町がある。

 眼鏡屋は、暁にもすぐそこが『眼鏡屋』だとすぐにわかる店だった。眼鏡が描かれた看板が掛かっていたから。

 しかし、店内が、暗い。

 飴屋はちょっと首を傾げて中の様子をうかがい、戸を叩いた。

 時刻はすでに12時半をまわっている。町も完全に動き出していた。すでに、準備中だと怒られるような時間ではない。

「なんや、休みか?」

「年中無休のはずだがなあ。……ほら、開いているだろう」

 飴屋は眼鏡屋の戸を開けた。

 そしてすぐに立ち止まった。

 どうかしたのかと歩み寄る暁に、飴屋は振り向かず、すっと片手を上げる。そこで止まれ、こっちに来るな、と。

 暁は、ぞわりと総毛立った。

 眼鏡屋の店舗の暗闇からは、えも言われぬ黒い気配が押し寄せてくる。

 飴屋がもう一歩奥に踏み込んだ。その瞬間だった。


 どぼおん、と黒い奔流が店舗の中から噴き出し、暁は道に吹き飛ばされた。


 飴屋は?

「飴屋!」

 クーパーもバランスを崩したのか、地面に片手をついている。もう片方の手は帽子をしっかり押さえていた。

 暁を吹き飛ばした闇は、打ち水のように道にへばりついていた。かと思えば、闇はぐうと。粘液のように伸び上がった闇は、夜の闇よりも深く黒く――暁の顔を、覗き込んできた。

 めきゅり、と闇が。闇の中に、血走った眼球がひとつ現れた。暁と目が合った瞬間、その眼球のまわりに、ふたつみっつと眼球が泡のように増える。

『あばでらずぅ?』

 ごぼごぼというあぶくが立てる音が、声となって降り注ぐ。

『あ、あ、あまでらず』

 今や闇の表面には、無数の眼球が浮き上がっていた。

 まばたき。

 闇の中から、鉤爪をそなえた腕が――。

「暫!!」

 暁が叫んだ次の瞬間、右手に質量があらわれた。飴屋の家のどこかに置いてきた太刀・暫は、今、暁の手元にある。すらりと抜くと、光が弾けた。闇の塊は奇怪な声を上げ、同時にすべてのまぶたを閉ざす。

 その隙に、暁は刀を振り下ろした。刃の軌跡は虚空に三日月の残像を焼きつけ、闇をたやすく斬り裂いた。

 焦げ臭い匂いと、黒煙が立ちこめる。闇の塊は悲鳴のような音のようなものを上げながらふたつに分かれ――弾け飛んだ。やったかと思ったが、甘かった。分裂しただけだ。

 眼球のひとつひとつが狐のもののような尾を生やし、蜘蛛の子を散らすように飛び去っていく。いくつかは暁に立ち向かってきた。眼球がぱっくりと割れ、凶悪な牙を生やしたあぎとと化した。

「……ッ!」

 斬り払うには小さすぎる。このままでは咬みつかれる。

 破裂音。

 それが生まれて初めて聞く銃声だということに、暁はすぐには気がつかなかった。

 銃声、銃声。

 火薬が炸裂する音が鳴るたび、目玉の化け物は弾け飛んだ。

 ばっと後ろを振り向けば、クーパーが銀色のリボルバーを抜いていた。銃など得意ではないと言っていたのに、百発百中ではないか。

 周辺から悲鳴が上がり始めていた。闇から分裂した眼球どもは、手当たり次第に町の住民を襲っている。

「クーパー!」

 眼鏡屋から飴屋が飛び出してきた。怪我ひとつしていない。いつもうっすら笑っている彼だが、さすがに真顔で大声を上げていた。

「無線屋に知らせろ!」

「暁は!?」

「おれが護る!」

 クーパーはリボルバーを懐に突っ込み、車に向かって走った。一瞬、暁と目が合った。とても心配しているように見えたし、残していくのは不本意だと言いたげだった。

 クーパーが乗り込む前に、車のエンジンがかかっていた。ドアはひとりでに開いて閉まった。エンジン音に、化け物たちが反応した。目玉がぱっくり開き、牙だらけのあぎとが開き、その奥から枯れ木のような腕が飛び出す。化け物どもが数匹、ミニ・クーパーのぴかぴかの車体に爪を立ててしがみつこうとした。

 がりがりと、ブリティッシュ・レーシング・グリーンの塗装が削られていく。暁はなぜか、目を覆いたくなった。

 ミニ・クーパーはけたたましい音を立てて往来でスピンし、黒い化け物どもを振り払った。それから飛ぶように加速し、あっという間に走り去っていった。

 あの加速。

 確かに軽自動車とはちがう。レースに出たことがあるというのはきっと本当だ。

「暁」

 すぐそばから、飴屋の声。

 そして、

 ちょっ・きん。

 鋏が閉じる音。

 一瞬、強力な電磁波が走ったような、そんな違和感があった。はっと気づけば、真っ二つになった眼球が、暁の足下に落ちていた。

 飴屋は暁のすぐそばにいる。右手には、大きめの和鋏。熱い飴を切るときに使う鋏だ。それが彼の『武器』でもあるのか。

 飴屋は暁のそばで悠然と立ち、ちょきん、ちょっ・きん、と右手の鋏を閉じているだけ。

 しかし彼が鋏を閉じるたび、ほんの刹那暁の視界は暗転し、次の刹那には闇の化け物が真っ二つになって落ちている。その切り口からは、かすかに焦げた匂いが立ちのぼった。暁が暫で叩き斬ったときと同じ。レーザーで切断したかのよう。

 飴屋は腕を振り上げもしない。

 ちょきん。

 ちょきん。

 ちょきんちょきん。

 ちょっ・きん。

 和鋏が閉じるたび、世界はまばたきし、化け物が死ぬ。

 あっという間に、暁と飴屋の周囲から脅威は消えた。

 そして、町全体が震えた。すぐそばに立つ人間の声さえかき消すほどのサイレンが鳴り響いたのだ。町がざわめき、勢いよく戸が閉まる音があちらこちらから聞こえてきた。

「暁、こっちだ。刀は抜いたままにしろ。おれから離れるな」

 飴屋の声はいつもどおり落ち着き払っていた。彼が向かった先は眼鏡屋の中。暁は暫の柄を握る手に力をこめ、彼についていった。

 眼鏡屋の中は荒れ果てていた。暗がりでもそれがわかった。

 飴屋は壁に目をやり、ふッ、とするどく息を吹いた。

 飴屋が見つけたのは照明だったようだ。壁に取り付けられたお洒落なカンテラに火がともり、店内を照らし出した。惨状があらわになる。

 四方の壁には黒い汚れがこびりついている。墨汁よりも黒い液体をバケツ10杯ぶんぶちまけたかのようだ。どこまでも真っ黒いのに、飛び散り方や滴り方が血に見えた。

 店の中央には大きな丸テーブルがあり、眼鏡がところ狭しと置かれている。もともとこんなふうに乱雑な陳列だったのか、それとも荒らされたのかわからない。この町の店はだいたいどこもごちゃごちゃしていたから。

 暁は何気なくその丸テーブルに目を落として――わけがわからなくなって、息をするのも忘れた。

 なんだこの眼鏡は。

 レンズが5つも3つもある。左右のレンズの大きさやかたちが揃っていないものもある。暁には目がひとつしかないが、眼鏡というのは、ふたつレンズがあるものだ。しかしその常識がひっくり返りそうだった。ただの眼鏡であり、毒を盛っているでも襲ってくるでもないはずだが、触るのもためらわれた。

 壁には狐面が掛かっている。

 黒い汚れは狐面の周囲にはなかったが――狐面そのものが、真っ黒だった。暁が見つめていると、その突き出た鼻の先から、黒い液体が一滴滴り落ちた。

 飴屋が奥のカウンターに進んでいく。彼から離れすぎないよう、暁はすぐに後を追った。

 飴屋はカウンターの入り口で足を止め、床を見下ろした。

 死体。

「〈良い眼鏡屋〉だ。たぶんな」

 それは一般的な人間のかたちをしていなかった。

 全身が真っ黒に染まり、服と肌の境目もわからない。顔もわからない。腕はねじくれた胴体の右側から2本、左側から3本突き出し、阿修羅像のようにあちこちの方向に伸ばされ、硬直している。足は膝から下から2本に分かれていた。尻尾がある。いや、それも足なのかもしれない。

 暁は黙り込んでいた。店の外はまだ騒がしい。男の怒号と悲鳴が遠い。サイレンはやんだようだ。

「……何が起きたの?」

「襲撃だ」

「襲撃って――」

「暁」

 飴屋は振り向かない。

「身構えろ」

 来るぞ。

 死体だと思っていたものが動き出した。ひっくり返った甲虫に似た動き。たくさんの手足がばらばらに動いている。見ていると、鳥肌が立ってきた。

 壁に掛かっていた狐面が落ちた。づるうり、と壁を汚していた液体が動く。ぢゅるりづるりと壁を這い、四方の壁に張り付いていた黒色が、天井を目指していく。液体なのに、上へうえへと動いている。カンテラの光が不安げにまたたく。

「ぁぁぁあめやぁぁあああ。あははは。あははは」

 天井から、男がひとりぶら下がっていた。顔も服も汚らしく汚れているが、顔にかけた眼鏡のレンズは白銀色に光っていた。

「天照喰わせてくれよ。なぁ頼むよぉ。そいつぜったいうまいよなぁ、飴屋」

「〈悪い眼鏡屋〉だな」

「そぉですよぉ。目が命、目がいのちだからねぇ、なぁ飴屋。あれっ」

 ぐぐぐ、と眼鏡の男は天井にぶら下がったまま身を乗り出し、暁の顔を覗き込もうとした。

「あはははは。なぁんだ。うまそうじゃあないか。目がひとつしかないんだぁ、天照。なぁ頼むよぉ、喰わせてくれよぉ。そしたらオレのからだの中で、目がよっつになるんだ。あははは。いいだろう、悪い話じゃないだろぉ? あははは、っ」

 どたり、と〈悪い眼鏡屋〉は頭から丸テーブルのうえに落ちた。

 異様な眼鏡が散らばり、真っ黒い液体が飛び散る。一瞬、悪い眼鏡屋の頭が砕け散ったように見えた。

「おーい。天照ぅー」

 真っ黒い胴体から声が聞こえる。

 かと思いきや、悪い眼鏡屋はものすごい勢いで身体を起こし、暁に飛びかかってきた。

 暁は――

 暫の柄を両手に持ち、振り上げ、袈裟懸けに振り下ろした。暫は振り抜かれた瞬間、真っ白い光を放った。

 歪んだ悲鳴が耳をつんざいた。悲鳴にはラジオのノイズのような雑音が混じり、ぶつぶつと途切れ、やがて完全に途絶えた。

 暫からあふれ出た光を浴びると、あちこちに飛び散っていた黒い液体は一瞬で干からび、剥がれて消えていった。異様なかたちの眼鏡が、ぐずぐずと泡立って、溶けて、消えていく。

 そして眼鏡屋の店舗には、静寂が下りた。何もかもが眠りについたような、安らかな静けさ。その中で、飴屋がふむと息をつく。彼は和鋏を袖の中にしまった。

「やるじゃないか」

「…………」

「ここまで戦える天照は初めてだ」

 飴屋の笑みが、どこか嬉しそうに見えた。

 表は落ち着きを取り戻しつつあるようだ。エンジン音が近づいてくるのがわかった。暁と飴屋はその場を動かず、見つめ合っている。

「――これが〈組合〉の仕事だ。暁」

 暁は何も言わず、生唾を呑もうとした。

 だが、口の中はからからに渇いていた。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

応援した人

応援すると応援コメントも書けます

ビューワー設定

文字サイズ

背景色

フォント

Androidでは正しく
設定できないことがあります。

応援の気持ちを届けよう

カクヨムに登録すると作者に思いを届けられます。ぜひ応援してください。

新規ユーザー登録無料