17.贈物

 スラム街にあるその酒場は今日も開いていた。

 店の名前は『マディデプス』という。

 バラックに毛の生えたような造りの、カウンター席ばかりの狭い店だった。

 スラム街の一角にはこういった狭く汚い店ばかりが並んだ通りがあった。負け犬横町、と呼ばれていた。

 ストールに腰を下ろし、ロックグラスを傾けている男がいた。もう何杯か飲んでいる様子で、すっかり酔いの回った顔をしている。

 男は大柄で、筋肉質。だらしなく生やした無精ひげを指先で触りながら、酒の香りを楽しんでいる。箱組の一人、スモークであった。

 スモークはここの常連だった。

 箱組の一員である彼は、一旦任務に出てしまうと大好きな酒をほとんど飲むことが出来なくなってしまう。だから街にいる時はこうして毎日のように酒場に入り浸る。

 城内でも酒は飲めるが値段はここの倍ほどする。酔い潰れるまでのみたいのであれば、スラム街で飲む方が安上がりだ。物騒ではあるが、山登りで鍛えられていて上背のあるスモークに喧嘩をけしかけてくる奴もそうはいない。

 スモークは元々、山男であった。

 登山家、冒険家といってもいいだろう。

 誰も登ったことのない山を登り、誰も辿り着いたことのない大地を踏むことが、彼の夢だった。

 箱組に入隊したのはその訓練のつもりだった。

 箱組は、山頂の生贄の少女の元に必要な物資を届ける役目をしている。四人一組で持ち手の付いた箱を背負い、険しい山を登らねばならない。

 職務で山に登る。スモークにとってそれはうってつけの仕事だった。欠員が出たところにたまたま滑り込むことができたのは幸運だったと言えるだろう。

 だが、そうこうしているうちに酒の味を覚えてしまった。

 王国付での仕事であるため金払いも悪くない。こうしてカウンターで酒を飲み、酔いに身を任せ、名前も知らない連中と翌日には忘れてしまうような他愛もない会話を繰り返す。そんな生活をだらだらと続けているうちに登山家としての野望はいつのまにかしぼんでしまった。

 今日も、遥か昔の夢をツマミに酒に溺れている。

 待っている家族もいない。深酒をしたところで誰に怒られる事もない。四〇を手前にして未だに男やもめの独り者であった。

「……お久しぶり」

 不意に声を掛けられた。

 スモークの隣に腰を下ろしたのは、栗色の髪の女性だった。

「おお、久しぶりだな。キルシュ」

 スモークが思わぬ美女の登場に相好を崩す。

 彼女、というわけではない。前にも偶然ここで出会って話をしただけの仲だった。

 キルシュと呼ばれた女性は、肩まで伸びた栗色の癖っ毛に、目もとの黒子が印象的ななかなかの美人であった。

 年はそこまで若くはない。三〇手前ぐらいだろうか。濃い目の化粧が薄暗い酒場の雰囲気にマッチしている。薄い布を重ねた服装は、露出は少ないものの、肩のあたりは程よく透けていて女の色気をうまく醸し出している。ロングスカートも柔らかい布地で出来ており綺麗な足のラインがよく分かる。

「戻ってきてたんだ」

「ああ。またすぐ行かなくちゃならないんだが」

「何かあったの?」

「いやなに、たいしたことじゃない」

 竜を手術する事は国家機密だ。酔ったからと言ってさすがに話せる内容ではない。

「でも、無事に帰ってこれてよかったわね。魔物とかも出るんでしょ」

「……まあな」

 魔物避けのカンテラの事も国家機密である。

 光の照らす範囲内であれば、カンテラに火を付けたものよりも力の劣る獣や魔物、あらゆる生命体から攻撃を受けることはない。ちなみにカンテラに着火したのは古代種の竜デ・ロ・ラシュである。理論上、どんな魔物にも襲われることはない。

 魔物避けのカンテラはマーフォークの遺物であり、人間の魔術士では造ることが出来ないと聞いている。貴重な品で替えがきかない。うっかり話して盗難にでもあったら大事だ。

「大変なお仕事ね」

「そうでもないさ。山は良いよ」

「好きなのね」

「乾杯しよう。奢るよ」

「やった」 

 彼女が嬉しそうにビールを注文する。

 スモークはウイスキーのロックをもう一杯注文した。

 マスターは丸い氷の浮いたロックグラスをスモークに手渡し、続いてゴブレットにビールを注いで、彼女の前に置いた。

「じゃあ、乾杯」

「乾杯」

 グラスを軽く当てる。キルシュがビールに口を付ける。

「んー、おいしい」

 そんなに酒は強くないのか、すぐに顔に赤みが差す。

「お話、聞かせてよ。いつもみたいに」

 そういって女性はスモークの肩に乗せた。香水の良い匂いが男の鼻腔を擽る。

「ああ、いいさ」

 登山経験のあるスモークは、箱組でテント設営を任されている。前回は初心者の魔術士を連れての道中だった。話の種には困らない。話を聞いてくれる人がいるというのは良いものだな、とスモークは思った。


 相槌をうちながら、無精ひげの男の話を聞いている。

 スモークは酔うと饒舌になる。

 慣れない登山でのヅッソ殿の苦労を、こうして聞かせてもらうのは何ともこそばゆい。

 お互いに酒も進み、話が途切れ出す。

「じゃあこれ、お守り」

 とは言った。

 いつもは束ねている髪を、こうして下ろして綺麗に梳いてやると、小柄なスチルマンは妹のシェリーそっくりに変装できるのだった。

 目元に付け黒子をし、厚めに化粧を施してある。暗がりであれば男性だと見抜かれることはまずない。声は元々男性にしては高めのトーンである。少し作ってやればハスキーな女性の声だと思わせることができる。脚と腕の毛を剃るのは面倒ではあったが、妹のためとなれば造作もないことだ。

 キルシュと言う偽名で、箱組の一人、スモークに近付いた。彼が酒好きの独身者であることは調べがついていた。行きつけの酒場を見つけ出し、仲良くなってしまえば任務遂行は容易だと考えた。事実、その通りだった。

 スチルマンは自分の付けていた翡翠のネックレスを外し、スモークの首に付けた。妹から受け取ったものだ。箱組の誰かに渡すように言われている。

 スモークが顎を上げ、少し照れくさそうな顔をする。

「悪いな、前に貰った奴、山で失くしちまって……」

「いいのよ。貴方が無事ならそれで」

 スモークは前にも同じようなネックレスをシェリーから受け取っている。

 細い鎖の先に銀色の球体がついていた。ずっと身に付けていてもくすまずに輝きを持ち続ける不思議な金属だった。同じ球体だったが前は金属質で、今回は同じ球体だが翡翠のような風合いである。

「そろそろ行くわ。頑張ってね」

 もうすでに城門は閉まっている時間だ。今日は変装を解いてどこかに泊まることになる。スラム街は嫌いだ。城内の者だとばれると宿代をぼったくられる。

「ああ、またな」

 再会を約束するでもなく、スモークは言った。

 山男とはそうあるものだと山に教わった。無事に戻り、また会えたならそれを喜べばいい。

 彼女が店を出ていくと、また一人の時間が流れ出す。

「マスター」

 空のグラスを持ち上げる。

「……次で最後ですよ」

 たしなめるように言ってから、氷をピックで丸く削りはじめた。

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