第一章 Return of the Emperor 皇帝の帰還
第一章 1 ケルベルク城の伝説
「あれは何?」
なだらかに西へと下っていく広大な斜面の途中に、小高い丘がポツンと見えた。
カナリエルが指さしたのは、その頂上に見えている白い四角形をした人工物だ。
ロッシュの追跡をふり切って、二日がたっている。
その間、敵の影はひとつも見えなかった。
まずは順調といっていい道行きだった。
とはいえ、一刻として警戒をおこたったことはなかった。
ステファンは、分かれ道に出くわすたびにわざとのように困難なほうを選択した。
ゴドフロアはつねに背後に気を配っていた。
分かれ道や見通しのきかない一本道では馬を降り、二人を先に行かせては物陰にひそみ、こちらに向かう追跡者がないことを長い時間かけて確認してからまた追いつく、ということを執拗にくり返した。
「何に見える?」
ステファンに問い返されて、カナリエルは首をかしげた。
「家? まさかね、こんなところに……」
「ケルベルク城か」
ゴドフロアがつぶやいた。
「ケルベルク城?」
「伝説のレザリ伯爵領の都城さ。まさか、この眼で見ることになろうとは思わなかった。本当にあったのだな」
「伝説……レザリ伯爵……ケルベルク城……聞いたこともないわ」
「それも当然さ。ゴドフロアが言うとおり、ぼくらフィジカルでも、ただの伝説だとしか思っていない者がほとんどなんだ。スピリチュアルにとっては、記録に残す必要すらなかったのかもしれないね」
「でも、ブランカからこんなに近くに、フィジカルのお城があったなんて……」
カナリエルは、後方をふり返って言った。
背後の山塊は、たしかにブランカそのものだ。
いくつかの森を抜け、大小の川を渡り、尾根も二つ越えたが、大筋とすれば、ブランカの山麓を西へ西へと回りこんできただけである。
ブランカから、直線距離にしてせいぜい一〇数キロというところだろう。
「スピリチュアルが下界に降りてきて、初めて襲いかかったのがケルベルク城なんだ。つまり、最初のフィジカルの犠牲者ということだな」
ゴドフロアの言葉を引き取って、ステファンがつづけた。
「ほら、見てごらん。ここは草ぼうぼうに荒れているけど、高い山々に囲まれていて、これだけの広さと平坦さを持った草地はめずらしいんだ。地上で人がふつうに住めそうな土地としては、たぶんいちばん高度の高いところだと思うよ。ただ、どこにも行き場のない、いわば、どんづまりの土地なのさ」
「どうして、そんな場所に人が住みついたの?」
その質問にはゴドフロアが答えた。
「どこにも行き場がないというのは、後から出現したスピリチュアルが、街道とその周辺をしっかり押さえてしまったからだ。今では堂々とブランカ街道と呼ばれているが、もとはといえば、街道はここへ通じるものだったにちがいない」
「そうか、なるほどね」
「ああ。そしてたぶん、あそこに白く見えるのは城壁の跡だろう。あれだけ堅固で立派なものを辺境の地に造る必要があったということは、北方王国からの侵略にそなえる砦の役目も負わされていたからだろうな」
「えっ。北方王国は、あの切り立った山脈の向こう側でしょ。わざわざあんなに険しくて高いところを越えて、攻めて来たっていうの?」
カナリエルは、ブランカよりもさらに高くそびえる北の山々を指さした。
山頂は、高くかかっている雲のまたさらに上にあり、真夏の今でさえ、白い万年雪をいただいた峰々がいくつも見える。
「わざわざと思うのは今の見方さ。街道が通行しやすく整備されたのは、交易や人の往来がさかんになってからのことだ。昔の戦争は文字どおり略奪のためだった。たっぷり糧食をかかえて出陣したはずがない。しかも、昔の曲がりくねった悪路の街道を進んだのでは、ひどく回り道になる。途中には、当然ながら敵の斥候がひそんでいたり、見張り台がいくつもあるしな。短時日で抜けられ、しかも相手に気づかれずに侵入できる経路であれば、すこしくらいの困難さは問題じゃなかったんだ」
「それにしたって……」
「そう。だれだって、そう考えるのは無理もないよね。あんなところを越えて北方王国へ逃げるなんて、思ってもいないはずさ。だからここへ来たんだよ」
ステファンは得意そうに胸をそらした。
南側に回りこんでいくにつれ、ようやく城塞の全貌が見えてきた。
三方を切り立った崖に囲まれ、唯一なだらかに開けている南の斜面には、石造りの堅固な城門と、それにつづく高い城壁が築かれていた跡が残っている。
「それにしても、ひどい荒れ果てようだね。まるで粉々じゃないか」
案内してきた当人のステファンでさえ、尻ごみするほどだった。
都城というように、かつては支配者の館を中心にして、街がすっぽりと城郭に囲まれていたのだろう。
城壁の内側には、城のほかにもかなりの数の住居が建ち並んでいたはずだが、原形をとどめているものはほとんどなく、丘全体ががれきの山と化していた。
「荒れたんじゃない。破壊されたんだ。しかも一撃でな」
ゴドフロアは、哀れむように眼を細めてつぶやいた。
「たったの一撃で?」
カナリエルのほうは、眼をむいてゴドフロアをふり返った。
ゴドフロアはうなずいた。
「伝説だから大げさで思わせぶりな表現になっているだけなんだろうと思っていたが、このありさまを見て、実際まさにそのとおりだったのだとわかったよ」
「天から星がひとつ降ってきて、城の天守閣に届いたとたん、たちまち街全体が巨大な炎に包まれていた……たしか、そんなお話だったよね」
ステファンが、あらためて丘を右から左へ、ずっと眺め渡しながら言った。
「そうだ。昔話――というより歴史というのかな、そういうことにやたらとくわしい傭兵仲間に聞いたことがある。最初におれたちの先祖の前に現れたスピリチュアルは、今よりずっと恐ろしい強力な武器を持っていたらしい。それを使って、信じられないほど短期間のうちに、大陸全土の何分の一かを征服してしまったのだ」
「これが、その武器で破壊された跡なのね……」
「スピリチュアルにケルベルク城攻撃の言い伝えがないのも当然か。やつらにとっては、これくらいほんの小手調べにすぎなかったのだろう。へたに生き残りに逃げられて、これから攻めていく先の相手にブランカの位置を知られたくないという思惑もあったかもしれないな。そこで、後くされのないように、たった一発でけりをつけてしまったということだ」
ゴドフロアが結論づけると、カナリエルは、さも恐ろしそうにぶるっと身を震わせた。
さらに城門に近づいていくと、眼のいいカナリエルが奇妙なものを発見した。
「あれは、どういうことかしら。こんなところに住んでいる人がいるの?」
城門の大扉は、数百年もの時をへてすっかり跡形もなくなっていたが、石造りの門構えは、まだ一〇メートル以上の高さにそびえている。
その間に、木の枝を組み合わせた急ごしらえの粗末なものではあるが、柵のようなものが造りつけられていた。
「そうなんだ。ほら、ちょうどここの主が帰ってきたみたいだよ」
ステファンが草原の一角を指さした。
カナリエルには、それがいったい何なのか、最初は見当もつかなかった。
白い点のようなものがたくさん散らばっていて、それぞれがちょこちょこ動いているように見えた。
その点が徐々に寄り集まってきたと思うと、ひとつの大きな生き物のような塊になり、くねくねと曲がりながらも、だんだんとこちらに近づいてくるのだった。
「羊飼いか」
群れの両側に若い男女がいるのを見て、ゴドフロアが安堵したように言った。
羊飼いのほうも、三人の中に顔見知りのステファンを見つけて顔をほころばせた。
「久しぶりだね、ゲオル。元気でやってる?」
「おかげさまでね。あれから女房ももらえたし、去年子どもが生まれたよ。まだ小さくてここには連れて来られなかったが、もうじき会える」
ひげ面のゲオルは、うれしそうに笑って若い女房を紹介し、三人を城門の中に案内した。
門の柵は、羊を逃がさないために彼が作ったものだったのだ。
彼らの住居は、城主が住んでいた頂上の城跡だった。
城の上部は壁がいくらか痕跡をとどめているだけだが、その地下には昔のままに崩れ落ちずに残っている部分があった。
雨露をしのぐには十分すぎるほどの空間があって、彼らが使っているのは城壁にうがたれた窓から新鮮な空気と光が入ってくる部屋とその近辺だけだった。
「ゲオルとフィオナはね、実は北方王国の民なんだ。羊の放牧のために、夏の間だけこのレザリ伯爵領にやって来ているのさ」
窓のある空き部屋のひとつに荷物を降ろして腰を落ち着けると、ステファンがゴドフロアとカナリエルに説明した。
ステファンがゲオルと出会ったのは、隊商について北方王国を旅していたときだった。
宿をとった小さな村の居酒屋で、たまたま相席になって酒を酌みかわした。
同年配ということもあってたちまち意気投合し、いろいろな話に花を咲かせた。
ゲオルがなぜ、わざわざ険しい山脈を越えてこの地まで来るのかというと、彼は、親の借金の形として、先祖伝来の放牧地を手放さざるをえなくなったのだという。
代わりの放牧地に頭を悩ませた末に、村の古老から昔軍隊が遠征に使った山岳地帯の抜け道の話を聞き、ゲオルは危険をおかして単身山に分け入った。
そしてついに、羊の放牧にはうってつけのこの土地を発見したのだった。
彼らは、雪がとける春から夏の間、羊を引き連れてここに滞在し、羊を十分に肥え太らせ、ふわふわの毛が生えそろったところで、また村へもどっていくのである。
「あんな頭数では、この草原は広すぎるくらいだろう。それに、毎年彼らがどこかへ消えては羊を立派に育て上げてもどってくるのに、よくほかの者に疑われずに独占しつづけていられるものだな」
「とっくにばれてるってさ。だけど、羊を連れての山越えは大変だし、それになんといってもブランカの真後ろだからね。万が一スピリチュアルに見つかったときの恐ろしさを考えて、だれもまねしようとはしないんだ」
「なるほどな。すると、彼らから北方王国への抜け道を聞けばいいわけだ」
「ぼくもそのつもりだった。それと、道中の食糧を分けてもらうのとね。ところが、彼らも、あと数日したらここを引き上げるというんだよ。だから、いっしょに行ってくれないかって、たった今、逆に頼まれたんだ」
「でも、まだ夏の盛りよ」
カナリエルが不思議そうに言う。
「山脈の北側ではもう秋が来るのさ。羊を連れての山中の移動には、半月近くもかかるらしい。高い山は季節の移り変わりも早いから、ぐずぐずしてるとたちまち荒れて、ひどく冷えこむんだ。一度なんか引き上げるのが遅れて、吹雪にあって遭難しかけたこともあるってさ」
「しかし……」
ゴドフロアは腕組みして、あごの無精ひげをしごいた。
一日でも時間を無駄にしたくなかった。
たしかにスピリチュアルがこちら側に眼を向ける可能性は低いが、まったく度外視するとも考えられない。
時間が経過する分だけ、捜索の網の広がりの中に入っていくにちがいない。
しかも、北の山岳地帯に入りこむまで、おそらく丸一日はさえぎるもののない開けた土地を行くことになる。
敵がほんの数騎の斥候隊だとしても、目立つ羊の群れといっしょにいるとなると、発見される危険性はさらに高くなるだろう。
ゴドフロアは、そのことをずっと考えつづけた。
カナリエルとステファンがフィオナからたっぷりと沸かしたお湯をもらい、浴室にしてある部屋で交替で久しぶりの沐浴を楽しんでいる間も、ゴドフロアはひとり、日が暮れ果てるまで城の上から見張りをつづけた。
その後は、灯りをともした厩で明日の出発を想定した準備をすすめながら、なんとか適切な判断を下そうとした。
ロッシュは、最低限の人数で追って来た。
カナリエルの逃亡を大っぴらにしたくない事情があることは確実だった。
よほどのことがないかぎり、ブランカの全兵力を動員するほどの大規模な捜索が始まるとは考えにくい。
だとすれば、可能性がかなり低い、こんな場所にまでまわす人員の余裕はないかもしれなかった。
ブランカを脱出して以来、ゴドフロアに初めて大きな迷いが生じていた。
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