第60話 逢いたかったから
フミが一人でマンションへ帰り着いていることを願いながらメッセージを打っていると、背後から右肩をとんとんと叩かれて振り向いた。
「淳平」
「フミっ!」
驚いてつい声が大きくなる。
さっきみたいに又周囲の視線が集中しているかもと、肩をすくめながら周りを窺ったけれど、思ったより声は響いていないようだった。
空いている僕の左隣の席に腰掛けると、フミはカクテルを注文した。
訊くと、さっきまで奥のテーブル席に座り、一人で飲んでいたらしい。僕が来た時には、たまたまパウダールームに行っていたようで見つけられなかったみたいだ。
僅かなすれ違いでついさっきまで想像していた嫌なことは、フミの登場でなんとか小さくなっていく。
「遅くなってごめん」
ここに来ることが遅れたことを謝ると、フミは首を横に振り、紹介したかった相手は三〇分ほど前に帰ってしまったと告げられた。
そっか。榊さんは、とっくに帰ってたのか。
正直な自分が胸を撫で下ろす。
「そのあと、一人で待っててくれたの?」
「うん。逢いたかったから」
アルコールのせいなのか、普段のフミにはない大胆な発言に、なんだかこっちが照れくさくなる。いつもと逆のパターンだ。
ダウンライトのおかげで顔色は判りにくいと思うけれど、嬉しくて顔が熱い。
「お腹は? 空いてない?」
「そういえば、空いてるかも」
フミと榊さんとのことが気になって、実は飲み屋でもアルコール以外何も口にする気にはなれなかった。
僕を気遣ってくれるフミからメニューを受け取り、何を食べるか悩む。
「ここのは、どれも美味しいのよ。ね」
カウンター内に居る若いバーテンに小首を傾げて言うと、ありがとうございますと人懐っこそうな笑顔が返ってきた。
フミが勧めるままに、特製ピザと手作りソーセージの盛り合わせを注文した。
料理が出てきて僕が食べ終わるまでの間、フミは隣で二杯のオリジナルカクテルを静かに堪能していた。
ダウンされた照明でさっきは気がつかなかったけれど、目が慣れてくるとフミの頬が赤く上気しているのを見て取れた。落ち着いて見えるけど、実はものすごく酔っているのかもしれない。
食べている間に、僕もビールを二度おかわりしていた。
食事も済み、食後にハイボールを注文する。フミはまだ、さっき注文したカクテルを飲んでいる。
「今日、淳平に紹介したかった人、榊先生っていうの。私たちの高校の美術教師だったのよ」
坂口さんから聞いて知っていたけれど、僕は初めて聞くように耳を傾けてみる。
「とてもいい先生で、大好きだったんだー」
昔のことを思い出し話すフミの表情はとてもうっとりとしていて、僕の嫉妬心がむくむくと顔を覗かせた。しかも、大好きだった。という最後のフレーズが、どうしてもライクではなくラヴに受け取れてならない。
「その榊先生っていう人のこと、どうして僕に紹介しようと思ったの?」
「私が今こうして絵の仕事についていられるのも、先生のおかげなの。だから、淳平に逢って欲しかったの」
ふふふと小さく笑い、グラスに残った淡い色のカクテルを一気に飲み干す。
「これ、美味しかった。もう一杯、同じのください」
空いたグラスをバーテンの方に少し押し、小首を傾げて注文をする。
「かしこまりました」
「明日も個展あるのに、そんなに飲んで平気?」
「そっか。まだ個展、続いているのよね」
相変わらず首を可愛らしく傾げたまま、他人事のようなことを言う。
「なんだか、初日の招待客と二日目の一般客を終えたら、それだけで満足しちゃって」
「こらこら。明日には、まだ観に来ていないお客さんだって来るだろ」
「そうだよね」
肩を竦めて、現れたカクテルのグラスに僅かに口をつけた。
「おいし」
囁くように言う口元はとても機嫌がいいようで、口角が上がりっぱなしだ。
フミが隣で笑ってくれると、僕も幸せな気持ちになる。だけど、その笑顔が榊さんとさっきまで一緒に居たことに起因しているかもしれないと考えると、不満がこみ上げてもくる。
僕の機嫌は、あっちこっちとシーソーみたいに傾きがコロコロと変わっていて忙しいったらない。おかげで、つい意地の悪い質問が口から出てしまったんだ。
「あの先生と、スゲー仲良がかったんだって? 今でも仲いいの?」
フミは、えっ? っと驚いた顔をし、さっきまで上がっていた口角がなりを潜めた。
驚いた顔の延長で、どうして知っているの? なんて顔をするから教えてあげた。
「実は、坂口さんから、少しだけ話を聞いてるんだ」
「なんだ……。そうだったの」
「で?」
質問の答えは? と表情に出して訊ねる。
「聞いてたなら、言ってくれたらよかったのに」
僕の質問はスルーで、フミは少し俯いてしまう。目の前にある、カクテルグラスの色を眺めてでもいるみたいだ。
仕方ないから、フミに合わせるか。
「あの先生とは、個展会場で少しだけ話もしたよ」
「えっ!」
さっきよりも、フミは更に驚いた顔をする。カクテルグラスから僕へと向けた視線は本当に驚いていて、やっぱりあの時隣に立っていた僕のことなど、フミは全く眼中になかったってことを確信してしまう。
泣けてくるじゃないか、くそー。
たかだかちょっとインテリチックに変装しただけで気づいてもらえないなんて、僕への想いを疑いたくなるよ。それとも、榊さんへの興味の方が遥かに勝って、僕ってばその陰に隠れちゃったってこと?
どっちにしろ、泣けるには変わりないな。
頑張れ、僕。
「じゃあ、わざわざ紹介なんてまどろっこしいこと、しなくてもよかったってこと?」
僕が知っていたということに驚きながらそんな風に訊ねるフミだけど、どんな意図で僕にその先生を紹介しようとしていたのかを知らなかったのだから、訊かれても困る。
「なんだー。先生も言ってくれたらよかったのに」
「その先生を弁護するわけじゃないけど。フミが紹介しようとしていた相手が僕だって、向こうは知らないんだろ? だったら、教えようもないんじゃない?」
それもそうねと、最もだというように肩を竦め、フミは又カクテルに口をつけた。
「個展会場で、先生とどんな話をしたの?」
「どんなって、特には……」
あの場所で話題になることといえば、フミのことしかない。しかも、相手はフミのことをベタ褒めしていたなんて、僕の口から言いたくなんかない。
男と女が話す内容で、お互いがお互いのことをよく言うばかりの話など、その二人以外が聞いたって少しも楽しくなんかないじゃないか。
言葉を探すようにしてわざと応えずにいると、次の質問が飛び出した。
「先生と話してみて、どんな印象を持った?」
フミに訊かれて、できるならライバルになるだろうあの人の悪い印象をつらつらと上げ連ねたいところだけれど、悔しいながらどうがんばって探してもあの先生の悪いところが見つからない。
「印象? ……優しそうな人だよね。言葉遣いも、僕のがずっと年下なのに丁寧だったし」
結局、こんな感想。
「ふふ、そうね。言葉遣いは昔からああなの。生徒に対してもずっとあんな感じでね」
楽しそうに笑い、昔を思い出しているのか、フミは頬を緩めている。
「とても丁寧なのに、物腰が柔らかいから親しみ易くて。みんなに大人気だったな」
「みんなにか」
少しだけ含みを持たせて言ってみたけれど、酔っているせいかフミには通じなかった。
少し時間をかけ、目の前にあるグラスをお互いに空にしてから店を出る。
階段を上っていくと、店の人に頼んで呼んでもらったタクシーが僕たちの姿を確認してドアを開けた。車内に乗り込むと、タクシーはすべらかに発進しフミのマンションを目指す。窓からは、雲のない夜空に月が煌々と輝いているのが見える。
マンションに着くまでの間、二人の間には会話らしい会話がなかった。フミは元々口数の多いほうじゃないし、酔っているせいもあるのか、どこか眼差しはぼんやりとしていて、流れる夜の風景をずっと見ている。僕は僕で、仕事の疲れや西森のご機嫌取り。なにより、美術教師の榊さんのこともあって、ぼんやりとしているフミへ煩く話しかける気分にもなれず、同じようにして黙りこくっていた。
今日はフミを送ったら、まっすぐ自分の家に帰ろう。
榊さんのことでモヤモヤとした胸の内を抱えたまま一緒にいると、ギクシャクしそうな気がする。
と言っても、そう感じているのは僕一人の心の問題なのだけれど。
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