第三話‐① 小学校

 小学校のクラスメートは、ほとんど保育園からのメンバーと変わらない。今のように、幼稚園受験する人や園の方針によって選ぶような時代ではなかったので、地元の人達が地元の保育園や幼稚園に子どもを預けていた。私のために用意された新しいランドセルに新しい制服、新しい教科書、新しい道具箱。

「これは算数で使うやつ」

「そうね。ちゃんと直しとかんとね。なくしたらいかんけんね」

 道具箱には算数の時に使う磁石のブロックや定規が入っていた。

「これは国語の教科書。私ね、これ、読めるけん!」

「うんうん、すごいね」

 私はワクワクしながら、お母さんと一緒に学校でもらった教科書や道具を開けては話していた。

「なくしたらいかん」

 お母さんに言われたこの言葉は私の心に残り、小学校時代の私はものを無くさないようにと、出したら元の場所にちゃんと戻すことを習慣にしていた。

 学校が始まると、私はとにかく先生の言うことを聞いて行動していた。たまに言うことを聞かないこともあったが、時間を守ることや棚・机の中の引き出しの使い方は言われた通りに物を仕舞った。そうすべきだと思っていた。だから、クラスメートで、先生が言ったこととは違うなおし方をしているのを見ると驚くことがあった。友達と違うことをするのを恐れていた私は、そうすれば先生から怒られないと分かっていたのだろうか。

 

 お母さんに最近聞いた話では、学校の引き出しや棚は綺麗なのに、家の机回りが雑然としていることを少しだけ不思議に思っていたという。しかし、母親自身も片付けが得意な方ではないし、自分に似たのだろうと思い、あまり神経質に注意はしなかった。

 この母の考え方は今になってみると、とても有り難かったと思っている。

 できないことを認めてもらうこと、責められないことは、私のように軽度の発達障害を持つ人にとっては救いだからだ。


 私生活では、相変わらず妹とよく遊んでいた。1年生になってすぐ、帰ってきたら必ず宿題して友達と遊びに行くように言われていた。だから、私はそれを忠実に守った。保育園から帰ってきた妹と二人でよく、バドミントンや裏庭で飼っていた猫と一緒に遊んだ。

 休みの日は、母が古墳のある公園に連れていってくれた。そこには小さな山がいくつもあって、そこで草スキーをして遊んだ。赤い草スキー用のボードを買ってくれていて、それで何回も何回も滑った。

「この紐を引いたら止まるけん!」

「ほんとだ。お姉ちゃん、体を傾けたら曲がるけん!」

「おぉ!スゲー‼」

 他愛のないことで驚いたり、競争したりして楽しんだ。その様子を母が座って見ていた。公園に行くときは、家からおにぎりを持って行って、お弁当屋さんでおかずを買うのが恒例になっていた。何でも家で作ってくれる母が、この時はおかずを買ってくれた。父は単身赴任でいなかったが、3人でおにぎり握ったり、お店でおかず選んだり、ピクニックに出掛けたりするのが楽しくて仕方なかった。


 学校の勉強は好きだった。特に国語。ひらがなを習ったり、新しい漢字を習ったり、音読をしたりするのは、楽しいと感じていた。嫌いだったのは、体育と給食。人と並んで同じことをして、優劣をつけられる体育は苦手だった。まず並ぶのが苦手で、順番を待つのも苦手だった。

それから給食は、保育園の頃からの偏食がなおっていなかった。特に苦手なのが、ネバネバしたものと、ぬるぬるしたもの。納豆やワカメの食感が特にダメだった。また、みんなで一緒に同じものを食べるのが嫌だった。しかも時間が決まっている。急かされて給食を食べて、そのあとに残る給食のにおい。気分が悪くなった。


 私は小さい頃からいじめられやすいタイプだったようだ。保育園から一緒の美鈴に命令されたり指示されたりすることを受け入れることが、優しさだと思ってしまっていた。そのために、特に疑問をもつこともなく考えることもなく従っていた。私は当時、かなり太っていた。小学一年生にしては、横に大きかった。顔がパンパンしていたので、美鈴の家に遊びに行くと「巴ちゃんは、アンパンマンみたいだねー」と美鈴のお父さんに言われた。美鈴も一緒になって笑っていた。

「本当だ。じゃあ私はドキンちゃんかなー」

などと言って、二人で笑いあっていた。私も合わせて笑っていたが、嫌だった。

 彼女からのイジリが酷くなってくると表情を出して反応しないようにした。何を言われてもあまり表情が変わらないため、相手に不快感を与えてしまい、いじめられやすかったのだろう。帰り道、男の子から苦手な虫を目の前に出されたり、やりたくないことに付き合わされたりすることもあった。たまにいやだと思って言葉にだしたり抵抗したりすると、言い方が悪かったのか、私をいじっていた友達の方が逆に泣いてしまい、結局なぜか私が悪いことになってしまっていた。

 そこを正義面して、自分のグループに誘ってくれたのが冬花とうかだった。私は最初、優しくしてくれる冬花に感謝したし、本当に嬉しかった。でも、その優しさが、条件付きだと知るのに時間はかからなかったんだ。彼女は美鈴と同様に、自分が一番でないと気が済まない性質たちだった。当時人気だったアイドルグループのメンバーの中で誰が好きか答えないと不機嫌になったり、自分より注目される人がいると無視し始めたりするような子だった。幸い、私は学校から家が近かったので、帰り道はあまり一緒にいなくても良かった。


 祖母は、何も言い返さずやり返さない私を情けなく思い、常々仕返すよう諭していた。しかしそんな勇気もない私は、5年生に上がるまでずっといじめに近い状態が続くことになる。


 何年生の頃だったか。

 同級生の冬花とうかに約束を破られたこともある。あちらから誘ってきたのに、家に行くと家族で出掛けていたようで、家に鍵がかけられていた。炬燵が私の家にあったから、冬だったと思う。私は冬花の家の前で一時間ほど待ったが、結局冬花は帰ってこなかった。落胆して家に帰りつくと、私は涙が溢れてしょうがなかった。

嘘をつかれた。約束を破られた。友達だと思ってたのに裏切られた。ショックだった。

リビングにある机の下に潜って、私は泣き続けた。そんな私に気付いた祖母は優しく話しかけ、事情を聞いてくれた。

「あんたがちゃんと確認せんけん!」

 その後何故か怒られた。

 翌週の月曜日。朝一番に冬花から声をかけられた。

「この間、家族で出掛けていたんだよねー。ずっと待ってたんでしょ。帰って良かったのに。てかさ、巴ちゃん泣いたんでしょ。巴ちゃんのばあちゃんが言ってたって、ばあちゃんから聞いた」

 冬花からは謝罪の言葉すらなかった。しかも、祖母は勝手に人に話していたのだ。私はショックだった。裏切られた気持ちだった。

 もう誰も信用しないと決めた。


 それから私が、高所恐怖症になる原因となった出来事もある。坂道になっている道路が帰り道にあるのだが、そこから下の道に飛び降りることができる。下には花壇があり、土がこぼれないようにブロックが置いてある。高さは一番高いところで5メートル以上はあっただろうか。そこの3メートル位のところから飛び降りるように言われた。

「みんなやったんだからしなよー」

「そうだよ!降りるだけだよ」

「てかやってないの巴ちゃんだけでしょ」

 この度胸試しのような遊びは、当時私の学年で流行っていて、私の家の方に帰る子達は男女問わずやっていた。うちの近所の地区は昔から住んでいる人が多く、田舎だったからか、やんちゃな子達が多かった。しかし、私は下に置いてあるブロックに落ちるかもしれないと思うと怖くて、いつも1メートルのところからしか飛んでいなかった。

「えっでも…」

「もう!降りたらいいじゃん」

 私は下に落ちた。後ろから冬花に押されたのだと気付いたのは、下に落ちてからだ。幸いにも、ブロックに足を当てることもなく道の方に着地することができた。

「ほらーできるじゃん」

 みんな笑っている。背中を押してあげた感謝するよう言われてお礼を冬花に言った。文字通り背中を押されたのだ。

 その日以来、私は高いところが怖い。加えて、人が後ろにいるのも怖いので、いつも人の後ろから歩くようにしている。


 私が小学校生活で許せなかったことが2つある。

 1つは大事な妹を馬鹿にされたことだ。

 曰く「巴ちゃんの妹って全然喋らないよね。意味が分かんない」「何言っても反応しないし」

 美恵が喋らないのは人見知りをするからだ。それに、相手にしても意味がないと思うと話さない。(これは、美恵がある程度大きくなってから私が感じたことだ) おそらく、何か馬鹿にしたようなことを言ったのだろう。しかし妹はそれを無視した。その対応はある意味正解だが、小学生でそれをすると「変な子」「変わっている」と言われる。そんな妹だが、同級生や下級生には慕われていたようで、学校では私より美恵の名前の方が有名なくらいだった。

 2つ目は、冬花に私の大事にしていたものを取られたことだ。当時、私の学校では、シール手帳が流行はやっていて、私もお母さんにお願いして買ってもらっていた。何のきっかけかは忘れたが、妹とお揃いの手帳用穴あけパンチを買ってもらい、それをお気に入りの手帳に入れていた。今でも覚えている。ラメ入りのピンク色の穴あけパンチ。

 両親はいつも、喧嘩しないように私と妹に同じものを買ってくれていた。あまり不要なものは買ってくれないので、本当に嬉しかった。

 ある日の放課後、同級生の冬花がいきなり私の家に友達数人を連れてやってきた。家には誰もおらず、私だけだった。留守番をしていないといけないと行って遊ぶのを断ると、彼女はおもむろに「巴ちゃんの持ってる穴あけパンチ可愛いよね」と言った。以前、シールの交換をしているときに見ていたらしい。

「うん。妹とお揃いなんだ」

 私は嬉しくてそう答えた。

「ねぇ、それちょうだい」

 意味が分からなかった。当時の私の感覚としては、プレゼントで人に物をあげることはあっても、親から買ってもらったものを簡単に人にあげるなんてありえないことだった。30分くらい断り続けた。

 母親に頼んでやっと買ってもらったこと。妹とお揃いで買ってもらっていること。自分も気に入っていること。など…。

 するとなぜか冬花は泣き出して、どこかへ行ってしまった。そして、残った友達数人に囲まれた私は、その子たちに穴あけパンチを渡すように言われた。

「頂戴って言ってるのに、あげないの?」

「意地悪じゃない?」

「冬花ちゃん、泣いてるよ」「可哀想」

 泣きたいのは私の方だった。

シールを代わりにあげるからとも言われた。そんなもの要らないと言った。これは、私の宝物だからと必死で答えた。

しかし、冬花はいつの間にかその子たちに後ろからじっと私を睨んでいた。ここで冬花を怒らせたら、いじめのターゲットになるのは私だと悟った。

「……分かった。じゃあシール頂戴ね!」

 頑張って明るく言った。そうして大事にしていた、手帳用のピンク色の穴あけパンチを渡した。

「うん。ありがとう」

 そう言うと冬花は皆と帰って行った。私の家の前には公民館がある。そこで冬花と友達はなにやら話している。その様子を私は泣きながら、カーテンの隙間から見ていた。

(お母さんになんて言おう。妹になんて言おう)

 泣きながら、2人に申し訳なく、どうしようとずっと考えていた。

【後々聞いた話によると、冬花はそこまで欲しくなかったらしい。私のものを取りたかっただけだったとその時いた取り巻きの1人から聞いた。それを聞いて、とても悔しかった】


 嫌いな学校生活の中で私を救ってくれたのは、学校での勉強だった。私は学ぶことや新しいことを知ることに関しては貪欲で、幸いなことに「フツウ」に先生の言うことを理解できた。そのため、小学校時代の成績は悪い方ではなく、むしろ良い方だったといっていい。

 勉強ができることは、私に自信を与えてくれ、私自身を守るの武器でもあった。いくらいじめられていても、私を完全に無視することは誰もしなかった。出来なかった。それが私を救った。

 しかし・・・

「あんたは上から目線でものを言うから、いつか友達をなくすよ。その癖直しなさい」

「はい」

 ある日母からそう言われて落ち込んだ。そんなつもりで話していたのではなかったが、もしかしたら自分の話し方が原因でいじめられるのかと思った。それから、私は話し方に気を付けるようになった。しかしその一方で、自分の話し方が気になるあまりに話すことを避けるようになった。

 それから図書室の存在は大きかった。図書室の先生と話すことが楽しかった。冬花が無理矢理私を誘いに来ると、さりげなくかばってくれることもあった。

 でも、そんな図書室も、私が3年になるときに教室からかなり離れたところに移動になった。そこで私は、冬花に本棚に向かって突き飛ばされたり(私が冬花より先になぞなぞに答えたことが原因)、無理難題をいわれたりした。


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