第四章 2 ファロンの復讐
不審な黒い塊の動きを察知すると、ロッシュはすばやく昇降機前のホールへ踏みこんだ。
「きゃっ――」
マザー・ミランディアが悲鳴を上げたのと、ロッシュが彼女の身体を横に突きとばすのがほぼ同時だった。
黒い人影は、二人の間にできたすき間に割りこむような格好で突っこみ、たたらを踏んで大扉の直前まで達した。
生命回廊の内側にいたアラミクが、あわてて扉の陰に隠れようとする。
「中へ入れてはなりません! はやく扉を閉めて!」
マザー・ミランディアがアラミクにむかって叫んだ。
たちまち大扉が閉ざされ、昇降機前のホールは漆黒の闇に返った。
が、それはほんのつかの間だった。
マザー・ミランディアが手探りで照明のスイッチを入れたのだ。
大扉の前で、覆面のように包帯で顔をぐるぐる巻きにした異様な男がふり返った。
荒い息を吐き、苦しげに身体を屈ませているが、その手には鋭利な短剣が握られている。
男はロッシュとマザー・ミランディアを交互に見て、どちらに向かうか、わずかに迷った。
ロッシュはそれを見逃さなかった。
マザー・ミランディアめがけてふたたび躍りかかろうとした男の手を、ロッシュの足先が鋭く蹴り上げた。
短剣は高い天井まで吹っ飛び、乾いた音をたてて床に落ちた。
マザー・ミランディアがすばやくそれを拾い上げる。
「うがあっ」
包帯の中でくぐもった叫び声を上げると、男はロッシュにつかみかかってきた。
ロッシュはあわてず、サッとわずかに身体を移動させただけでその突進をかわした。
男はぶざまによろけ、昇降機の扉に派手にぶつかった。
その相手がだれで、どのような状態なのか、ロッシュにはすでに見当がついていた。
男がやっとふり向いたとき、ロッシュは包帯に血がにじんだ側頭部をめがけ、握りこぶしを思いきり叩きつけた。
男の腰がくだけ、ずるずると床にくずおれる。
ロッシュに殴られたあたりがみるみる鮮血で染まっていく。
気を失ってはいないが、もはや立てそうになかった。
「アラミク、ロープを持ってきなさい――」
伝声管にむかって、マザー・ミランディアが怒鳴った。
ロッシュはひざまずき、血まみれの包帯の端を指先で引きおろした。
焦点の合っていない男の眼がうつろに宙をさまよっている。
「やはり……」
男の頬に傷口が開いた生々しい傷跡があるのを確かめて、ロッシュはつぶやいた。
「ファロン!」
マザー・ミランディアが、自分の口元をおさえて言った。
「ええ、そうです。マザーが回廊からお出になるのを、待ち伏せしていたにちがいない」
ロッシュはそれ以上言わなかった。
ファロンがマザー・ミランディアに頼まれ、カナリエルの逃亡の片棒をかついだことは、ほぼ推測がついている。
そのことが発覚することを恐れ、口封じをするために救護棟を抜け出してきたのだろう。
ロッシュは、マザー・ミランディアの手から短剣を受け取った。
「な……何をするのです!」
ファロンの胸に切っ先を当てるのを見て、マザー・ミランディアがハッと息をのんだ。
「この男は、あきらかに寮母陛下を弑逆しようという意図をもって襲撃してきました。マザーをお護りするために、私がやむなく手討ちにしたことにします」
ロッシュは感情を押し殺した声で答えた。
「だめ。いけません。ここは、すでに神聖な生命回廊の一部なのです。流血沙汰など……ましてや、命を奪うなどということは……!」
マザー・ミランディアは激しく首を振った。
「しかし、生かしておいては――」
寮母の暗殺までくわだてた男だ。
事実を語ってさえマザーに不利な証言になってしまうというのに、自分が助かるためならどんな卑劣な作り話でもでっち上げることだろう。
助かる見こみがなくなれば、意地でも寮母母娘を道連れにしようとするにちがいない。
「そういう男だということは、わたくしも承知しています。だから、違法なことを手伝わせるのも容易でした。ですが、この男の運命を狂わせたのは、ほかならぬわたくしなのです。これ以上の仕打ちをするわけにはいきません」
そのとき大扉が細く開き、アラミクがロープを手にしておそるおそる出てきた。
「寮母さま、お怪我は?」
血まみれになって倒れている男を恐ろしそうに見つめ、マザー・ミランディアに尋ねた。
「大丈夫よ、アラミク。それより、あなたはこのような者は眼にしていませんからね。ずっと生命塔の中にいたことにするのです。さあ、行きなさい」
「は、はい」
アラミクが扉を閉じる音を背後に聞きながら、ロッシュはファロンの手足を縛り上げた。
ロッシュの心に新たな疑惑がわいていた。
ファロンは、ロッシュが手配して救護棟の個室に押しこめ、けっして外来者と会わせないように係の者に命じておいた。
おぼつかない足どりと焦点の合わない眼からして、強い鎮痛剤が効いていたことも確実だった。
そんな男が、心身の不自由をおしてまで、なぜ急き立てられるように生命回廊に出向いて来たのか。
(皇帝が緊急に帰還したことまで察したかのように、このタイミングで……)
「ロッシュ。その男のことは、保安部のだれかにまかせましょう。今は、謁見の間に出向くことのほうが大事です」
ロッシュの思考を読んだかのように、マザー・ミランディアがうながした。
引っかかるものを感じながら、ロッシュはファロンをその場に放置し、マザー・ミランディアとともに昇降機に乗りこんだ。
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