ParasiteⅦ ― loop 1988 ―
日記、日記を書いている。
妹に書けと言われたからだ。
これを書くことによってこの閉塞した状況に何か変化が訪れるとは思わないが、だとしてもこの異常としか表現が出来ない環境の中で、精神の安定を図る為の手慰み程度にはなってくれるだろう。
……なってくれると信じたい。
――ドサリ。
またどこかの誰かが死んだようだ。
死は果たして救いになるのだろうか?
この世界では自ら命を絶ったところで、違うどこかへと行けるだとか、この現実から逃げ出せるだとか……。
その様な都合の良い事実はどこにもない。
ただ、次の今日が来るまでの束の間に平穏を得られるだけでしかないのだ。
もっとも、それがどれだけ得難いものであり彼らがどれだけこの世界に絶望しているかは言われなくてもよく理解できるのだけれども。
だからこそ、彼らはその僅かな時間を求めて屋上から飛び降りる。
血の詰まった袋が地面に打ち付けられる音は今日も鳴り止まない。
喪失者――便宜上こう呼ばれているが、この世界から完全に除外されてしまった人間も数えきれぬ程に膨れ上がっている。
彼らはどこに行ったのだろうか? いま、何をしているのだろうか?
……生きて、いるのだろうか?
問題はそれだけではないし、実のところもっと致命的だった。
今後はその話を書き記そう。
極限状態に陥った人がどういう行動を取るのか?
僕は人間が持つ狂気というものをまざまざと魅せつけられた気分になっている。
――性善説と性悪説というものを知っているだろうか?
誤解を恐れずに大雑把に説明してしまえば、人が生まれ持って有している属性は善か悪かという話だったと思う……。
人の本性は悪だと断言しよう。
それも、どうしようもない位に愚かな。
今の僕らが置かれている状況、そして日毎増して奇行に走る人々。
あの狂った集団。
それら見れば人の本性なんて容易に分かる。
もっとも。
この様に語る僕の正常を保証するものもまた、どこにもないのだけれども。
日が……沈む。
「ん? …………ああ、また戻ったのか」
気がつけば、僕は教室の机の上で突っ伏していた。
もう何回目になるか分からないループ。
同じクラスの生徒はすでに数えるほどに減っており、皆お互い赤の他人の様に思い思いの行動を取り始める。
女子生徒の悲痛な表情を見つめながら、きっと彼女はこれから屋上に向かうのだろうと想像を巡らせ――。
まるで何でもないと言った様子の笑顔で教室に僕を迎えに来る
こうして、僕の一日はまた始まりを迎える。
*
【ループ:1988回目】
気が遠くなるほどの時間が経過した。
おおよそにして6年。
僕らがこの世界で過ごした時間だ。
どこかにメモをしておいても次の今日になれば全て消えてしまう時間の感覚。
僕が正確な日付を理解できたのは、夢衣に教えてもらったからだ。
けどもしかしたら知らないままでいたほうがよかったのかもしれない。
途方もない年月は、生徒たちを狂わせるに十分足るものだ。
一見して普通に見える誰かもその中身はぐちゃぐちゃに歪んでいて、残された者はみな何らかの妄執と狂気にとらわれている。
さぁ特別狂った話をしよう。
極限状態に陥った人間がどの様な行動をとるかの話だ。
人の心理状態はどうやら大別して三つほどのパターンに分けられるらしい。
一つは放蕩と淫欲の限りを尽くした肉の宴だ。
おおよその娯楽を失い、常に強大なストレスに晒される生徒たちの心の安寧を図るには、性行為は彼らの中で体のよい刺激的な娯楽だったのだろう。
初めは数人の生徒たち、互いに好意を持っていた者同士がこっそりと隠れて愛を確かめ合う程度だったと風の噂では聞いた。
だがその行為のタガが外れ、やがて人目も
快楽は、恐怖を一時忘れさせてくれる。
見知ったクラスメイトやお世話になった先輩、そして覚えのある後輩が濁った瞳で淫臭を漂わせながら誘ってきたのはさすがに堪えるものがあった。
決して終わることのない禁忌の宴。
小さな小さなソドムとゴモラは今日も続いている。
もう一つは宗教的な派閥だ。
彼らはこの世界が神の試練だと
異質な化粧を互いに施し意味の分からない言葉を並べ立て、一見すると理性的な会話ができるのだけれども、だがおおよそ常識的な精神は理解できない儀式を繰り返していることから彼らの心が崩壊していることは明らかだ。
神が存在する――彼らの言葉が果たして正しいのかどうかは分からない。
彼らの壊れた心を唯一つなぎ止めるのがその宗教であり神であるのだとしたら、それはある意味で神が彼らを救っているのかもしれない。
今日も校庭からから狂乱に満ちた叫びに似た祈りと、赤々と燃える炎、どす黒い煙がわき上がる。
生きたまま信者を解体し、焼き払うことで神に祈りを捧げるといわれている彼らの儀式。
遠くから香るそれに、僕ももう人が焼ける匂いに慣れてしまった。
彼らの真摯なる祈りは、今日も止まることなく続いている。
最後はグループは簡単でわかりやすい。
それ以外だ。
何者にもなれず、何を成し遂げることもできない。
何かを考えているが、誰にも理解できない。
自分ですら理解できず、ただじぃっと死んだりぼーっとしたり、ただその日を虚無的に過ごす集団とも呼べない集団。
こんな状況になっても、誰かに責任を押し付けて、誰かがどうにかしてくれると信じている愚かな人々。
僕らは虚無だ。
二つの大きな勢力、そのどちらでもない。
神に狂うこともなく現実のままで、
快楽におぼれることもなく、いまだに節制を保っている。
どこかの誰かの様にどちらに狂う勇気や弱さがある訳でもない。
逃げの心があるわけでもない。現状から動こうとする意志がない訳でもない。
ただ、この状況をどこか物語の様に見ている自分が存在していた。
まるで全てが終わってしまった僕にはもう何も残されていない、何かをする手段も、役割も、意味も残されていない。
誰かにそんな風に断じられている様にさえ思えた。
こうして僕らは、今日も変化のない毎日を狂ったまま過ごしている。
*
「いい天気だね。暁人くん!」
「ああ、そうだね叶ちゃん。ずっと同じ日だから、当然なんだけどね……」
その日の屋上はいつもどおりの変わらない景色で、何度も見返したあの空と同じ様に晴れ渡っていた。
もう何回目になるのか数えるのも馬鹿らしくなる世界の中で、僕らはただ日常を緩慢と過ごすだけの怠惰な人形と化している。
あてもなく上がった屋上は
実際幾ばくか残った生徒たちは全員が狂っているのだから、もはや屋上の景色やこの開放的な空間を楽しむ気など欠片もないのだろう。
所々に見える綺麗に揃えられた上履きが、清涼ささえ感じさせるこの空間に異様な陰りを灯していた。
なんの当てもなく、する事もなく。
ただ気分転換の為に叶ちゃんと屋上に来ている。
「あのね……ごめんなさい!」
そんな何もないはずの屋上で、唐突に叶ちゃんそんなことを言い出した。
「え? 突然どうしたの叶ちゃん」
「えっとね、この前のことを謝りたいな……って」
「この前のこと?」
オウム返しで尋ねる。
叶ちゃんの真剣な眼差しを見つめ返しながら、この前のこととは一体いつのことを言っているのだろうかと小首を傾げてしまう。
「うん、そう。あの日、暁人くんが言った、元の世界に戻らないと駄目だって言葉。
――あのね、私ずっと考えていたんだ。どうすればいいかって」
僕が感じる疑問を知ってから知らずか、彼女の独白は始まった。
それはまるで自分自身に言い聞かせるような、どこか決意にも似た想いが込められているものだ。
「あの時私は言ったよね? このままでもいいんじゃない? って。
私は、本当にこのままでもいいと思っていた。それが正しいんだと、そっちの方が私達は幸せになれるんだって思っていた」
「けど違うんだよね。普通はそう考えないんだよね。やっぱり私は――」
「ああ、違うの、そんなことを言いたかったんじゃないの。えっとね、暁人くんの言う通りこのままじゃダメだって、そう思うことにしたの」
「私たちは、このままじゃいけない。このまま終わらない学校生活を送ることは許されない。全部のことには絶対終わりがくる。私も、いつか暁人くんと離れ離れにならなきゃならない」
独白は続く。
僕は彼女が語る言葉に静かに耳を傾けることしかできない。
最後はしどろもどろになりながら、困ったようにはにかむ叶ちゃん。
そんな彼女を安心させるようにそっと笑い返し、先を促す。
僕はちゃんと笑えていただろうか? それだけが心残りだ。
「終わりが絶対に来る。全ての物は始まりがあって、そして終わりがある。今までずっと楽しかったけど、暁人くんは全然楽しそうじゃなかった。私が、間違っていたんだね」
「だから、ごめんなさい。間違ったことを言って、ごめんなさい」
叶ちゃんは、そういって深く頭を下げた。
「叶ちゃん。僕は……」
「大丈夫だよ! これからは私に任せて!」
陰鬱とした僕の気持ちとは違って、彼女の笑顔はあの空の様に晴れ渡っていた。
それが、その笑顔が、僕をどんどんと薄暗い気持ちにさせてしまう。
「私がちゃんと暁人くんを元の世界に戻してみせるから!」
「ありがとう叶ちゃん。でも何も分からないし、もうこのままでいいと最近は思っているんだ」
「諦めないで、私がいる限り、絶対に元に戻るよ」
「でも……」
「大丈夫だよ! なんとかなるよ! ううん、なんとかする!」
何度も、何度も繰り返す。
それが正しいと、僕の望みを叶えことこそが彼女の望みであると言わんばかりに。
「私がどんな手を使ってでも、ちゃんと暁人くんを明日に連れて行ってみせる、だから、心配しないで……」
希望を持つ。
僕にその資格はあるのだろうか? 明日に進みたいと言ったのは決して希望を有していたからではなく、ただ僕がまだあの平凡な日常が戻ってくると信じていたから、それだけの事なのに。
僕は、叶ちゃんの言葉に僕はうまく返すことができないでいる。
だって僕らはもう……。
「ごめんね叶ちゃん。心配ばっかりかけてる」
「私は暁人くんに役に立ちたいから。暁人くんと一緒にいたいから、それだけが願いなんだよ」
「ありがとう叶ちゃん。すごく嬉しい」
「う、うん。えへへ、私、大丈夫かな? おかしくないかな?」
「うん、大丈夫だよ。叶ちゃんは…………叶ちゃんだよ」
叶ちゃんは間違いなく叶ちゃんだ。
目の前にいる彼女は、僕の大切な幼なじみで、ずっと一緒に過ごしてきた大切な女の子だ。
僕の人生には何もなかったし、僕らの関係は一度もおかしくなったことはない。
それがどれだけ残酷で悍ましく、厚顔で傲慢な考えかは他ならぬ僕自身が理解している。
だが、それでも、僕は目の前で自らの正しさを尋ねてくる彼女が偽物だとは思いたくなかった。
「そっか、良かった。もしかしたら、私はおかしくなっちゃったのかもってずっと思っていたんだ。私が私じゃなくなるって、本当の私はもうどこにもいないんだって、そんな気がしていたの」
そんなことないよ。僕は一言だけ告げる。
まるで自分自身に言い聞かせるように。
「けど、暁人くんがそう言ってくれるのならまだ大丈夫。私はきっと頑張れるよ。だから、もう少しだけ、お願いだからもう少しだけ私と一緒にいて欲しいな……」
もちろん。そう僕は彼女に言葉を返す。
「きっとね、この出来事が終わったら、全部元通りになるんだよ。悪いことも、何もかも。だからきっと、大丈夫、私は何をすべきか理解したから。ちゃんと私は、私だから……」
沈黙が二人を間に流れてゆく。
そのまま何もかもが流れてゆき、本当の意味で終わりのない、静かで穏やかな世界へと連れ去ってくれるかのようだった。
「僕は……」
「え? なぁに?」
――ずっと君の味方だよ。
彼女に告げようとした。
だが不意に忘れていた記憶が呼び起こされる。
あの日の僕が、僕自身を責め苛んでくる。
僕に彼女の言葉に応える資格などとうていないと、どの面を下げて彼女の味方などと
そうだ、そうなんだ。
彼女を殺した僕が、なぜ彼女の言葉に応えることができるのだろうか?
あの時の絶叫、嘆き、そして涙。
全てがごちゃ混ぜになってぐるぐると頭の中を駆けめぐる。
僕が殺したんだ。
僕が、叶ちゃんを殺したんだ。
「……? どうしたの? 大丈夫!?」
「ああ、大丈夫。叶ちゃ――」
「「あっ」」
気づけば、僕の態度の変化を心配した叶ちゃんが慌てたように目の前まで来ていた。
視線が交差し、お互い不用意に近づきすぎてしまったことに気付かされる。
彼女の瞳に釘付けになり、視界いっぱいに彼女の表情が写り込んだ。
まるでこの世界に二人しかいないような、そんな特別な感情が湧き起こり、なぜか鼓動が高まる。
彼女との距離がどんどん近づき、このまま彼女を抱きしめそのぬくもりで全てを忘れ去りたいという欲望に引きずられる。
やがて……。
二人の距離は……。
「はいはいはーい!! そこまで!」
「「――っ!!」」
その時の僕のビクつきときたら、滑稽にも程があった。
おそらく、僕の人生におけるみっともない光景のベストテンに入るだろう。
「……夢衣」
「むぅ!!」
いつの間にやら目の前に現れた夢衣は、僕と叶ちゃんの仲を引き裂くように割ってはいると、まるで小姑さながらにわーわー騒ぎ始める。
どうやら僕は妹のことをすっかりこっきり忘れていたらしい。
「今日の夢衣はフラグクラッシャーだよ! そういういのはこの目が黒いうちは許しません!」
「あと一分! あと一分遅かったらよかったのにー!」
あと一分遅かったら何がよかったのか。
ヘタレな僕にはその答えはわからない。
ただ一つ言えることは、この一件の結果、後で夢衣のご機嫌を治す為に僕がいろいろと大変な目にあうであろうということだけだった。
もちろん、こちらで頬を膨らませているもう片方のお姫様も忘れてはいけないのだが……。
とはいえ、僕は少し安堵していた。
このまま夢衣が巻き起こす騒ぎに乗じていれば、あの哀しくて苦しい日のことを、そして叶ちゃんのことを思い出さなくてすむからだ。
「夢衣の目を誤魔化そうたって、そうはいかないよ叶さん!」
「むむむむむぅ」
「ところで夢衣、さっきまで何をしていたの?」
矛先がそろそろ僕に向きそうな頃合いを見計り、会話を挟む。
強引な話題転換は、はたして効果があったのだろうか?
少なくとも、時間稼ぎはできたような気がする。
事実、僕の言葉に夢衣は気持ちを切り替えて反応するそぶりをみせた。
僕と叶ちゃんが二人で話をしている間、夢衣はどこかへ行っていた。
何か調べたいことがあるとは彼女の言葉だったが、それが何を目的としていたのかは僕らにはてんで想像もつかない。
だが、彼女の表情を見る限りそれなりの収穫はあったらしい。
「ああ、そうそう。ちょっと気になる話を見つけて、調べていたんだ」
「調べもの?」
「悪夢はね、それそのものの行動が正体を暴くヒントになることがあるんだよ。悪夢に理由や必然性はないけど、その行動を調べることで正体の一端を知れるの」
夢衣の言葉は以前にも聞いた記憶がある。
そういえば、すっかりと忘れていたが一時は必死に皆で悪夢の正体を調べていたんだっけ……。
けどあの時は結局何も分からなかったはずだ。
何か進展があったのだろうか?
どちらにしろ正体不明の悪夢に関して、そしてこの世界から脱出する方法について、何か解決の糸口となるものを持ってきてくれたようには感じた。
「この前に見た悪夢、便宜上"悪い子"と名付けようかな。それの言葉を思い出していたんだ」
言葉……か。悪い子と名付けられたあの悪夢の言葉を思い出してみる。
それはとても子供じみたもので、あの黒板に描かれた文字とはまた別種の違和感があった。
そこに何か秘密があるのだろうか?
叶ちゃんも僕らの会話から何かを導き出そうと頭をひねっている様子ではあったが、僕同様、何も出てこない様子だ。
「悪夢が何らかの目的を持っているというのは言ったよね?」
「ああ、覚えている」
「芸術作品は……その名前の通り芸術がモチーフになっていたんだっけ」
「ご名答、叶さん」
小さな沈黙が三人の間に流れた。
その言葉が叶ちゃんの口から出てきたことに、強い違和感と拒絶感、そして言いようのない感情が沸き上がる。
僕は何かを言おうとしたが、言葉はついぞ口からでることはなく、夢衣が発した話題の軌道修正によって流されてしまう。
「それでね、一つ気がついたことがあるの」
「何が?」
「悪い子。小さな子どもが癇癪を起こしたようなあの暴れっぷり。そして手」
「嫌なことを思い出させないでくれよ」
目の前でその手によって首をもがれた女生徒の面影が脳裏に浮かぶ。
あの後、彼女は熱心な神の信徒となり、現在も率先して祈りを捧げ人を解体している。
自らの首がもがれる様を覚えているとは、どのような気分なのだろうか?
「お兄ちゃん、よく思い出して、あの手ってどんなだった?」
女生徒同様に、多くの生徒が無惨に引きちぎられ殺されたあの事件を思い起こす。
わざわざ心に蓋をしていたあの出来事を思い出すと言うことは、僕にとって耐え難い苦痛をもたらすものであった。
だが、そうも言っていられない。僕らの目的はこの世界から脱出すること、そして新しい朝を・・・・・・、本物の明日を迎えることだ。
だから必死になって記憶の底からおぞましい光景を引きずり出す。
夢衣の問い、あの悪い子と名付けられた悪夢がどの様なものだったか・・・・・・。
あれはたしか――。
ふわりと、柔らかな感触とともに首元を暖か腕の感触が包み込む。
「女の人の手? 大人の女性だったよう――って、何してるの夢衣ちゃん!」
「お、おい! こら!」
「うふふ。お兄ちゃん、捕まえた」
気づけば、僕の背後から夢衣が覆い被さってきていた。
腕だけおんぶの様な状態だが、妹の体は羽のように軽く僕の体制が崩れることはない。
ただ、叶ちゃんがすごく不機嫌な表情で僕に咎めるような視線を送っているのが胃にくるだけだが……。
「くっつくな! いい年して何してるんだよ……」
「別に何歳になってもくっついていいと思うけど。……気がつかない?」
「何がだよ?」
「むかしむかし、ある所におじいさんとおばあさんがいました――なんてね?」
バンと暗闇で電球が灯されたような衝撃を受ける。
同時に理解した事実、ヴェールに隠された秘密のそれが眼前にやってき、その異様さと不気味さで僕の心を鷲掴みにする。
確かにその光景は、あまりにもあの出来事と似すぎていた。
………
……
…
夢衣に先導されてやってきたのは、なんのへんてつもない図書室だ。
もともと本をあまり読まない性格の為、この場所にはあまり馴染みがない。
引き戸をガラガラと開けると、紙がカビた独特の匂いが鼻腔をくすぐり、なんとも言えない
部屋に生徒はいない。
彼らも図書室を利用するなんて奇特なことをするつもりは無いのだろう。
「本当に図書室にヒントがあるのか?」
「どうかな? でも何もしないで同じ日を繰り返すよりはマシなんじゃない?」
くすくすと、思わせぶりな言葉を返しながら夢衣は図書室の奥へと進んでいく。
やはりと言うべきか、当然と言うべきか。
図書室は普通の教室とは違い軽く見積もっても教室の数倍の広さを誇っており、背丈を越える書架にはびっしりと様々な本が詰め込まれている。
それらの背表紙を撫でながら、当てもなくプラプラと書架の迷路を進む。
不意に夢衣が角を折れて視界から消え、慌てて追いかける。
何故かそのまま永遠に会えなくなってしまうような気がしたから……。
「あのさ、悪夢が本と関係しているのかな……」
「どうなんだろうね? 私も確かなことは言えないかな。でも、何もしないよりはいいんじゃない? 暇つぶしぐらいの気持ちでいこうよ」
「そうだね夢衣ちゃん。確かに最近はもうすることなくなっちゃったしね」
「そうそう。時間はそれこそ――無限にあるんだし、こういうのもありかもしれないよ」
夢衣と叶ちゃんが会話する内容をBGMに、背表紙のタイトルを片目で追いかけゆっくりと歩く。
静かすぎる図書室は寒いほどにひんやりとしており、無限に続くようにも思われる書架も相まって一種の異空間に似た空気を出している。
利用した事がないので分からないが、図書室とはここまで異質さを感じさえるものだったのだろうか?
……答えは出ない。
ふと、小気味良く背表紙を撫でていた指先に違和感が走った。
コツンと当たったそれを確認してみると、どうやら児童向け絵本のようだ。
なぜこんな物が高校の図書室にあるのか?
不思議な気持ちになりつつも、興味が湧き本棚から引きぬき手に取る。
日に焼けてくすんだ表紙には、「白雪姫」のタイトルと共に古めかしいイラストが描かれている。
そういえば、僕も昔こんなのを読んでいたことがあるなぁ。
記憶の奥底に放り投げて置いた記憶が不意に蘇り、ペラペラとめくりながら微かに覚えるストーリーを思い起こす。
だがそのページに来た瞬間、ページを捲る指は止まる。
「なんだこれ?」
ラスト付近のページ。
なんの変哲もないはすそのページが、べっとりと黒に塗りつぶされていた。
「思いがけぬヒント……かな?」
不意にかけられた声に顔をあげる。
瞳の先には夢衣。
だが僕の視線は彼女の手にある本、開かれたページに注がれている。
ぐちゃぐちゃに塗りつぶされたそれは、またもや黒色だった。
「全部塗りつぶされているよ。これも、これも……暁人くんが読んでるのと一緒」
背後から声をかけてきたのは叶ちゃんだ。
差し出された本はなんだろうか? ただ、黒のページが不気味に主張している。
「勉強に使う辞書や専門書は大丈夫みたいだね。一般的な読み物……物語だけが黒く塗りつぶされている」
「最後に何かがあるのか?」
最後のページ。
それが塗りつぶされる意図は……。
いや、ここまで言われたら誰だって思い至るだろう。
当然僕の妹も同じだったようで、まるで安楽椅子に座る名探偵の様に全てを理解した表情で不敵に囁く。
「"幸福論"――ハッピーエンドってところかな?」
幸福論。
悪夢――幸福論。
僕らを閉じ込めた存在、この空間を作り上げているバケモノ。
物語の最後は必ずハッピーエンドで終わる。
苦難と試練を乗り越えた主人公は、必ず幸せな結末を迎えるのだ。
それが一般的な児童書の、定められた道筋と言うものだろう。
「ハッピーエンド……か」
「主人公は最後に幸せに暮らしました。って話だね暁人くん。私もハッピーエンドが好きかなぁ」
「夢衣はバッドエンドが好きかな。――もちろん、物語の中だけの話だよ?」
「暁人くんはどっちが好き?」
「僕は……どちらがいいとかは無いかな。納得のいく最後があればいいよ。ああ、でも分かりきった不幸に突き進む、みたいな話は嫌いかもしれない」
「ふふふ、夢衣たちの物語はハッピーエンドだといいね。お兄ちゃん」
「大丈夫だよ! 私がちゃんと暁人くんをハッピーエンドにしてみせるから!」
僕らにハッピーエンドなんてあるのだろうか?
けど、彼女たちの屈託のない笑顔を見てしまったから……。
「ああ、そうだな。目指せ、ハッピーエンドだな」
二人がいればなんとかなるかもしれない。
この時、僕は真剣にそう思っていた。
心の底から、そう願っていた。
抱いたんだ。
希望を。
だから、そんな過ちを犯すから。
僕らの物語はまだ続いている、なんて幻想に目を向けるから。
だから――。
――ゴーン ゴーン
鐘が鳴り。
「「――っ!?」」
こんなことになってしまうんだ。
「お兄ちゃん、不味い」
「わ、わっ! あ、暁人くん! ど、どうしよう!?」
「二人共、一体どうしたんだ!?」
その音色が世界に鳴り響いた瞬間、二人はまるで示し合わせたように図書室の外、その一点を見つめる。
その表情は、驚愕や不安と言ったものではなく、
何よりも強い敵意が含まれている様に思え――。
僕の感覚が間違いでないと証明するかの様に夢衣は小さくボソリと、
「誰彼かまわず殺しに来た……」
誰に言うでも無く呟いた。
劈くような悲鳴が沸き起こる。
遠くで人々の叫びが流れ聞こえてくる。
僕らの行動が呼び水になったかどうかは分からない。
そうだとも言えるし、偶然重なったとも考えられる。
ただ一つ言えることは……。
「暁人くん、あれ」
叶ちゃんが指さす方向、図書室の壁に備え付けられた連絡記入用の黒板へと視線を向ける。
そこにあるはずの、いつも同じ雰囲気の、毎度意味を成さない啓示じみたメッセージは。
『私の名前は"幸福論"。
幸せな結末には■■■■■――』
べっとりと黒く塗りつぶされていた。
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