弐ノ弐


 暁はこの光景をいつまでも見ていたいと思った。しかし、ずっとここから出られないとなると、いずれは見飽きてうんざりしてくるのだろうか。

 ヒガシ町は、テレビで見た台湾の九份のようであり、昭和の下町のようであり、もっと昔の時代の街並みのようでもあった。基本的に和風ではあるが、中国や韓国、果てはヨーロッパを髣髴とさせる部分もあり、どこか混沌としている。

 空は真っ暗な夜なのに、町は明かりに満ちている。店の軒先には赤や橙や黄の提灯がいくつも吊り下げられていて、店と店はまるでひとつの長屋のように密着していた。ほぼ同じ高さに掲げられた軒先の提灯が、どこまでもどこまでも、ずらりと並んで道を照らしている。

 店、店、店。そう、全部店。

 ヒガシ町の通りには、単なる民家というものが見当たらない。商店街が延々と続いている。建物という建物が、すべて店舗なのだ。

 そしてほとんどの店の出入り口が、開け放たれているか、中を容易に覗けるくらいに磨かれたガラス戸であるかのどちらかで、店内の明かりが道に漏れ出している。

 昼間のよう、とまでは言えないが、町は温かな光に包まれていた。

 道はけっして広くないし、かなり入り組んでいる。しかしミニはその名のとおり小さな車なので、すいすいと苦もなく進んでいた。

 落ち着いて車内を見回してみると、内装はごくシンプルだった。小さくて見づらいセンターメーターにタコメーター。どうもエアコンらしきものもグローブボックスも見当たらないのだが、何かの冗談だろうか。それとも古い車にはついていないものなのか。古いラジオがついているが、いかにも後から付け足したように見える。

 クーパーから押しつけられた4個のたこ焼きを食べたあとは、暁はずっと車窓の外を眺めていた。そしてすっかり、町の風景に魅入られていた。

「きれいなところだね。久々に感動した」

「お前感動しとるなら感動した顔せえよ」

「たこ焼きもすごくおいしくて感動した」

「はー? うまいならうまいてゆえよもう。口に合わへんのかと思とったわ。うまいやろ、粉物こなもん屋のたこ焼き」

「うん。……粉物屋ってところで買ったんだ? この町、お店ばっかりなんだね」

「ああ。ここは『働かざるものおるべからず』やからな」

「クーパーも何かお店やってるの?」

「〈組合〉の仕事手伝てつどうとるけど、店はやっとらん。俺は車やから特別らしいなあ」

『俺車やぞ』

『俺は車やから』

 クーパーのその台詞がいちいち引っかかる。確か彼は、この車が本体だとかつくもがみがどうだとか言っていた気がするが、まだ暁は彼の正体をつかめていなかった。

「ねえ、車ってどういうこと」

「んー?」

「自分のこと車って言ってるけど、どういうことなの」

「え、ゆうたやろ。付喪神やて」

「ごめん。わたしあんまり本とか読まないから、バカでもの知らないんだ。聞いたことあるような気もするけど、つくもがみってなんなのかわからなくて」

「お前それマジか!?」

 車がいきなり止まった。クーパーが心底驚いた顔で振り向いている。

「もしかして常識だった?」

「いや常識……ちゅうほどではないと思うけど……伝わっとらんかったことがショックやわ……」

「クーパーおまえ、用もないのにここに本体止めるなよ。邪魔だよもう」

「あっ、こらすんまへん」

 近くの店から出てきた男に窓を叩かれ、クーパーは肩をすくめてアクセルを踏んだ。

 はあ、とため息をついたあと、クーパーはいきなりハンドルから手を離した。

 目の前には曲がり角。

 暁は目を見張り、クーパーに抗議しようとした――が。

 暁の目の前で、クーパーの前のハンドルはひとりでに回転した。そしてなめらかに、ゆっくりと、なんでもないことのように右折した。

「付喪神ちゅうのは、まあ、妖怪とか物の怪の類や。道具は100年使つこたら命が宿って動き出しよる――そうゆわれとんねん。俺はそれや。長いこと大事にされてなあ、気いついたらもの考えられるようになっとった」

「え、じゃあこの車も100年――」

「1967年式や。ええと、今年で49か? 猫かて10年で猫又なるゆうやろ。車で50年現役なんてバケモンやで。いっぺん軽くレストアされとるけどなあ」

「49にしては若く見えるけど……あとなんで外国人……」

「そらそうよ。俺イギリス生まれやもん」

「嘘。軽でしょ、スズキかどっかの」

「アホボケ! お前ミラジーノと俺勘違いしとるやろ!? ええか!」

 またいきなり停車した。

 どうやらイギリス車であることに誇りを持っているらしく、クーパーは怒った顔でまくし立ててきた。

「ミニはな、1959年から2000年までイギリスのオースティンやらモーリスやらローバーやらが売ってん! 会社コロコロ変わりよったんはわけありや! 俺はオースティンブランド! ほいでミニは2001年からドイツ車になってん! かたちも大きさもえらい変わってもうて! けど今はビーエムが作っとんのや! ビーエムやぞビーエム! うらやましいわ!! ちゅうわけで俺は外車! ミラジーノはスズキやのうてダイハツ! わかったか!!」

「はい。ごめんなさい。よくわかりました」

「クーパー、邪魔だ」

「あっすんまへん」

 また注意されて車はとろとろと走り出したが、すぐに止まった。今度はエンジンが切られた。空き店舗の前であるらしく、このあたりだけは暗い。しかしこの暗がりの中、クーパーの目の青はくっきりと浮かび上がっている。

 彼は妖怪らしい。あまりそうは見えないが、妖怪だと言われれば、この不思議な目の光もうなずける。

「……でもそのイギリス車がなんで関西弁なの」

「ええー? 話すと長いでー?」

「聞きたい」

「……わかった。ええと。イギリスには2年おって、レースにも出たらしいけど、そん頃のことはあんまり覚えてへん。俺にとってのオーナーはひとりだけや。大阪の社長やった。若い頃仕事でイギリス行ってな、俺みつけて一目惚れしたんや。言い値で買うて日本送って、それからはずうっといっしょやった」

「こういう見た目のひとだったってわけじゃないんだ」

「オーナーはハラ出たハゲのオッサンや。似ても似つかへん。ええひとやったでー」

「……死んだの?」

「ああ。5、6年前や。年が年やったからしゃあない。でもせがれがなあ、あんまり車に興味なくてな。俺ほど古いのに状態ええミニ今日びは珍しいから、なんやどっかのクラシックカーミュージアムから連絡来たんや。ほいで俺あっさり売られてしもてん」

「そう……」

「……オーナーの家、ちっこいお稲荷さんの真ん前にあってな」

「え」

「ガレージから赤い鳥居とおきつねさんが見えよるんや。せやから俺、毎日毎日おきつねさんにお願いしてん。『なんでもするから博物館行きは堪忍してください』」

「…………」

「『なんでもするから』があかんかったんかなあ。今はそう思うわ。気いついたら俺……この国のはずれにおって……運転席に座っとった。それまで、この身体もなんもなかった。もの考えたりでけるだけで、オーナーとも喋られへんかった。でも、おきつねさんには聞こえたんやな。俺の声」

 クーパーは懐かしそうな顔をして話してくれた。ずっと微笑を浮かべていた。本当に大事にされていたのだろう。道具に命が宿るという話は、よく考えてみれば、暁も聞いたことがあるような気がした。

「じゃあ……、今こうしてわたしと話してる『あなた』はなんなの?」

「なんなんやろ。オプションやろか」

「……血が出てたし、たこ焼きも食べてた」

「煙草も吸うでー?」

「でも、車から離れられないんだね」

「ああ。30メーターくらいが限界や。まあでも、不便や思たことないで。もう充分すぎるくらい便利やからなあ」

「…………。話してくれてありがとう」

「かまへん。俺も久しぶりにの話でけて嬉しかったわ」

 クーパーの微笑が、静かにゆっくりと大きくなった。その笑みは、49年者にふさわしい、落ち着いたものに見えた。そして本当に嬉しそうだった。

 クーパーは懐から煙草とジッポーを出して、火をつけた。銘柄はゴールデンバット。彼が煙草を火をつけている最中にエンジンがかかり、車はゆっくり走り出していた。



 鍵屋の店舗には、それから3分もかからないうちに到着した。

 他の店よりも若干店内が暗い。金属が削られる音が店の外にも漏れていた。暁も、スーパーの片隅などで幾度となく聞いたことがある。これは合鍵が作られている音だった。

「鍵屋はな、ちょっと理屈っぽいけどええやつや」

「そう」

 しかしここで、クーパーは声を落とし、暁の耳元でささやいた。

「……ただある意味エグいねん」

「……?」

「鍵屋ー。おるかー? おはようさーん」

 暁が首を傾げているあいだに、クーパーはがらりと引き戸を開け、帽子を取って挨拶した。

 店の中には男がひとりいて、古ぼけたキーマシンと向かい合っていた。

 角張った、かなり古いデザインの黒縁眼鏡をかけていた。50代に見える。眼鏡の奥の飴色の瞳には、穏やかで理知的な光があった。

 暁と目が合うと男は目を大きく開き、眼鏡を直して、キーマシンのスイッチを切った。

「天照」

 とても深みのある声だ。彼はつぶやくようにして言うと、立ち上がった。ニットのベストのうえに、黒い作業用のエプロンを身につけている。町のどこにでもいるおじさんといった風貌だ。

「目覚めたのか。飴屋は?」

「ヤボ用あるゆうてたで。お前に天照会わしたってくれゆわれてな、送ってきたんや」

「そうか、わざわざすまない。――天照。私は〈良い鍵屋〉という。以後よろしく頼む」

「……火野坂暁です」

 暁はぺこりと頭を下げた。鍵屋は、実に静かに、ゆっくりと話す男だった。彼はしげしげと、興味深そうに暁を眺めていた。

「今回の天照はずいぶん若いな。いくつだね?」

「18です」

「残念ながらクーパーは間に合わなかった……。君にとっては、酷な事態になってしまった。せめて一日でも早くこの国に慣れるよう、私たちは君に力を貸すつもりだ」

「ありがとうございます。でも……クーパーは悪くないと思うんですけど。私、このひとのおかげで助かりました」

 ちょっと眉をひそめて、暁は鍵屋の言葉に反論した。鍵屋ははっとしたようだった。

「いや……、クーパーを責めるつもりはないんだ。できる限り急いでくれたことはわかっている」

「でも責任がどうって」

「ケンカすな、初対面やろ?」

 クーパーは吸っていた煙草を鍵屋の作業台の灰皿に押し込んだ。彼のことで暁は鍵屋に反論したのだが、当の本人はさっぱり気にしていない様子だ。自分が怒っても仕方がなさそうなので、暁は口をつぐんだ。

「……飴屋からどこまで話を聞いたのかはわからないが……」

 気を取り直した様子で、鍵屋は口を開いた。

「私はこの町の〈組合〉の副組合長をやっている。組合長は飴屋だ」

 車の中でクーパーが、〈組合〉の仕事を手伝っていると何気なく言っていたのを、暁は思い出した。

「この国の住人は、必ず何らかの『仕事』をしなければならない。それは天照も例外ではないんだ」

「仕事せんでもええ方法もあるけどなあ、俺はようオススメでけへん」

「……私も同感だ。手っ取り早いのは店を持つことなんだが、18歳の君にいきなり店を持てというのも難しい話だろう」

 なるほど、それでこの町は店だらけなのかもしれない。誰かの下について働くという考えはないのだろうか。とはいえ、ここは現代日本とは似て非なる世界だ。の常識は通用しそうにない。暁は「仕事をしなければならない」というルールにも、なにやらひと癖ありそうな印象を持った。

「そこで、当面はクーパー同様、組合の仕事を手伝ってもらおうかと思っている」

「…………」

 クーパーはため息をつくと、腕を組んだ。難しい顔をしていた。鍵屋の提案に納得がいかない様子だが、異議を申し立てないところをみると、暁が寝ているあいだにいろいろと組合で話し合いがあったのかもしれない。

「楽なバイトってわけじゃなさそうですね」

「実はそうなんだ。君は察しがいいな。しかし、それなりの対価を組合から支払う。会計をやっているのは私でね……。君が給料さえ受け取ってくれれば、手伝いとはいえ、それが君の『仕事』であるとお狐様も認めてくれるだろう――そういう結論が出たんだ。反対する者もいるにはいるが……」

 鍵屋はちらとクーパーを一瞥した。クーパーは肩をすくめただけだ。

「……他に選択肢もなさそうだし。やります」

「ありがとう」

 鍵屋はほっとしたように頷くと、店内を見回した。

 鍵屋というだけあり、店の中は鍵だらけだった。錠前やダイヤル錠もあるが、圧倒的に多いのは住宅のものと思われる鍵だ。大きさも色もさまざまで、まだブレードが削られていないブランクキーがほとんどだった。

 そんな鍵だらけの壁に、白い狐面が掛かっている。奇妙な渦巻き状の道具をくわえていた。稲荷神社の狛狐がくわえているものと同じだ。隈取りのような赤い化粧は控えめで、面の意匠そのものはシンプルだった。

「出会いの記念というのもなんだが、ひとつ、君に贈り物をしたい。――好きなブランクキーを選んでくれ」

 いきなりそう言われても迷ってしまう、と思ったが、暁はすぐにお気に入りを見つけた。

 アートキーというやつだ。かわいらしかったり、カッコよかったりする柄がプリントされている鍵がたくさんあった。

 その中にひときわ目を惹く真紅の鍵があった。暁は、赤が好きだった。手に取ってよく見てみると、赤い鍵の頭には菊の花が彫り込まれていた。

「これで」

「わかった。ちょっと待っていてくれ」

 鍵屋はキーマシンの前に座ると、スイッチを入れた。

 甲高く、大きな音を立てて、機械が赤い鍵を削っていく。ものの数分で鍵屋は機械を止め、今度はヤスリを手に取った。照明を受けて、鍵屋が操るヤスリはきらりきらりと光っていた。いかにもベテランといったふうに手慣れていて、実にあざやかな作業だった。

 最後に、鍵屋は鍵にふっと息を吹きかけた。銀色の粉がほんの少し虚空に飛んで、これまた美しくきらめいた。

「できた。持って行きなさい」

「なんの鍵ですか?」

「――心の扉の鍵だ」

 鍵屋は謎めいたことを言うと、初めて微笑みを見せた。



 鍵屋を出たあとは、どこに寄り道することもなく、すぐに飴屋に戻ることになった。

 空は暗いままで、月の位置だけが変わっている。夜が明ける気配はなく、クーパーは顔なじみを見かけると車を停めて、「おはようさん」と挨拶をした。

 今は、朝なのか。空はこんなにも暗いのに。

「クーパー」

「ん?」

「もしかしなくても、ここってずっと夜?」

「そらそうよ。〈常夜ノ国〉やからなあ」

 自分はとんでもない異世界に連れ去られてしまったようだと、暁は再認識した。

 暁は昼間が好きだった。太陽のもとで身体を動かすのが、自分の性に合っている。夜はさっさと寝て翌日の朝練や早朝のジョギングに供えるのが日課だった。夜更かしして勉強や読書などした経験がないし、夜遊びなど考えたこともない。

 もう二度とこの国を出られないのなら、もう二度と太陽を拝むこともできないのか――。

 それは自分はおろか、人間としての生き方のすべてを否定されたような気がした。

「でも――」

 しかし、絶望しかけた暁に、クーパーは言った。

「天照が来た」

 暁の目を見ながら、何かを存分に期待する目で、そう言ったのだ。



 飴屋は風呂と着替えを用意してくれていた。

 風呂は五右衛門風呂だった。暁は入ったことがなかったが、田舎の祖母が長いこと五右衛門風呂を使っていたという話を思い出し、慎重に踏み板を底に沈めた。こうしないと熱くて入れたものではないそうだ。

 起きてからさほど時間は経っていないはずなのに、暁はちょっと疲れを感じた。体力には自信があるのだが、こういう状況なら仕方がないか。それに、何時間経っても夜のままというのが地味にこたえた。身体に、「暗くなれば寝る時間」というアルゴリズムが刻まれているのかもしれない。

「あっちっ!」

 うっかり風呂のふちに寄りかかろうとして、暁は飛び上がった。そう言えば、祖母は「五右衛門風呂に入るときはなるべくじっとしていなければならない」と言っていたような。理由を身をもって知ることになった。

 この風呂に、早く慣れなければ。

「…………」

 ため息をついて、湯のついた手で顔を覆う。

 本当にこの世界から出られなくなってしまったのだろうか。

 あのとき自分はどうしてりんご飴を舐めてしまったのか。

「……!」

 そうだ……、どうして。

 どうしてりんご飴を。

 思い出せない。

 自分は、道ばたに落ちているりんご飴でも拾ったのか? いや、いくら食い意地が張っているとはいえ、そんな野良犬みたいな真似はしない。

 赤い……赤いりんご飴は、誰かに……渡されたはずだ。しかし誰から受け取ったのか思い出せない。自分はこんなことになってしまったのだろう?

 目を閉じれば、赤い幻影がまぶたの裏に浮かび上がる。焼き付き、焦げ付き、ぶつぶつと泡立つ――。

 暁はかぶりを振って不吉な幻影を振り払い、風呂桶から出た。

 シャンプーもリンスもないのが残念だ。女らしい行動や趣味とはかけ離れた生活を送ってきたが、髪は暁のちょっとした自慢だった。

 つやがあり、いっさいの癖がない。染めたことは一度もない。まわりの体育会系女子はみんな髪をショートにしていたが、暁はかたくなに長く伸ばしていた。運動をするときはゴムで縛ればいいことだ。

 そんな髪も、この洗い場の石鹸だけで洗い続けたら、なんだかぱさぱさになってしまいそうな気がする。

 仕方なく手に取った石鹸はほんのりと黄色く、泡立ててみると、びっくりするほど良い香りがした。

「……はちみつ……?」

 すんすんと匂いを嗅いで、暁はつぶやく。

 飴屋の風呂場の石鹸として、はちみつの香りの石鹸はふさわしいのではないか。これでもかというほどぶくぶく泡立て、暁は全身を洗った。髪も含めて。

 風呂場には鏡がない。ないほうが暁にとってはありがたかった。

 暁の左目のあたりには、二筋の醜い傷痕がある。まぶたは閉ざされていて、眼窩はからっぽだ。義眼をすすめられたこともあったが、まぶたがずたずたにされているので、はめてみるとかえって気味が悪くなった。

 何年見ても、慣れることはなかった。だから暁はいつも大きな眼帯で左目を隠している。

 風呂から上がると、下着よりも先に眼帯を身につけた。

 用意された着替えは紅色の浴衣だったが、下着は現代日本人が身につけるものと同じ、綿のスポーツブラとショーツだった。

 着替えて居間に入った暁を、飴屋は微笑で出迎えた。

「おう、似合う似合う。おまえさん背が高いから、具合の良さそうな洋服がなかなかみつからなくてなあ」

「これでいい。動きづらいけど」

「まあ、明日は仕立て屋行くがな。さ、座って昼飯を食え」

 居間のちゃぶ台のうえには、ふたりぶんの食事が並んでいた。

 ごはん、味噌汁、漬物。焼いたサンマに、揚げ出し豆腐。一汁三菜の見本のようだ。焼き海苔と納豆もあった。

 暁は肉が大好物で焼き魚が少し苦手だったが、居候の分際で注文はつけられない。

「いただきま――」

「おまえさん、肉が好きかい」

「うっ?」

 何も言っていないのに。箸を持ったまま暁は硬直した。飴屋は楽しげに笑っている。

「な、なんでそう思うの」

「いや、なに。身体を動かすのが好きなやつはだいたい肉が好きなものだし、おまえさん、あんまり……ああ、クーパーはこういうのをなんと言っていたかなあ……そうだ。おまえさん、あんまり『てんしょん』が上がっていないように見えたんだ」

「…………。実は焼き魚はちょっと苦手で……」

「そうかい。おれはべつに焼き魚が好きでも嫌いでもないから、今後はなるべく出さないことにしよう」

「そんな、気を遣ってくれなくても。ぜんぜん食べられないわけじゃないし、身体にいいみたいだし」

「身体にいい食い物は焼き魚の他にもたくさんあるぜ。おまえさんが暮らしやすいようにしたいんだ。おまえさんこそ、気にするな」

 飴屋は涼しい顔をして、味噌汁に口をつけた。

 暁はあらためて茶碗を持ち、朝食のような昼食を食べ始めた。

 揚げ出し豆腐は少し甘めの味つけだった。サンマは香ばしく、ご飯はきらきらかがやいていて、これまた甘い。目覚めたときに出された粥同様、優しい味だった。

 サンマも揚げ出し豆腐もぺろりと平らげ、暁はご飯を2杯おかわりした。こんなに食う天照は見たことがないと言いながら、飴屋は面白おかしげに笑って、おひつのご飯をよそってくれた。

「今日はもうここでゆっくり過ごせ。明日は忙しくなりそうだからな」

「組合の仕事?」

「ああ、〈組合〉について鍵屋から聞いてきたんだな。それなら話は早い。明日は朝から鍵屋といっしょに、組合費を集めようと思っているのさ。町じゅう回らなけりゃならんから、クーパーに足になってもらうつもりだ。おまえさんがわざわざ出かける必要はないんだが、組合の連中との顔合わせができるだろう?」

「何か特別なことをする必要はない?」

「ああ。にこにこして突っ立っているだけでいいさ」

「……にこにこ……」

「……そういやおまえさん、いっぺんも笑ってないよなあ」

「…………」

「まあ、いきなりこんなところに連れてこられて、もう二度と帰れないなんて言われた日にゃあ、おれだって仏頂面になるってもんだ」

 飴屋は箸を置き、暁に笑いかけた。

 その、金色と飴色の視線から、深い憐憫の情を感じた。



 食事のあとは、飴屋に言われたとおり、ぼんやりゆっくりと店舗奥の住居で過ごすことになった。外を出歩くのは、やんわりと禁じられたのだ。

 運動をまったくしないでいるのは落ち着かないので、とりあえず腹筋を100回と腕立てを100回やったが、あまり集中はできなかった。

 制服は、暁が風呂に入っているあいだに飴屋が洗ってくれていた。暁は赤いボストンバッグから剣道着を出し、自分で洗うことにした。洗濯板を使ったことがないので苦戦していると、飴屋が出てきて指導してくれた。

 彼の話では、この国にも洗濯機があるらしい。電気も引こうと思えば引けるようだ。言われてみれば、鍵屋はキーマシンを使っていた。しかし飴屋はずっと電気のない暮らしを続けてきたという。それでも、暁が望むなら電化製品を入れると言ってくれた。

 この国の文明が日本のどの時代にあたるのか、暁にはまだわからない。ただ、飴屋が電気を使わないのは、ある種のこだわりなのではないか。そこを曲げてもらう権利が、自分にはあるのだろうか。

 夜の中、洗いたての剣道着を物干し竿に干す。湿度はあまり高くないものの、太陽がなげれば、いつ乾くのかわかったものではない。陰干しした雑巾のような匂いにならなければいいのだが。

 赤いボストンバッグの次に、なんとなく、黒いリュックの中をあさった。

 あまり真面目に向き合ってこなかった教科書の字に、暁はほっとした。字が読めて理解できる、それが嬉しかった。ミニ・クーパーに乗って町を移動しているあいだ、読めた看板や広告はひとつもなかった。

 ああ、でも。

 クーパーが吸っていたゴールデンバットは……。

 あれはパッケージが暁がもといた世界で売っていたものと変わらなかったような気がする。だから銘柄がゴールデンバットだとわかったのだ。田舎の祖父が吸っていたので、あの黄緑色と金色を知っていた。

 明日クーパーに会ったら、あの煙草の箱を見せてもらおう。

 暁は古典の教科書を読みながら、そう思った。

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