秒針一振りの狭間
時間は遡る。
それは
場所は二人の住む家、暁人の自室。
部屋の電気が全て消え、月明かりだけが室内を薄く照らす中で夢衣は静かに自らの兄を眺めていた。
「お兄ちゃん……」
暁人は動かない。
衝撃的な経験により疲れ果てたのか、まるで死んだように眠っている。
布団に入る手間も惜しかったのか、それとも考えこむ内に寝てしまったのか、ベッドの背にもたれるようにして座る暁人は、胸に大きな学校指定の鞄を抱え込んだまま寝息を立てていた。
「……
聞いているはずもないのに、夢衣はそう暁人に断りをいれてから鞄を彼の手から受け取ろうとそっと手を伸ばす。
よほど大切にしているのか、がっちりと抱え込まれたそれをなんとか引き離し手に持ちながら兄の様子を窺う。
暁人は起きる様子はない。
少々乱暴に取り上げたので眠りを妨げてしまったのではないかと懸念していた夢衣は、相変わらず寝息を立てる暁人にホッと胸をなでおろすと紺色の鞄を開き、中身を確かめる。
中には、
ぐちゃぐちゃに破壊されたそれはもはや人間であったことすら分からないが、それでも微かに見え隠れする肌や髪の毛がその物体がかつて人として存在したことを証明している。
異臭が辺りに立ち込め、ぐずぐずと生きているかのように蠢き腐敗している。
かつて生きていたものが死んで、無理やり生きながらえさせられ、そしてまた死んだ。
失われた時間を取り戻すかのようにそれはドロドロと急速に溶け、こびり付くような不快感を撒き散らしながら土塊に戻ろうと形を変えてゆく。
……叶の死体を持ち帰ると言ったのは夢衣の兄である暁人だ。
あの悲劇の後、決して幼馴染みの死を受け入れたわけではない彼はなんとか彼女の身体だけでも持ち帰りたいと主張をした。
それが無意味なことだったとしても、崩壊しそうな彼の心を繋ぎ止める唯一の手段がそれしか残されていなかったのだ。
――叶ちゃんを連れて帰らないと可哀想だ。
叶の死体を抱きしめながら泣いてそう言いはる兄のために、持てるだけの部分を持って帰ってきた。
後始末のことなど最初から考えていなかった。
その様な事柄はさしたる意味も理由も持ち合わせていないからだ。
しかしどうしたものか……。
実際の場面になって夢衣は頭を捻らせる。
彼女がその気になればこの遺体を消し去ることは容易だ。悪夢としての能力をほんのすこし開放して現実を書き換えてしまえば、唯の肉を消し去ることなどなんら労力を要さない。
だがそれではダメなのだ。それでは兄が納得しない。
夢衣は鞄を持ったまま一階へと降りた。
この場に居てはどんどん増してゆく臭気で兄を起こしやしないかとの懸念があったからだ。
とは言え、一階に下りればどうにかなるという問題でもなかった。
いずれ叶だった肉は完全に腐りきり、吐き気を催す悪臭と絶望的な現実だけを置き去りにしてこの世から消え去るだろう。
今のうちに何らかの対処をしておく必要性がある。
当てもの無くリビングにやってきた夢衣は、誰も見ていないにもかかわらず考えこむように首を傾げた。
……いくら現状を説明しても、勝手に消してしまっては暁人が怒り狂うことは間違いない。
では庭にでも埋めて墓でも作るか? ペットじゃあるまいしあんまりだろう。
燃やして灰にし、兄に渡すか? 液状化が激しく生半可な火力では無理に思える。
このままリビングにでも放置? 腐敗の度合いを考えるとその後に訪れる悲劇に目を背けたくなる。流石にこのまま匂いを放置させてはおけない。
冷蔵庫に入れて翌日まで保存する? 良い案にも思えたが流石にそれを実行に移した時の悲劇は彼女にも理解できた。
どうにも良い案が浮かばない。
夢衣はさして困った様子でもなく、ブラブラと血と腐汁を滴らせる鞄を振りつつ真っ暗なリビングでぼんやりと佇む。
どうにも兄が側に居ないとやる気という物が起きなかった。
もっとも、彼女にその様な感情が存在するのかどうかは定かではないが……。
「うーん、困ったね……。もう少ししたらお兄ちゃんにちょっと起きてもらおうかな?」
ぼんやりとした瞳で夢衣が兄の名前を口に出したタイミングとちょうど同じだった。
ずしりと鈍い重さが、鞄を持つ彼女の利き手を襲う。
「…………?」
どさりと思わず落としてしまった鞄を訝しげに眺める。
急に鞄の重量が増し、思わず手を離してしまった。
鞄の見た目は変わらない。何も変化が起きていないようにも感じられたが……。
突如。
ぐちゃり、ぐちゃりと中から異質な音が響いてきた。
夢衣は再度首を傾げる。
室内の電気をつけていなかった為によく確認できないが、鞄の中で何かが
「――ん、――くん」
何かがキィキィと小さな金切り声を上げる。
それは段々と意味を持ち、夢衣もよく知っている声音へと変化を遂げていく。
「…………」
「あー……くん」
確かに夢衣の知る声だった。
彼女が世話になり、彼女と少し前まで言葉を交わし、そして永遠に失われた声。
「
「そっか……」
鞄の隙間から少女の手が這い出て、ドンと床を叩き鳴らした。
ガリガリとまるで誰かを探し求めるようにフローリングを掻きむしると、うわ言の様に暁人の名前を繰り返し繰り返し呼び続けている。
無表情であるはずの夢衣の顔には、何故か感情が見え隠れする。
ここに暁人が居れば、その感情を悲しみと困惑であると判断できたかもしれないが、いま現在ここにいるのは夢衣と叶と思わしき物体だった。
だがこれは叶ではない。
彼女は永遠に失われたのだ。
失われた者は帰ってこない……。
だから――。
「間に合わなかった、か」
夢衣は全くの感情を有しない、どこまでも無機質な声でそう言葉を漏らし、
――やがて翌日の終わりへと繋がる。
僕の妹はバケモノです 鹿角フェフ @fehu_apkgm
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