第48話:自己―Existence―
黄昏時。海に星が、月が少しずつ浮かび上がるそんな時間帯。ニーアはぽっつりと甲板で海を眺めていた。いつも何かを考える時はここで大海原を見つめる。ここでならあの虚ろな海よりも澄み渡って見えるから。ここでなら、あの虚ろな海よりも真っ暗で吸い込まれそうだから。
ニーアは愚痴を溢すような少年ではない。内に秘めて、溜めて、溜めて、溜まっていく。吐き出そうにも吐き出せない。吐き出すという考えに至らない。だから、ただ海を見つめる。
それが母胎に篭る事と同じだとは気づかずに。
「あ、ニーア」
「……キノナリさん」
沈んだ気持ちの中に浸るニーアを呼び覚ましたのは、相変わらずグレイと一緒にいるキノナリであった。本当に仲が良い。グレイのプロポーズを受けて保留にされていても、ここまで仲が良いという事はお似合いなのだろう。ニーアも二人の仲の良さは羨ましいし、参考にしたいと考えるほどだ。
キノナリがとてとてとニーアに近づく。グレイがその後ろを迷彩柄のズボンのポケットに手を突っ込んでやって来る。いつものスタイルだ。
「スミスと喧嘩しちゃったんでしょ。さっき食堂で二人とも難しい表情をしてたし」
「喧嘩じゃ、ないと思います……ちょっと、行き違いで」
「それも十分に喧嘩だ。静かで優しくて、そして自然には解決しないやつ」
グレイがニーアの行き違いを冷静に推測する。流石は狙撃手。人間観察もお得意らしい。もしくはキノナリとそのようなやり取りを行っているからかもしれないが。経験者は語る。恐らく、いつも折れているのはグレイの方であろうが。
ニーアはスミスとのあの心残りな別れを二人に語る。彼からすればスミスの正論から逃げ出したようなものだ。自分が正しいって、そう思い込むために。スミスはただニーアの事を心配したと言うのに、ニーアは履き違えてしまっている。
「――――ふぅむ。青春だね」
「キノ」
「解ってるよ。ニーアの悩みもスミスの言い分も。僕たち第三者がちゃんと教えてあげなきゃ」
グレイがキノナリの名前を呼ぶと目を細めながらも彼女は薄く笑う。ニーアからすれば彼らは大切な仲間であるし、信頼の足る大人だ。数年先とは言え、長く生きている彼らの意見はニーアには重要だ。
興味にそそられるような視線をぶつけるニーアに対し、キノナリは以前の勉強を教えてくれた時のように右手の人差し指をピンと立てて、自慢げな顔を露わにする。ノリノリだ。
「ニーアはどうしても戦いたい相手がいるんだよね?」
「はい。アルネイシアでの戦いで負けた人です」
「なるほど。だからお前は、次の戦いで現れるであろうそいつに挑もうとしていたわけか」
キノナリの説明を横入りするグレイにむー、としかめっ面を作るキノナリであったが、グレイはそんな視線を無視して自分なりの考えを広げる。
「それは間違いではない。だが、同時にスミスの言う事も間違ってはいない。お前達の言い分は平行線だが、考えを変えれば重なる考えだ」
「……グレイ。僕の説明なんだけど」
「ならばここから先はハッキリ言ってやれ。その宿敵を倒して生き残ればいい、と」
「言った! グレイが今言ったーッ!!」
キノナリがガルルルっと犬のように吠えるが、グレイとの身長さもあって仔犬が狼に吠えているようであった。実際、グレイはそんなキノナリに関しては何も反応をせず、ただ悠然と立つのみである。
しばらくして、グレイが相手をしてくれない事を悟ったキノナリは、長めの嘆声を漏らしてから、仕切り直すために咳払いをした。可愛いがかっこ悪いのはキノナリらしい。
「だから、論点が違う。確かに喧嘩じゃない。重要なのは、ニーアがスミスの言葉にどう思ったのか。なぜ、そう思ったのか」
「…………」
キノナリの鋭い指摘に、ニーアは喉に言葉を詰まらせてしまう。言葉を放つのを忘れてしまったように。俯いて、言葉が出ない。
スミスの言葉は間違いではなかった。生き残る事は当然で、ニーアだって死にに行くわけではない。でも、彼女の放った、自分の事、という言葉がニーアを混乱に誘ったのだ。それがぐちゃぐちゃになって、自分の中の問題が混ざり合って解らなくなっていたのだ。
中々話し出さないニーアを見兼ねたのか、グレイは頭を掻いて独り言のように呟く。
「自分の事なんて解るわけがない。その考えは、正しいようで間違いな考えだぞ?」
「え……」
「自分という存在は勿論、他者がいるから成り立つ事もあるが、在り方を決めるのはその本人だ。自分が、なぜここにいて、なぜこう思い、なぜこれをしたいと願うのか。それを決め、それを実行するのはお前だ」
ニーアは判然としない表情を浮かべる。少し難しいと感じているのだ。だがそれは仕方がない事でもある。海の様な世界の流れに流され続けた彼の人生。その最初の決意は、あのアルネイシアでの戦いだった。ヒューマ達が作ってくれた新たな海流に乗った。
でも、果たしてニーアは自分の事を本当に知ってその選択をしたのだろうか。記憶も他人と違って中途半端で、そんな不確定な自分を、自分として認識しているのだろうか。
そんな今更な事実を知って、ニーアは自分が如何に歪な存在かを再確認してしまう。
「僕は……僕は……」
「僕は? どうしたの?」
「僕は、記憶がないんです。八年前、それからを前を……知らない」
その一言に先程まで優しい表情を浮かべていたキノナリに衝撃が走り、表情が歪んだ。基本的に寡黙であるグレイでさえその言葉に驚きを覚えて言葉を漏らしかけた。
数週間、そんな短くも長い期間の中で触れ合ってきた仲間がそんな闇を抱えているなんて想像もつかなかったからだ。ニーアがいつもまとっている漠然とした虚ろな雰囲気も少年兵由来のものだと勘違いをしていた。それ以上に、彼は人間としての根源を知らないのだ。
「解るわけがない……最初を知らない僕に! 自分の事なんて……ニーア・ネルソンの事なんて解るわけがッ――――」
「ニーア・ネルソンはここにいる」
錯乱して喚きかけるニーアにキノナリは冷静に、彼の存在を証明した。彼女の言葉に思わず吐き出しかけた言葉を止めるニーア。凜とし、洗練された刃の様な視線を向けられて怯んでしまっている。
「僕達の知るニーアは君だよ。たとえその昔に記憶を失っていても、今を生きているのは君だ。そして、その中で君は最初に何を思った。何を思ってここまできた! 何を願ってここまで生きた!!」
怒号に近い叫びだ。でも怒っているんじゃない。声音で判る。悲しいのだ。ニーアがこれまでの自分の頑張りを自分で否定している様が。とてつもなく痛々しくて、思わず叫んでしまう。
「ここまで精一杯生きてきたのは君なんだ。君こそがニーア・ネルソンなんだよ……」
嗚咽交じりの叫びは、そこで途切れる。あらん限りの叫びの代償は癒されない涙だ。キノナリがグレイにニーアから涙を隠すために抱き着いて、顔を埋める。こんな姿をニーアには見せられない。彼女の最後の抵抗だ。
だから、彼女の放った叫びをグレイが受け継ぐ。
「自分を否定するな。お前の過去がどうであろうが、記憶を失っていようが関係ない。失ってもなお、お前はここまで生きた。そんな自分を誇ればいい」
そう言って、グレイはキノナリの髪を撫でる。優しく、触れ物に扱うように。
ニーアはキノナリを泣かせてしまった罪悪感をひしひしと感じ、この場を立ち去ろうとする。居心地の悪さも相まって、自分が悪いと解っていても。彼女が自分を肯定してくれた事も解ってはいるけど。この場から立ち去りたい。逃げたいと思ってしまう。
そんなニーアの様子を察したのか、グレイはここらで退散をする事も加味して彼に最後の助言を与える。
「テルリに話をしてみろ。あいつはあぁ見えて、何度も俺達を助けてくれたやつだ。相談をしてみればいい」
グレイの助言は、ニーアの逃げ先となる。ニーアは甲板からすぐに消える。走ったのだろう。彼がこのままテルリの元へ向かってくれればいいが、とグレイは自分の至らなさを思いつつキノナリを優しくあやす。
月夜の光が彼らを包む。夜はまだ始まったばかりだ。
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