第一幕 一話 始まりの朝

 住み慣れた街を出てからどれくらい経ったのだろうか。

 青年は遠い海の彼方を見つめながら、ふと、そんなことを考えていた。

 彼が立っている場所は、彼自身の所属している組織が拠点としているマンションの屋上だ。

 青みがかったガラス張りの建物で、三ブロックに跨る規模に比例して、青年のいる屋上もとても広い。

 だが、屋上にこれといって目新しいものはない。せいぜい、少しの緑が植えられていて、ベンチが置いてある程度。

 そんな場所で青年は柵を乗り越え、建物と何もない空間のまさにギリギリの淵。境界に立っていた。

 踏み出せば五百メートル下のストリートに落下して即死だろう。高所恐怖症でない者でも命綱もなく立てば、この上ない恐怖を感じることは間違いない。

 にもかかわらず、青年は静かに物思いに耽っている。

 季節は秋から冬に変わろうとしていた。

 この国の風はとても冷たく、異邦人である彼にも分け隔てなく吹き付けていた。

 青年はゆっくりと彼方に向かって左手を伸ばす。


「かえで……オレはここにいる。今もこうして、オレはお前のいないこのクソみたいな世の中でまだ生きている」


 何も無い空を掴む。

 憂う表情で遙か彼方に広がる海を見つめる青年は兼定鮮夜。

 年齢は十八。

 出身は倭国日本の京都。

 現在はここアイルランド・キングダムでスーペリアーズのメンバーとして悪と戦っている。

 所謂、ヒーローと言うやつだ。本人はヒーローと呼ばれるのを嫌っているが。

 スーペリアーズとして活動している際のヒーロー・ネイムはアヴェンジャー。

 元はリヴェンジャーという名前だったが、鮮夜には最愛の彼女を殺された憎き敵がいた。

 今から三週間前にリヴェンジの対象であるその敵を殺したことで、鮮夜のリヴェンジは終わった。

 そのため、個人の復讐として戦ったリヴェンジャーという名を、今度は人類全体の復讐の代行者ということで、名をアヴェンジャーに変えた。

 正直なところ悪と戦うことにヒーロー・ネイムなんてものを、わざわざ付けることなど、どうでもいいと思っている。


「涙が枯れてしまうほど泣いた。その涙を恨みを力にして、やっとアイツを殺すことが、かえでの仇を取ることができて嬉しかった。だけど、オレの心に開いた穴は塞がらない。オレも連れていってほしかった。お前と一緒に。かえでのいない世界でオレに生きる意味なんてないんだ。それでもかえではオレに言ったよな? 〝生きて〟と」


 かつて愛した。いや、これには少し語弊があるだろう。

 鮮夜は今でも心から彼女を愛しているのだ。

 最早触れることも、声を聞くこともできない最愛の彼女が残した最後の言葉。

 それが鮮夜の生きる意思として機能していた。

 その時、彼が右腕の籠手につけているデバイスから電子音が聞こえた。

 気怠そうに画面に触れる。


《あ、鮮夜! 一体どこにいるんだい?》


 声からして若い男だろう。断言できないのは、デバイスから浮かび上がったヴィジョンには、まさにコミック・ブックから飛び出してきた、全身コスチュームに身を包んだヒーローそのものと言った人物が映っていたからだ。


「スプレッド・レイザー。何か用か?」

《あらら、ご機嫌斜めな感じかい? でも、僕は気にしないよ。ドクターが招集をかけたんだ。今、マンションにいるメンバー全員にね》


 そう言えば朝方、そんなメッセージが届いていたことを鮮夜は思い出す。


《その様子だと無視してたようだね》

「はぁ、オレは確かにスーペリアーズに属してはいるが、お前たちみたいなヒーローと慣れ合うつもりはないって何度も言ってるだろう。ドクターにだってそれは話しているんだけどな」

《はいはい。わかってますよ。それでも緊急らしいんだ。ドクターの頼みだし、来てくれるだろ? もうみんな集まってるんだ》


 鮮夜がドクターの名前を出されると断れないことをスプレッド・レイザーは知っている。なのでドクターという部分を敢えて強調していた。


「チッ、仕方ねぇな。すぐに行く」

《さっすが! じゃあ待ってるよ》


 浮かび上がっていたヴィジョンが消える。

 鮮夜は再び屋上から見える遙か彼方に視線を送る。


 海――。

 何故か鮮夜は海を見ていると心が鎮まる気がしていた。

 たとえ海が凪いでいようと、大荒れしている時だろうとも。

 心の穴が埋まることはないが自分の感情。心のざわめきは寄せては返す波に似ているように思えたからだ。


 そして何より、アイルランド・キングダムの向こうには倭国日本がある。

 最愛の彼女と過ごしたあの国が。

 ここからならどこよりも遠くまで見通すことができた。

 だからだ。彼女を少しでも近くで感じていたいから、毎朝必ずここに来る。


「かえで。それじゃ行って来るよ」


 最後の言葉は心の内で唱えるように吐き出した。


 ――この世界から全ての悪を殺し尽くすために。

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