第48話 零か一か
包丁。
コーヒーに刃物はいらない。
ならば、何に使うかは明確だ。
その刃に舌を走らせて、彼は眼を血走らせる。
「殺して、殺して……肉がたっぷり残って――ああ、もうこんな状況だから他人とは会えないと思ったし会うつもりもなかったのに……目の前に肉塊が来たら、もう興奮して……」
もはや断言できる。
彼はもう、人間ではない。
鬼。
人を喰う鬼だ。
自由に餓えて。
食欲に餓えて。
餓えている鬼。
――餓鬼。
目の前の彼は、餓鬼だった。
他人を喰い散らかし、そして、今度は――客をも喰おうとしている、餓鬼。
つまりは、私は命の危機に晒されているのだ。
――しかし。
「……ふ」
私は、恐怖を感じていなかった。
むしろ笑いさえ出てきた。
そんな私の様子に、人彦は眉を顰める。
「……何がおかしい?」
「いやいや。貴方の判断は至極正しいですよ。私を殺したら、警察は貴方が犯人であることどころか、生きていることすら分からないでしょうね」
そう語りながら、私は立ち上がって両の掌を上に向ける。
「ですがね、篝人彦さん。おかしいとは思いませんでしたか?」
「……何を?」
「私の話ですよ。非常に複雑で回りくどく、長い時間を掛けてお話ししたでしょう」
小説だったら読み飛ばされるほど、長々と。
「私はもっと理路整然として分かりやすく、物語を進められます。しかし、あの一問一答のような効率の悪い進め方をして……ああ、同じことを何度か言った記憶もありますね」
「何が言いたい!」
「要するに、時間を稼ぎたかったということですよ」
「何だと! ということは――」
「ああ、窓の外を見ても、警察が潜んでいる訳ではありませんから大丈夫ですよ。他の理由です」
青い顔の彼に向かって、私は人差し指と中指を立てる。
「貴方は二つの敗因がありました。一つは、その私の意図に気が付かなかった、いわば精神的なことです。そして二つ目の理由は物理的なこと――触覚がないこと。それらが、これから貴方が私を殺すという行動に移せない要因なのです」
「……どういうことだ?」
「まだ気が付かないのですか?」
私は肩を竦めて出口に向かう。
するとすかさず、人彦はカウンターから出て道を塞ぐ。
「ふん。どうせそんな適当なことを言って、それが何だろうと悩んでいる私の隙をついて逃げ出すつもりだったのだろう」
「そんな理屈で乗り切れるわけがないでしょう」
思わず呆れ顔を露骨に見せて、私は人差し指を彼に向ける。
「本当に気が付いていないのですね――それ」
指先が示すのは――彼の右腕。
ないはずの、彼の右腕部分。
そこに視線を移した彼の表情が、見る見るうちに驚きに変わる。
「私がですね、何の対策もなしに殺人者と長い対話をすると思いますか?」
「な、な……」
「大体ですね、病院に行きもせずに縛っただけで血が止まっていたこと自体、奇跡なんですよ。犯行方法といい逃亡方法といい、どこまで出鱈目なんですか、貴方は」
彼の身体が、大きく揺れる。
「これだけ話を伸ばしたのに、ようやく効果ありですか。流石元漁師。血の量がありますね」
「あ、あんた……一体何を……」
「何をって、決まっているでしょう?」
カラン、と包丁が落ちる音を聞いて、私は告げる。
「水を入れに行ったあの時――貴方とすれ違った時ですね。拾った破片で縛っていた布を貴方の皮膚ごと切ったのですよ」
ぼたぼた、ぼたぼたと。
床は真っ赤に染まっている。
彼は興奮して気が付かなかったのだろう。
音すら、興奮する頭には届かなかったのだろう。
その結果。
篝人彦は白眼を向いて、赤い海に飛び込むことになった。
「……ねえ、篝人彦さん」
絶対に意識がないであろう彼に向って、私は声を掛ける。
「私はね、実は貴方を試していたのですよ。正当な理由で同情の余地があって再発の可能性がなければ、と考えていたのですよ」
返事がない肉塊が浮かぶ赤海にゆっくりと歩みを進め、カウンターにある電話の前に立つ。
「しかし、貴方はそのどれもが当て嵌まらなかった。だから私は、貴方がほぼ一〇割死ぬ方に決めました」
受話器を外し、指をボタンに向ける。
一。
一。
そして――
「……零」
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