壱ノ弐


 橙と赤の町明かりは見えなくなり、いつしか赤いススキも見かけなくなった。ミニ・クーパーはいつのまにか、田舎の農道といった風情の道を走っていた。前方に小さな山がある。黒い山の輪郭は、黒い夜空と同化しかけていた。

 未舗装の道の真ん中で、車は止まった。

 クーパーと名乗る妙な男は、まじまじと暁の顔を見つめてきた。暁もようやく落ち着いて男の顔を観察できた。

 目が蒼い。はっとするほど真っ青だ。おまけに……、光っている。この暗闇の中でその青がはっきり見えるのは、瞳自体がうっすら発光しているからだ。

 顔立ちは端整で、映画やドラマの中で主役を張ってもおかしくなかった。

「……その目どないした?」

 ささやくように、彼は真顔で尋ねてきた。

 その手の質問にはもう慣れている。どう返すかも決まっていた。

「わけありなの」

「…………」

 クーパーは何度か小さく頷いただけで、それ以上追究してこなかった。

 目のことなら、暁も彼に尋ねたい。どうして目がそんなふうに光っているのか。

「お前、に来てからなんか食うたか?」

 しかし、彼は深刻な面持ちのまま、もうひとつ尋ねてきた。

「りんご飴を……りんご飴っぽいものをちょっと……ほんのちょっと舐めたけど……」

「――さよか」

 彼は不可思議な目を伏せて、ため息をついた。

「ほんなら、ヒガシ町に行く前に寄らなあかんとこがある」

「ヒガシ町?」

 確か赤い狐面の少年は、『ニシ町』という名称を口にしていた。このあたりには、ヒガシ町とニシ町があるのか。名前から考えれば、べつに両方あっても不自然ではない。

 車は再び走り出した。

「ここはな、〈常夜ノ国〉ゆうて、ヒガシ町とニシ町に分かれとんねん」

「それじゃ、わたしがさっき行こうとしてたのは……」

「ニシ町。ろくなとこやない」

「ヒガシ町はろくなとこ?」

「おうよ」

「それでおじさん本当にクーパーって名前なわけ?」

「クーパーはもともと人名やで。ただまあなんちゅうか……俺名前らしい名前ないんや。でな」

「そう……、じゃ、わたし、失礼なこと言った?」

「いーや」

 クーパーはまた前を見たまま笑った。

「ほいで、お前のほうはなんちゅうねん?」

「あ。……火野坂、暁」

「アキラ? ほーん。野郎みたいな名前やな。あ、これこそ失礼か」

 いかにも人は良さそうだが、謎めいたところも多々あるし――いや、謎だけで構成されていると言っても良さそうだ――暁はまだ完全には信用できなかった。今でも、いつでもボストンバッグを投げつけてドアを開ける心の準備はできている。

 車は、木々に覆われた小山に向かっていた。

 標高は50メートルほど。平坦な草原の中に、こんもりと盛り上がった緑色の塊。赤い鳥居が見えてきた。それが視界に入った瞬間、ぞくりと暁の肌が粟立つ。

 ここにはなにかが、自分など及びもつかないなにかが確実にいる――霊感と呼べそうなものは何ひとつ持っていないはずなのに、そんな直感が働いたのだ。

 クーパーは鳥居の前に車を停め、外に出た。暁はボストンバックを座席に置くか否か一瞬迷ったが、結局持って車を降りた。

 クーパーを見て、え、と暁はちょっと目を見張った。

「小さい」

「小さいゆうな、俺は『コンパクト』なんや。デカイだけが男ちゃうやろ。――お前デカイな!?」

「…………」

 クーパーの身長はたぶん165センチもない。対する暁は169センチ。自分が大女の部類に入ることは自覚しているが、それにしても、白人男性にしては小さくないだろうか。……この車に乗るには、ぴったりの大きさかもしれないが。

 ただ、クーパーも「小さい」と言われることにはすっかり慣れている様子だった。暁の身長には度肝を抜いていたが。

 彼は山を見上げ、くいと顎をしゃくる。

「上にお社がある。べつに行くのが義務っちゅうわけやないが、行ったほうがええ」

「なんのために?」

「『おきつねさん』にご挨拶するんや。この国の神様やから。『よろしゅうたのんます』ってな、そんなもんでええねんて」

「神様……」

「ヒガシ町についたら頭からケツまで説明したる。俺より詳しいもんもおる。今は急いでおきつねさんにうとけ、悪いことは言わんから」

「……道は?」

「一本道らしい」

「『らしい』って」

「悪い、俺わけありでこの車からあんまり離れられへんのや。せやからお社は見たことない。途中までは案内でけるけど」

 クーパーはぽんぽんと車の白いルーフを叩いた。暁はあらためて、古めかしいミニ・クーパーを見た。……なにわナンバーだ。古いことは古いが、錆びや傷、ヘコミは見当たらない。さっき何人か撥ねたはずだが。何もかもぴかぴかに磨き上げられていて、月光が車体やフロントグリルのうえで跳ねている。

 オシャレでステキな車。女の子が、きゃあかわいい乗りたいと喜びそう。

 ……なぜだろう。

 この男と、この車。共通する要素は『色』以外ひとつもないはずなのに……似ている、気がした。

 ざざざざざざざざ、ばざっ。

「!」

 不意に山の緑がざわめき、生温かい風が吹いた。

 かすかに、ほんのかすかに、獣の遠吠えのようなものが聞こえてきたような。クーパーが舌打ちした。

「今回はえらいしつこいな。――どうする?」

「……行く」

「よっしゃ。はよ鳥居くぐれ!」

 言われるがまま、暁は走り出した。鳥居はすぐそこだ。クーパーも帽子を押さえながら走ってきた――が、鳥居をくぐってからいくらもしないうちに、突然つんのめるようにして立ち止まった。

「あかん、俺はここまでや!」

 がさがさがさっ、と横の茂みが動く。

「はよ行け! 俺のことはほっと――」

 ぼヅッ。

 暁は恐らく初めて、足がすくむという経験をした。

 ショックも受けた。自分は出会ったばかりのクーパーのことを、すでにかなり信用していたのだということに気づいてしまった。

 クーパーの頭が砕け散って、赤い血しぶきと肉片になった。帽子がひらりと宙を舞い、胴体はどさりとその場に倒れる。

 茂みから飛び出してきたのは、スレッジハンマーを持った大男だった。クーパーよりも頭ひとつぶん以上は大きい。そのうえ、全身の筋肉が盛り上がっているのがわかった。まるでプロレスラーだ。

 クーパーの頭部を一瞬で粉砕するほどの勢いで、彼はスレッジハンマーを軽々と振るったのだ。

 男は溶接のときに使うような鉄製のマスクをかぶり、どろどろに汚れたランニングとズボンを着ていた。血まみれのスレッジハンマーをだらりと下げて、ゆっくりと暁に顔を向ける。表情はわからない。だが何を考えているのかははっきりしている。

 暁を殺す気だ。

 クーパーと同じように。

 震えかけた足を奮い立たせ、暁は山道を走った。山頂に向かって走った。ハンマー男は無言で追いかけてきているようだ。足音だけが聞こえる。振り向いている暇はない。

 クーパーが言ったとおり、迷う余地のない一本道だった。勾配もそう急ではない。駆け上がる。息づかいが聞こえ、背中に風を感じた。どちん、という音。男がハンマーを振り下ろしたのだろう。少しでも遅れていたら頭を叩き潰されていた。

 駆け上がる。息が上がる。見えた。黒い空を背にした黒い社が。いや、ところどころが白い。

 社はかなり小さかった。人間ひとりが入れるかどうか。社ではなく祠なのではないか。

 暁がその前に辿り着いたとき――

 木の扉が、ひとりでに、ばんと開いた。

 中は漆黒。すべての光を吸い込んだ暗黒。紙垂が揺れる。社の中から風が吹いたのだ。


(ぁあまてらすぅ)


「ッッッ!」

 暁は、あらがいがたい猛烈な力を感じた。まるで巨大な手に胴を鷲掴みにされたかのように――暁は、社の中の暗黒に吸い込まれていた。

 ばん。

 暁だけを世界から引ったくり、社の扉はひとりでに閉まった。



 暁が倒れていたのは、ほんの数十秒だった。

「う……」

 床に叩きつけられたせいで、身体じゅうが痛い。うめきながら、暁は身体を起こした。

「……え……!?」

 周囲を見回して、暁は驚いた。とてもあの社の中とは思えない。かなり暗いが、この空間がかなり広いことはわかった。大きな神社の拝殿のようだ。

 湿った畳が敷かれている。壁という壁に、めちゃくちゃに注連縄しめなわが張られ、得体の知れない御札が何百枚も貼られ、無数の狐面が飾られている。

 そして――。

 暁の目の前には、巨大な狐の像が、すっくと立っていた。それは電車の中で暁が夢にみたものにそっくりだ。円柱状で、シンプルな彫り込みにより狐の姿がかたどられている。

 夢の中とちがうのは、全体的に『黒い』という点だった。白い部分もある。だが、大部分が黒い。夢の中では半々だったはずだ。

 地鳴りのような音が響いてくる。

 風が吹きすさび、注連縄の紙垂と御札が狂ったようにはためく。

 狐の像が……。

〈お狐様〉が……。

 目を開けた。

 細い目を。切り傷のようなまぶたのあいだで、ぎょろぎょろと金と銀の瞳がばらばらに動き回っていたかと思えば、それはびしッと暁をとらえた。暁に釘付けになったあと、ふたつの瞳は小刻みに震え始めた。

(     )

 何か言った。だが聞こえない。

(     )

 聞こえない、だが何か言った。

(                 )

 何も聞こえな――

「!!」

 虚空から突然ひと振りの刀が顕れ、暁の目の前に落ちた。鞘は黒く、緋色の下げ緒が結わえられていた。

(    )

 お狐様はまた何か言った。しかし暁には、その言葉が、わからない。聞こえない。理解できなかった。

(    !)

 お狐様が細い目を見開く。

(    !!)

 暁はわけもわからず、その刀を手に取った。

 ずしり、と感じる重み。柄の手触り。暁は固唾を呑む。

 ――これは、。わたしだけの刀。

 その重みも握った感触も、まるで生まれたときから毎日使っているものであるかのように、しっくりと馴染んだ。店の中に並ぶ無数の商品の中に、ひと目で気に入ったものがあったのと同じ。ずっと自分のためにこの刀はあり、自分をずっと待っていた。自分もまた、この刀を待っていた。そしてこの刀を振るうために、自分は10年近く剣道を習ってきたのだ。そんな気がする。

 名前を。

 暁はお狐様を見上げる。

 初めて神が言わんとしていることがわかった。そんな気がする。

 すべて、「気がする」。この場で頼れるものは己だけ。誰も助けてくれない。自分でなんとかしなければならないのだ。

 この刀があれば、それができる。そんな気がする。

「お、お狐様」

 暁は自分でもわけがわからないまま、狐の像に呼びかけた。

「これ、くれるの……くださるのですか?」

 お狐様はまばたきした。瞳はぐるぐる回り出した。

(    )

「あ、ありがとうございます」

(    )

「名前をつけて、大事に……します」

(    )

「名前は」

 暁は刀を抜いた。

 名前は、なにものかが頭に差し込んだかのように思い浮かんだ。まるで刀に名乗られたかのようだった。いや、実際、そうだったのかもしれない。

 美しい。白刃には0.1ミリの刃こぼれもない。刃紋は力強く波打っている。

「〈シバラク〉」

 その瞬間、太刀・〈暫〉の刀身からまばゆい光があふれ出した。しかしその光は、暁がまともに見つめても、目を焼くことはない。光の中の暫がはっきり見える。

(あまてらす)

 光の中で、お狐様のささやきが聞こえた。

(    )

(    )

 お狐様の目がぐにゃりと歪む。笑った……のだろうか。

 暫からあふれる光は徐々に弱まり、程なくして消えた。暁はほんの少しのあいだ、暫にみとれていた。それからお狐様を見上げ、はっとする。

 お狐様の身体の白い部分が増えている。半々になったとまではいかないが、確実に黒が減った。それはなんとなく、良いことのように思えた。

 お狐様は目を閉じた。社の中はとたんに、完全な静寂の中に落ちる。もう何の音も聞こえず、何も起こりそうになかった。

 天照。

 お狐様のことばで、はっきりと理解できたのはそれだけだった。

 挨拶は終わった。歓迎されたのだろうか。自分にぴったりの武器をくれた。クーパーが『参拝』をすすめてくれた理由がわかった。

 暁は暫を鞘に収めてきちんと正座すると、剣道のときの要領で、お狐様に向かい座礼した。

 空気が一変した。

 顔を上げると、暁はぼろぼろの狭い社の中にいた。お狐様の像も、無数の注連縄や御札や狐面は消えた。畳はあちこちが黒ずんで破れている。

 背後で扉が開いた。

 扉の向こうでは、溶接面をかぶり、スレッジハンマーを下げた屈強な男が仁王立ちしていた。

 ……なにも恐ろしくはない。

 暁は男を睨みつけ、立ち上がると、暫を鞘から抜き放った。

 刀身は一瞬、まばゆく白い光を放った。

「ぉフッ!」

 今までずっと無言だったハンマー男が低いうめき声を上げ、マスクをつけた顔を片手で覆って、大きく後ろによろめいた。光から目を守るための溶接面であるはずなのに、そんなにまぶしかったのか。

 親切にしてくれたクーパーの仇を。

 暁は社から飛び出し、跳躍し、刀を振りかぶり、気合とともに振り下ろした。

 バターを切ったかのようだった。

 マスク男の、分厚い筋肉に覆われた肩口を、薄っぺらいランニングシャツを、赤黒い肺を、そして白い骨を何本も何本も、暫はさっくりと斬り裂いた。

「ぉボッ、おっおッ」

 男の左腕はもう動かない。溶接面の内側が吐血で汚れたのがわかる。

 暁は刀を引き抜き、もう一度振りかぶると、全力で振り抜いた。

 男の首は、鋼鉄のマスクをつけたまま、回転しながらすっ飛んでいった。

 男の胴体は、痙攣しながら崩れ落ちた。

「…………」

 もちろん、人を殺したのは初めてだ。だが、暁は後悔も恐れもしていない。この男は人間ではない。人間だったとしても、頭がおかしい。それに、殺されても仕方がないことをしてくれた。

 そして……、いつかこんな日が来てもいいように、常に覚悟していたはずなのだ。

 暫の刃には、血が一滴もついていなかった。暁は静かに鞘に収めると、首無し死体の脇を通って山を下りた。

 鳥居から少し離れたところに、緑色のミニ・クーパーが停まっている――。

「え」

 暁は硬直した。

 ミニ・クーパーに寄りかかってぶんぶん手を振っている男がいる。

 クーパーだ。満面の笑み。わけがわからない。

「え、……え?」

 自分の隻眼が信じられなくなって、暁はのろのろとクーパーに近づいた。

「おっ。おきつねさんからええもんもろたな」

「ちょっと待って。なんで生きてるの」

「首いわした程度で俺は死なん。そいつで首刎ねてみてもええで?」

 クーパーは手刀でとんとん首根っこを叩いた。なんだかしてやったりといった笑顔だ。

「だ、だからなんで」

「俺の本体コレやから」

 ぽんぽん、とクーパーは車のルーフを叩いた。

「本体?」

「〈付喪神〉て、聞いたことあらへんか? 俺それなんや。この1967年式オースティン・ミニ・クーパーSの付喪神」

 つくもがみ。聞いたことがあるような、ないような。暁は何も考えられなかった。なんだかもう、急にどっと疲れが押し寄せてきて。

「お、おいおい!」

 暁はよろめいて倒れかけていた。クーパーが抱きとめてくれた、ようだ。

 この男からは、煙草の匂いと、ほんのかすかなガソリンの匂いがする。そしてほのかに温かい。でも、人間の体温にしては低すぎる。

 ――なんなの、ここは。わたしは、いったい、どうなるんだろう。

 暁はそれきり、気を失った。

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