46.変化
音が不意に、止んだ。
竜の痙攣も、治まる。
「……なんだよ、おい」
「わかんねえよ」
「どうなってんだよ一体!?」
箱組のメンバーはまだ腹の上で這いつくばったまま、不気味な静寂に耐えきれず、口々に不安の声を上げる。
ヅッソは降下し、抱えていた医師を地面に下ろした。
「……来るのか?」
「ええ、間違いなく」
ドゥクレイに問われ、ヅッソは答えた。
再び“
先ほどよりも巨大で、凶悪な姿で顕現する。
それは避けようのない現実だった。
「よろしくないのう。それは」
「まったくです」
そう言い残してヅッソはもう一度“飛翔”した。
悪夢のような現実に、対峙しなければならなかった。
トリヤは剣を構えたまま動かなかった。
抜き撃ちが決まった瞬間、僅かに安堵した自分。そしてその隙を突かれ牙の餌食になりかけた自分。そんな自分の愚かさをトリヤは許せなかった。
次は隙を見せない。絶対に。
ぎりぎりと集中力を高めてゆく。
臆する気持ちを抑え、精神を研ぎ澄ます。
ヅッソは箱組に撤退の指示を出した。
順番に縄梯子を降り、できるだけ遠くに逃げるようにと指示を出した。だが六人がざわつきなかなか事が上手く運ばない。
「なにやっとるんじゃ!」
隊長の怒声が響いた。
わざわざ縄梯子を登り、竜の腹の上までやってきたのだ。
「人の仕事の邪魔すんじゃねえ! とっとと降りねえか!」
その言葉に、箱組のメンバーがようやく規律を取り戻す。元々チームワークを大切にやってきた連中である。
「ヅッソさん、頑張ってください!」
「頼みます!」
励ましの言葉を口にしながら、男達が白い丘を後にする。
「……旦那、悪かったな」
最後に残ったモルトがヅッソに頭を下げる。
「いえ、感謝します」
ヅッソも頭を下げ、モルトの統率力に敬意を示した。
フィーロはドゥクレイから事情を聴き「……マジか」と言った。
腫瘍を摘出する難しい手術、のはずだった。
まさか世界を焼き尽くすような魔物と戦わなければならなくなるとは夢にも思っていなかった。
当初の、金になる案件という読みは外れてはいなかったわけだが、命まで賭けるつもりは毛頭なかった。できれば逃げて帰りたかった。するべき仕事も作るべき衣服も沢山ある。こんなところでくたばるのは御免蒙りたい。
だが、そんなことを言ったところで何も好転しないのは分かり切っている。
フィーロは大きく息を吐いたあと、再びしゃがみ、糸を紡ぎ始めた。
手術が終われば必要になる大切な縫合糸だ。
フィーロは思った。命はあいつ等に預けることにするとしよう。不本意ながら。
後悔はない。むしろ清々しささえ感じる。
フィーロは黙々と作業を続けた。
確率の著しく低い、僅かな希望に全てを賭けて。
クレナは熱と痛みに耐えかね、うずくまっていた。
魔法を放った直後は緊張と衝撃でさほど感じていなかった火傷の感覚。それがだんだんと明確になり、痛みと熱に身動きが取れなくなっていた。
“小治癒”程度の魔法ならクレナでも使えるのだが、今は魔法動作を行うどころか腕を動かすことすら難しい状態である。風が腕を撫でるだけでも皮膚がきりきりと悲鳴を上げる。
ドゥクレイが箱組の荷の中から軟膏を持ってきた。
「とりあえず炎症と感染を抑えんとな。ちいと痛むぞお嬢ちゃん」
爛れた皮膚に塗りこまれる痛みに、クレナは身を強張らせた。
――満腹感。
――満腹感?
いや、違う。
と、それは思った。
これは満腹感ではない。
満たされたわけではない。
次のステップに進むために、限界まで栄養を摂取しただけだ。
目的を、果たさなければならない。
それは真っ赤なひとつの目を閉じる。
そしてイメージする。
己の身体の変化と、変わり果てる世界の姿を。
静寂を切り裂いたのは、やはり“
腹膜を破って現れたのは、巨大な右腕。
腕は優に二メートルはあった。五本の指が天を向いている。
鈍色に輝く金属質の表皮をそのままに、“
べちゃり。
大きな右手が竜の腹を赤く汚す。
続いて左腕も出現し、竜の白い鱗を赤い飛沫で汚してゆく。
べちゃり。
開創部の両側が“
そして頭部が姿を表した。
長髪の女性を模したような形状だった。
その顔には鮫の時と同じ、赤く大きな目がひとつあった。
口は存在しなかった。
少なくとももう口は必要がなかった。
彼女――そう呼ぶのが正しいのかどうか分からないが――は、もう栄養を摂取する必要はないのだから。こうして変貌を遂げた今、あとは周りを火の海に変えて、死んでゆくだけなのだから。
腕の力で身体を引き揚げる。
肩と胸、そして複数の羽根の生えた背中が現れた。
――ばさり。
畳まれていた血濡れの羽根が世界に晒され、大きく広がる。
羽根は全部で七枚あった。
それぞれが複雑に羽ばたくと大きな身体がふわりと宙に持ちあがり、その全貌が明らかになる。
全長五メートルほどの人型。女性的な体躯と長い髪のようなフォルム。血濡れた羽は羽ばたくごとに輝きを取り戻してゆく。
彼女は宙に浮いたまま、右手の人差し指を森に向けた。
指先から放たれる青い炎。
森を裁つかのように一直線に木々を焼き倒す。
火はすぐに燃え広がり、またたくまに大規模な山火事へと変わってゆく。
ヅッソは“
全て史実の通りだ、と。
この森の木々は空の時代を経て、陸の時代を越えてあり続けてきた。それが一瞬で灰になる。その事実にただただ戦慄する。
だが彼女はいつまでもそうさせてはくれなかった。
彼女の指先が真っ直ぐヅッソに向けられたからだ。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます