第25話 恩返し

「ねぇ」

「ん?」

 加湿器のタンクに水を足して戻ってくると、絵筆を持ったままのフミが僕を見て話しかけてきた。

「どこかに、でかけよっか」

「え? どしたの急に」

 いきなりの誘いは嬉しいけれど、僕は戸惑いを覚えた。同時に驚いてもいたので、危うく満タンになったタンクを手からすべり落しそうになってしまう。

「もう直ぐこれ、仕上がるから。そしたら、どこかへ行かない?」

「いいけど」

 フミの言うもう直ぐっていうのは、今日、明日なんていう近々ではなく、あと数日でという意味。それでもいきなりの申し出に、どうしたのだろう、と僕は首をかしげた。

 フミが僕を誘う事は、ほぼないに等しい。誘ってくれたとしても、今までだったら必ずあの人がらみだった。海に行った時がいい例だ。

 それに僕が誘ったとしても、その誘いが実現した試しもあまりない。せいぜいが近所のスーパーか、ちょっと気晴らしにドライヴなんていう程度。

 ああ、でも。仕事の資料集めやインスピレーションのためには、色々と出かけたよな。それもそれで楽しかったけれど、仕事という概念は常にあったから、デートっていう感じではなかったし。

 そもそも、今回の誘いはデートなのだろうか?

 どこかへ行かない? なんて、僕の心をくすぐるセリフを言ってはいても、結局は仕事絡みだったりしないだろうか。

「どうして、急に出かけようなんて思ったの?」

 探り探りというのを見破られないよう、僕はなんでもないことのように少しの息抜きでコーヒーを一緒に飲みながら訊ねてみた。

「いつも淳平には、お世話になっているから。恩返し」

 恩返し? 瞬時に浮ぶ昔話。鶴かよ。あんまり羽をむしると自分が傷つくぞ、なんて、昔話の爺さんにでもなったように痛い事を思ってみたりする。

 なんにしても、フミのほうから誘ってくれるなんて僕にとってはいい兆候だ。恩返しだろうとなんだろうと、仕事絡みじゃないことは解ったから、これはチャンスだ。

「どこへ行きたい?」

 訊かれて、一泊旅行、なんて前戯も何も吹っ飛ばしたようなことは流石に言えるはずもなく、可愛らしい笑顔でフミの行きたいところならどこへでもなんて言ってみた。

 僕って、健気。そして、我慢強い。

 誰かそんな僕のことを、これでもかってくらいに褒めてくれないかな。褒められると伸びるタイプなんだ。

「私の行きたいところじゃ、意味がないじゃない」

 せっかく、しおらしく一歩下がったところから言ってみたのに台無しじゃん。変なところで食い下がられると、やっぱり一泊旅行がいいわけで。フミがそう言うなら僕の希望を言っちゃうよ。後悔しないでね。

「マジで、どこでもいいの?」

「うん。いいよ」

 嬉々として訊ねると、快い返事が返ってきた。

「後悔しない?」

「後悔って、大袈裟だよ」

 可笑しそうにフミが肩を竦める。

「断るのなしね」

「なぁに、それ」

 今度は、少しだけ呆れたように笑っている。

 しつこいほどに念を押す僕を、フミは笑顔で見ている。そんなフミへ、僕は思い切って言ってみた。

「じゃあ、二人でどっかへ旅行へ行こうよ」

 僕が最上級の笑みで提案すると、フミの時間が数秒止まり、何秒後かに、はじかれたように声を上げた。

「旅行!?」

 僕の提案に目を丸くしているフミは、案の定の反応だ。予期せぬ提案に、戸惑い固まっている。

「一泊でいいからさ。温泉とかいいな。ちょっとのんびりしたいし。あ、前にうちの雑誌で紹介した宮崎でもいいな。僕は同行してないけど、編集さんが結構いい感じだって言ってたし。フミと宮崎牛の旨さを、これでもかってくらい味わいたい。あ、でも、魚介類もいいよな。北海道なんてどう? 寒くなってきたからちょっときついかもしれないけど、魚介類は脂がのって美味しいと思うよ。でも、やっぱ肉かな。近江牛、松坂牛、飛騨牛。あぁ、よだれが出てきた。つか、温泉だよね。近場だと、伊豆とか熱海? 草津もいいよな。温泉饅頭食いてぇ。なんか僕、食い物の話ばっかだ、ははっ」

 捲くし立てるようにベラベラと話す僕の言葉が異国の言語でもあるみたいに、フミは巧く理解できないみたいで口をはさめずにただ聞いている。

「あ……あの……」

 どんどん話を進めようとする僕を、漸くドキマギしたような顔で遮ったフミの頬は、ほんのり紅く染まっている。

 きっと、僕と二人きりで一泊するところを大いに想像しているのだろう。可愛いな。

 からかい気味のニタニタを表情に出さないよう澄ました顔をしていると、フミが質問というように片手をパーにして少しだけ持ち上げる。小学生ですか。

「温泉って……」

「ん?」

「旅館?」

 って、訊くとこそこじゃないでしょ。

 おかしなところに質問の中心点を持ってくるフミに、僕は笑ってしまう。

「旅館でもホテルでも、フミがいい方で」

 笑みを返すと、少し赤らんでいた頬に更に朱がさす。

 結局、旅館かホテルかなんて先走った質問に、一泊旅行がオーケーなのかどうなのか話は曖昧になってしまった。

 いつもの如く、そのまま時間だけが過ぎてしまいそうだけれど、今回ばかりは僕も強引にいくことにする。

 だってあの人がいない以上、もう気兼ねする必要なんてないわけだし。ガツガツと僕のペースで攻めるんだ。

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