私が病院に通うまで

第一話 誕生

 私こと卯月巴は、バブル経済が終わる頃に生まれた。所謂「失われた20年」世代。前は「失われた10年」だったみたいだけど。

 上の世代の人達には、ゆとり世代ともいわれている。ゆとりにしたのは誰だ!と憤りたくなることもあるけど、最近では悟り世代なるものも出てきているし、自分達とは生きている時代や考え方の違う人達には名前をつけて、区別したいのかなと思っている。


 母は、私が最初の子供だったこともあって、出産にはちょっと苦労した。

4月某日。母は出掛けていた父に対して、産まれるのはまだだと連絡した。しかしまもなくして陣痛が始まり、母は病院へと搬送されたのだ。そしてすぐに分娩室へと運ばれた。

運ばれて数時間。

陣痛はあるのに胎児はなかなか出てこなかった。母にとってひたすら痛いだけの時間が流れる。

(どんだけ世の中が嫌だったんだ私!)


 産まれそうなのに出てこない。


 結局、病院の先生が掃除機のような機械で出てきかけている胎児の頭をすって外に引っ張り出したそうだ。掃除機で吸い出されたのが私だ。

 そのため、この世に誕生してからしばらくは、私の頭の形はかなり伸びていたという。まるで宇宙人のようだったという。

(私は、この時の吸引が原因で、脳に何らかの支障が出たのではと疑っている。まぁ脳に関しては、まだまだ分からないことが多いので、真実は不明だが…)

 母方の祖母、つまり母の母親も、私のその姿に思わず絶句した。自分の娘である、私の母に対してもノーコメント。私を産み落としたほんにんも頭の伸びた私を見て、ちゃんともとに戻るか不安だったらしい。結局父は、私が産まれてから病院に到着した。後に、それを聞いた私がそのことを面白がって、父をからかうこととなる。


 まぁとりあえず元気で、五体満足で卯月家の長女として私は生まれた。

 名前は、もともと周囲が呼んでいたものの中から、父親が選んで漢字の画数まで考えてつけてくれた。旧漢字を使っているので、書類上でよく間違えられるし、呼ぶときの読み間違いもしょっちゅうだ。しかし私は、そんな自分の名前が気に入っている。名前は、親が子供に与える最初のプレゼントだし、愛情の証だ。

 私は卯月家初の孫だったので、祖父母もその友人も私をたいへん可愛がってくれた。きっとたくさんの愛情に囲まれて、私は育ったのだ。

 幼い頃から喋るのも好きで、話すのは比較的早かったらしい。「ともは、口から生まれたけんね」と祖母に言われるくらい、よく喋っていた。その一方で人見知りが激しく、人に慣れるのに少し時間がかかった。


 母はしばらくすると仕事を始めたので、祖父母や友人のおじいさんが私の遊び相手になってくれた。

今でも覚えているのは、ドライブに行くときに田んぼ道を抜けて、ファストフード店に向かい、大好きな焼きおにぎりとスコーンを買ってもらったことだ。

 私は幼少期から食欲がたいへん旺盛で、離乳食を与えるとすぐに口を開けて次を欲しがった。何を貰ってもパクパク食べるので、体もそれ相応に大きくなった。

 もう少し周囲が自重してくれたら、私の体型はこんな丸くならなかったかもしれないのになぁ。

 母が離乳食にすぐに移行した理由として、私が大人の食べ物に興味を示したということと、粉ミルクがダメだったらしく、一定の年齢になると母親は私に牛乳を与えるようになったことがある。今でも牛乳は大好きな飲み物の一つだ。そのおかげか、骨太で今まで骨折をしたことがないのが自慢だ。


 母にとって有り難かったのは、私も妹もほとんど育児書通りに育ったことだということだ。

夜泣きは2時間おき。母乳やミルクは早いうちから飲まなくなり、離乳食に移行。ただ私はハイハイをしなかったようだ。畳やテレビの部屋と呼んでいた部屋の中をゴロゴロ転がって移動をしていたらしい。そのおかげで、移動範囲が狭くて子守しやすかっただろう。特に心配もされることなく、ある年齢になると掴まり立ちをして、ちゃんと歩くようになった。その一方で、妹は言葉よりも動くのが早いんじゃないかというくらい動いて、ハイハイをしてどこでも動き回っていたそうだ。

 この当時から、姉妹の特徴が出てるなと話を聞くたびに思うのである。

 


 私は小さい頃から文字にとても興味を示していたそうで、ドライブに連れていってもらうと、車から見える看板や文字を指して「あれ、なあに?なんて読むとぉ?」と大人に聞いていたそうだ。それに対して、みんなきちんと教えてくれていた。何度聞いても、根気強く答えてくれた。


 絵本も大好きで家にあった小さな絵本をいつも読んでいた。

 我が家には親戚や祖父母から買ってもらった童話の絵本や飛び出す絵本があった。たくさんといえるほどではないが、とりあえず私が満足する程度にはあったと思う。

 それを繰り返し繰り返し読んでいた。家にある絵本は何回読んでも面白かった。

私が特に好きだったのは分厚い紙で作ってある絵本で、子どもの手でもめくりやすいというのと、アンデルセン童話に出てくる動物が可愛いのが気に入っていた。

 また、物語を書くことも好きで、昔書いた落書き帳を見てみると、私が描いた紙芝居を見つけたことがあった。この頃から、私は動物を主人公にした物語を描いていたようだ。

 保育園に入るまで、私は自由に絵本を読んだり、絵を描いたりして平和な日々を送っていた。


 先述したが妹が産まれる前から、母が仕事に出るようになると、祖父母とその友人とドライブに行ったり、近くの小学校で遊んでもらったりしていた。

 その方のことを、私は車で来るおじいちゃんなので、【ぶっぶじいちゃん】と呼んでいた。私はその方を、本当のおじいちゃんのように慕っていて、「中学生になったら、ぶっぶじいちゃんの隣通って学校行くとよねー」「そしたら、じいちゃんが、行ってらっしゃいて言うてやるけんね」という会話をよくしていた。

 その人の家に行って、大きな亀を見たり、話を聞いてもらったりするのが好きだった。今はもう、亡くなっているが、毎年お墓参りには行って、近況報告をするのが我が家の恒例になっている。

 1つ後悔があるとすれば、体調を崩されて家や病院に、よくお見舞いに云っていた。それなのに、小学2年の時、亡くなる直前だったのだ。私は怖くて、すぐに病室を出たことを覚えている。ぶっぶじいちゃんが、怖かったのだ。理由は分からないが、死んでしまうということが、判らないなりに怖かったのだと思う。



 今でもそうだが、私は結末が分かっているものというのはとても安心する。結末が分からないと不安で仕方がない。映画や小説を読むことは好きなのだが、新しいものを見るときは、心が安定しているときでないと最後を見たくて仕方なくなる。

 全部見て、内容や結末が分かっているものを好むので、私の家にはすでに見たドラマや映画のDVDがたくさん置いてある。

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