第2部 ミラクル・マジック
魔界へ
「ハヤテ君、ショウ君、ダイチ君……」
三人の名を何度も何度も、止まらない嗚咽に混ぜて、マユミは泣き続けていた。パンドラは小さく鳴きながら、うずくまる彼女に身をすり寄せた。自分の今の姿では彼女を思うように慰めてやることができなかったから、せめて側にいようとした。
「パンドラ……、わたし……、」
マユミはパンドラをいつもよりも細く見える腕で優しく抱き寄せる。まだ、全身が震えている。
ところが、しばらくして、弱々しい鼻をすする音が途切れて、部屋の中が無音になり、その後で、
「わたし……どうすることもできないの?……
……三人を、助けたいのに……」
こう彼女が言ったから、パンドラは頭をぱっと上げて彼女の顔を見た。泣きすぎて目の周りは赤く腫れかかっているが、まなざしは弱さも迷いもなく、口元もまだ震えているが言葉ははっきりと言えている。
(僕は普通の地球人を甘く見すぎていたかもしれない。マユミがすごく強い者なのかどうかまでは、わからないけど)
「ワン、」
パンドラは小声で鳴いて、マユミの膝から奥の物置きになっている部屋へ移った。ここは確か、三人が「大切な預かり物とかも置いてあるから、できれば入らないでほしい」と言っていた所だったはずだ。
引き戸を開けても、中はうす暗い。パンドラは奥の方で何かを探して、
「ワン、」
再び彼女を呼ぶように吠えた。床には、かなり厚い本が置いてある。百科事典をいくつも重ね並べたような、重圧な本だ。マユミはそれにふれた。
適当にぱらぱらとページを繰っていたが、ある挿し絵のところで手を止めた。その絵は、まさしくさっき見た、三人が閉じこめられた鏡のものだった。
「これよね?! パンドラ!」
マユミの声に、パンドラは吠えて答える。この鏡に何の意味があるのか、マユミは知りたかった。けれども、本に書いている文字は見たこともないもので、まったく読めない。
「ハヤテ君たちは、どうなってしまうの……」
マユミがうつむいたその時である。突然、部屋の入り口の方で、煙がわき上がった。
「!」
彼女は驚いたが、パンドラにはそれが誰か、わかっていた。
(来てしまった……)
煙の中から、マユミの見たところ十八~九才の女性が現れた。責任感の強そうな顔立ちで、肩にすれるくらいの髪を軽く束ねている。以前ショウが見せてくれた、淡い色づかいの帯を巻いていた。ワンピースというよりは、ローブのように布を幾重にも重ね着ているようだった。
煙が消える頃、女は口を開いた。声は聞こえたが、違う世界の言葉づかいだった。落ち着いた声はパンドラに向かっていた。言葉の意味は、心の中に響いてきた。
「いつからそんな格好をしているの」
(この人はパンドラを知っている?)
パンドラは申し訳なさそうに頭を垂れる。女は腰帯に挟んでいた細い鉄の杖を取った。
「魔界空天王ギルファー・レビンの名において命ずる! 第1使にまとわりつきしものを、今すぐ解き放て!
『オーロレイト』!」
女が強く言葉を発すると、杖の先端に付いた小さな宝石が、まばゆいオレンジ色の光を放った。マユミがきつく目をつぶって、再び開く、パンドラの姿がない。
「パンドラ?」
はっきりしてきた視界に、人の足が見えた。上に顔を上げると、さらさらの短い髪をながす、真摯なまなざしをした、青年がいた。
「説明して。あの三人はどうなったのか、そしてあなたがあんな姿になっていたこと、魔天王様になぜ一刻も早く連絡をせず、ここに残っていたか」
女は隙もなく青年に質問をあびせかける。
「先に……マユミに、三人のことを伝えたかったからです」
咳払いをしてから、青年が答える。誠実そうな声色は、犬のパンドラが今まで見せてくれた態度と変わらなかった。マユミはそれがパンドラの本当の姿だと判った。
「大切な使命をさしおいて?」
女は一歩前に進んだ。パンドラの返事が詰まる。
「……を……、パンドラを、責めないで下さい!」
マユミは叫んでいた。言葉が通じるかどうかは後にして、とにかく彼を助けようとしたのだ。
「あたしが首を突っ込んだのが、あたしが、おせっかいだから、」
「……」
女は髪をかるく振った。パンドラは息をすうと吸って、状況を報告する。
「三人は、『封印魔鏡』に封じ込められました」
「ふういんのまきょう!」
マユミが繰り返す。魔鏡。さっきの鏡の名前に違いない。
「僕は三人より先に地球へ来た時に、魔神の使いガストメンに魔幻術をかけられました」
回答を終えて、彼はマユミの方を向いた。
「大丈夫、この人は、僕と同じ仕事をしている……」
「自己紹介は自分でやります」
言葉はきついものの、女はほほえみをうかばせ、マユミに挨拶した。
「はじめまして。サリシュ=ナーシャと申します。魔界空天王、ギルファー=レビン様に使える者です」
「こ、こちらこそ、矢野原 真友美です」
「ヤノハラ・マユミ--マユミ、あなたのことは、彼が数日前によこした手紙でだいたい調べさせてもらっています」
ナーシャはゆっくりと話しはじめた。
「三人の世話をして頂いたことには、感謝します。しかし、魔天王様は、この我々と三人に与えられた使命を、決して誰にも他言せぬよう、とおっしゃっています。つまり--あなたには辛いことかもしれませんが、もう今までのことは忘れてもらわねばなりません。
「そう……ですか……」
マユミはしっかりと聞き終えて、返事をした。
「せっかく、ハヤテ君たち三人に会えたのに……?」
「ごめんねマユミ。この先、三人のことを覚えているよりも、最初から知らなかったことにした方が、君のためにもなるんだ……」
「会えたことも、忘れてしまうの……?」
澄んだ瞳から、大粒の涙があふれた。
「今泣いていることも、すべて忘れてしまえる魔法をかけます。いいですね」
ナーシャは再び杖を取った。マユミは仕方なさそうに頭を下げた。しかし、声をもらした。
「ナーシャさん、一つだけ、お願いがあるんです、聞いてもらえませんか」
「どんなこと?」
「ハヤテ君たちを……必ず助け出してください。わたしが、全部忘れちゃってても、もう会えなくても、どこかで、生きていてほしいんです」
すぐに返事が無かったので、マユミはナーシャとパンドラを見た。ナーシャの顔つきはくもり、パンドラもうつむいている。
「パンドラ、……説明すべきね」
「はい……」
パンドラはかがんで、あの大きな本の字を、汚れた指でなぞりながら読んだ。
「『封印魔鏡』、
歴史上最悪とされる、鏡の精霊『エヴィル=ミラ』が住んでいる、万物を封印する鏡。エヴィル=ミラと契約した者が、呪文を唱えると、対象を鏡に飲み込むことができる。
ここに封印されたすべてのものは、エヴィル=ミラの
かつて魔界で起こった『暗黒魔鏡戦争』では、反乱軍総統ハーケ=ツイタシン=ゼンがこれを利用し、魔界軍のほとんどを鏡に封印させ、壊滅的な攻撃を加えた。
鏡に封印された者をとり戻す方法は、現在も確定されていない。魔導師の最上級呪文によって、封印を一時的に弱めたという噂が、語り継がれているのみである。……」
パンドラはそこで手を止めた。小さくはじく音がして、マユミの涙が、本に落ちたのだ。ナーシャはそっと胸元から柔らかい布を出して、マユミの頬にあてた。
「鏡に封印されてしまったら、もう……」
その噂でさえ、定かではなかった。むろん、助けたくても、地球に『魔導師』などいないだろう。
絶望だ。涙は止まらない。
(気のすむまで泣かせてあげて……そのくらいは待つわ)
ナーシャはパンドラの傷を手当てしてから、彼にマユミをまかせて、まわりの道具を片付け始めた。
マユミはパンドラにもたれかかり、ナーシャに借りた布であふれる涙をうけとめていた。もうどんなこともできないのだろうか、三人はこのまま死んでしまうのだろうか……と底を打つ悲しみに浸りながら。
(ほんとうに、もうだめなのかな……何か、何かないかしら
……!)
マユミは はっとして起きあがった。
「パンドラ、さっきの、最後の方で、噂って書いてたよね?」
「そ、そう、だけど」
「魔導師には、お願いできないの?」
「残念ながら……魔界にはいま、二人しか魔導師がいないの。二人とも、年老いています。そして、魔法を使うことは、命を削るということ。最強の呪文を唱えるだけの体力は、もう残されていないの……」
マユミは目を見開いた。真実を知ってしまった。深いため息をついた。最後の望みも無くなったと思いかけて、ううん、と首を振った。その時マユミは、以前自分が言ったことを思い出していた。
……あたしは最近、あきらめなくても、だめなものはだめなんじゃないかなって思うことが多かった。そんな考えを、みんなが吹き飛ばしてくれたような気がするの……
「呪文を唱えられる魔導師がいないんだったら、わたしが魔導師になります」
『!!』
二人は当然、驚いた。一瞬だけ、自分たちが持っているより何倍もの強さを感じた。水を得た魚のように、彼女は一気に思いを告げる。
「魔界へ連れて行って下さい! そこでどうにか修行したら、魔導師になれるんですよね!? あたし、魔導師になって、自分でその呪文を覚えてみんなを助けたい!」
ナーシャはマユミの顔を見た。涙にうちひしがれていても、輝く瞳が、ずっと先に叶うかどうかもわからない希望を--三人を自らの手で助け出す希望をとらえているように見えた。
「……あなたの意志の強さには、怖さすら感じます」
パンドラは意外な彼女の返事に身体を動かした。ナーシャは向けるはずだった杖を引き、代わりに帯をマユミにふわりとかけた。
「ナーシャ、君は……」
「マユミ。あなたはこれからもっと苦しまなければならないかもしれないわ」
「……」
マユミはしっかりとうなづく。
「パンドラ、あなたの失敗は今回、魔天王には報告しません。その代わり、これから、私がおかす罪を、しっかり見届けて欲しい。彼女を魔界へ送るわ」
「!!」
「私には、魔界の魔導師のもとへ、魔導師になりたいというあなたを送り届け、魔天王様に事実を伏せること、しかできません。もってもこの世界でいう一年間です。それ以上は、あなたの身体にもひずみが出てしまいます」
「わかりました」
「魔導師になるということは、魔界では何十年もかかることです。それでも、」
「かまいません。ほんの少しでも、できるかもしれないことなら、わたしはそれにかけたいです」
ナーシャは銀の腕輸をつけている右手を前にさし出した。
「手を」
「はい」
マユミはナーシャとパンドラと、手をつないだ。
「魔界で一年が経ったら、もしくはあなたが魔導師になれたか、なれなかった時に、再びこの時間、この場所に戻るようにします」
ナーシャは杖を振り上げた。かけている帯のあたりから、マユミは身体が軽くなるのを感じた。周りの景色が暗くなり、上から下へと風が通るのがわかった。
二人の手を、しっかり握っていた。今頼りにできるものは、そこにしかなかったからである。水に浮いているような感覚の中、さっきまでのことを思い返していた。悲しみに沈み、それでもまだ何かできると頭をあげたことを。それは、三人に出会うまでは絶対にありえなかったことだった。……少しだけでも、強くなれたのだろうか。これから、何が起こるのだろうか。……
マユミは魔界へと旅立った。
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