第二話 保育園

 4歳になると、私は保育園に入ることになった。妹も産まれていたし、同い年の子達と遊ばせようとしたのだろう。それに祖父母もまだ仕事に出ていたり、農作業をしていたりしていたので、孫の面倒だけみることが難しかったのかもしれない。

この頃はまだ、待機児童などという言葉もなく、家に祖父母がいても保育園で預かってもらえていた。その証拠に、私が3歳になって産まれた妹の美恵は、その頃は家で母が面倒を見ていた。幸せなことに私と美恵は、小さいころから分け隔てなく育ててもらった。本当に分け隔て無さすぎて、姉の私としては不満な面もあったが…。

 特に父は、互いのものを欲しがる私たちがケンカしないようにと、いつも同じものを買ってきてくれた。私が姉だからとか、美恵が妹だからとか差別しなかった。それでもなぜか人のものがよく見えるのが、子供なのだけれど。

 私よりも活発で先を行く妹を、私は後ろから追いかけていた。

「お姉ちゃん、早く!」

「待ってー」

 そんな私たちの光景を両親は、微笑ましく見ていた。最初に木登りをしたのも、長い滑り台に滑ったのも妹だった。慎重派といえば聞こえはいいが、本人としては単純に未知のものが怖かっただけだ。今でも、得意気に木に登ってピースしている妹の写真が残っている。

 小さい頃から人見知りが激しかった私は、一人で保育園に行くのをとても嫌がったのを覚えている。いつも一緒にいてくれた家族がいないところに、一人で放り出されるのだ。しかも、顔も知らない同い年くらいの子どもがあちこちを走り回り、騒いでいる場所が怖かった。こんな場所馴染めるわけがない。嫌だ嫌だと駄々をこねていると、一人の少女が私に声をかけてくれた。

「私、美鈴っていうの。一緒に遊ぼう」

「あら、巴良かったねー。ほら、一緒に遊んでおいで」

「さぁ、美鈴ちゃんと遊ぼうね」

「・・・うん」

 先生や母に促され、私は美鈴に引かれるようにして保育園内に入っていった。


 まさかこの出会いが、私にとって最悪の出会いになることを当時は誰も知らなかった。



 美鈴は、よく言えば積極的、悪く言えばわがままで自己中な子供だった。子どもらしいと言えば、子どもらしい子どもである。

保育園に入る前、私は友達には優しくしなさいと母に言われていた。私はその言葉が頭から離れず、言いつけを守ろうと美鈴のわがままや言うことをほとんど聞いていた。なぜなら、それが人への優しさだと信じていたからだ。誰も何が「優しい」ということなのか教えてはくれなかった。

            


        *     *


 概念や感情といった見えないものを子どもに教えることは難しいことだ。大人であっても、それらを言葉でわかりやすく伝えることは難しいだろう。

 そう考えると「道徳」や「人権教育」というのもは、かなり難しい教科であるといえるだろう。特に、発達に障がいを抱える人は、抽象的なものが理解しにくい。

 人の価値観や考え方、倫理観などを学校で画一的に教えることの恐ろしさや困難さを、上の人たちは分かっているのだろうか。

       *      *



 閑話休題。話を戻そう。

私はそうやって、美鈴と一緒に遊びながらも、嫌々ではあったがどうにか保育園に通った。美鈴はお姫様ごっこが好きで、私はよく王子様役をさせられた。正直言って嫌だった。しかし、正直に言うと美鈴は不機嫌になったり、泣いてしまったりするので言う通りにせざるを得なかった。


 私は保育園でも本を読んだり、テレビを見たりするのが好きな子どもであったが、ブランコやスケーターで遊ぶことも好きだった。特にスケーターは好きで、よく園内中を乗り回していた。帰りのお迎えは主に母か祖母が来ていた。当時はまだ警備などが緩かったので、誰が来ても名前を言えば一緒に帰ることができた。家から歩いて(子供の足で)15分位の所にある保育園だったので、いつも歩いて通った。たまに父が迎えに来るときもあって、そのときはとても嬉しかった。父は多分、その頃は単身赴任をしていなかったと思うのだが、忙しかったのか夜遅い時間に会うことが多かったような記憶がある。

 私が6歳になると、妹の美恵が入園してきた。妹は私に輪をかけた人見知りで、いつも姉である私の後ろをついて歩いた。クラスでの遊びや集まりのときも、私の姿を探すので先生たちも手を焼いていたようだ。時には、美恵と遊ばないようにと、私が先生から注意を受けたこともある。

(私悪くないし‼)

 私はいつもそう思っていた。


 しかし私はそんな美恵が好きだった。家で二人で遊ぶ時も、外で遊ぶ時も、美恵の気持ちを優先して、ケンカしてもすぐに仲直りする。


 私が保育園で特に嫌いだったのは給食の時間だ。家とは違って嫌いなものも食べるように指導される給食は、当時偏食気味だった私にとって地獄だった。食べるまで遊ばせてくれないし、お昼寝の時間もない。しかも、食べ終わった食器を給食室まで運ばないといけない。人見知りな私はこれが苦手だった。おやつでも、私の偏食による苦手なものは出てきた。溶けないチーズとするめだ。しかも、それらが牛乳とともに提供される。味の組み合わせが、私のなかで最悪だった。そのときのトラウマで、今でも白いスルメは食べることが苦手だ。というかスルメは全般的に、食べなくて良いなら食べたくないものになっている。

(早く小学校に行きたいなー)

 私はいつもそう思っていた。遊ぶだけじゃなくて本を読んだり、いろんなことを教えてもらったりしたかった。

 まさか、小学校でも給食があって、休み時間という名の遊ぶ時間もあるなんて知らなかったのだ。



 私は小さい頃から言葉に興味を示し、部屋で絵を描いたり、本を読んだりすることが好きな子どもだった。それが一種のこだわりであり、過集中を起こしていたと思う。

 もし私が活発に動き回る多動を示す子どもであったり、勉強以外に異常な興味を示す子どもであったりしたならば、周囲の大人はもっと早くに私の苦しみに気付けたのかもしれない。そして私も、自分のことをしっかり知れたかもしれない。


 家では、なかなか活発でない私を心配した父が、体を動かす遊びに誘い出していた。バドミントンにボーリング、ゲームセンターにも行っていた。バドミントンは、母もできたので、家の前にある公民館で、よく親子四人でダブルスをしていた。父がいないときは、妹と二人でやっていた。私が部活に入ってからも続けていたように思う。

 ボーリングは、父が一日家にいる日曜日だった。近くのゲームセンターにあったのだが、ストライクを出すとお菓子を貰えることもあり、うちはみんな本気でお菓子を狙っていた。

 あのときは本当に、外より家の方が楽しかった。天国だった。

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