庭園防衛戦ーⅠ

 ヘレンが死んだ悲しみに暮れる空虚うつろだが、泣いてばかりもいられない。彼女から受けた幸福を祈る言葉を無下にしないためにも、諦めるわけにはいかないのだ。

 今も尚、ヘレンは女神の聖盾アイギスとして本来の主の下へと戻り、自分達を護ろうとしてくれているのだから。

「砕け散る破片の一つすら、だなんて。随分と大口を叩くじゃない。貴女が戦の女神であると同時、守護神であることは知ってるわ。だけど私が飼うのもまた、戦の女神。神々の聖域たる天空を支配する無敵の女神……唯一打倒しうるだろう可能性持ってたエレシュキガルの力も、私には及ばなかった。そんな私の攻撃を、防ぎきると言うの?」

他の神ひとのことは言えないが、随分と司る権能の多い女神だ。故に何もかもが中途半端だ。美と豊穣を司りながら、破壊たる戦をも司る。どちらにも突き抜けてない。故にそう簡単に破れると思うないことだ。我が聖盾は、もはや雷霆すらも防ぎきる」

 ずっと遠くで、ゼウスの目尻の血管が浮き出た気がする。我が雷霆がそこまで弱いものかと文句を言いたいだろうが、今は構うつもりはない。目の前の彼女に集中させてもらいたい。

「そう……じゃあせいぜい頑張りなさい。人間の信心を失った神の雷霆なんて、もはやただの雷と何も変わらないわ。私が本物の、それこそ雷霆を叩きこんであげる」

 ユキナは高く飛びあがる。指で天を差すとたちまち大気中の水分が収束して雲を作り、鉛色の曇天が忽ち広がっていく。

 天を司る女神だ、天候を支配するくらい造作もないだろう。だが驚いたのは曇天の中から現れた巨大な目が自分達を見下ろしてきたことだった。

 瞳孔だけで、巨大な空中庭園よりも大きい青眼だ。

「“大地は天を恐れ敬い信仰すグガランナ”――」

「グガランナだと……!?」

 イナンナが恋をした王を手に入れるため、父たる神に頼んでけしかけた天の牡牛。

 嵐の化身たる神獣だ。それこそ雷を落とすなど、造作もないだろう。いや、それどころかこの空中庭園を落とすことさえやりかねない。

 というか、ユキナは庭園ごと落とす気だ。アテナの盾だけで防ぎきれるとは思えない。

「前足を下ろしなさい、天の牡牛! “女神の後光にひれ伏せ大地アルサァマ・アルズィアルクァ”!!!」

 黄金の装飾が施された牛の蹄が、青雷をまとって振り下ろされてくる。その規模はもはや、恐竜絶命の原因だとされている隕石に匹敵するか、それ以上だ。

 それが風を切り、霹靂を嘶かせて振って来る。

 天を仰ぎ、覚悟を決めるしかない空虚を倒れていたアポロンと共に抱き上げたアルテミスは庭を出るかと思えば、ただ屋根の下に隠れただけ。その目は、大丈夫だと安心を促す。

 ただ一人外に立っているアテナは、肩掛けを翻し、霊力を練り上げて空を仰ぐ。そして迫りくる牡牛の蹄に右手を翳し、輝く膜を広げた。

「我が生誕に天は恐れ慄き、真空の宇宙そらすらも大きく歪む。大地と大海は鳴動し、空に輝ける太陽は停止する。空よ、今ここに私はいるぞ――この私とあの女神、どちらがより恐ろしいか、答えるがいい!!!」

 光の膜が形を変えて、大きく広がっていく。霊力感知で確認してみれば、膜は巨大な庭園そのものを包み込んで、形を変えていた。

 その形状は女神アテナを崇拝するため建てられたかの神殿の如く――いや、それよりも神々しく、潔癖に過ぎるほど美しい光が聳えて、天から降り注ぐ蹄を迎え撃った。

「“梟の瞳携えし女神の処女宮グラウークス・パルテノン”!!!」

 雷をまとった巨大な蹄と、女神の宮殿とが衝突する。圧倒的質量などものともせず、宮殿は落ちて来る蹄に対してビクともしない。

 空虚も驚く驚愕の防御力は、ついに嵐という災害そのものですらある牡牛の蹄を弾いて、ユキナすらも驚愕させた。

 どうだ、と純潔の女神アテナには似合わないくらいのどや顔を見せる。

 いや、もしかするとこれが本来の彼女なのかもしれない。美しさで他の女神と競い合ったり、父ゼウスの兄弟であるポセイドンと喧嘩したりと、プライドの高さが垣間見える逸話は多い。

「どうした、今のおまえの一撃はかの雷霆をも超えるのだろう? 強がるな。この程度では、アスクレピオスさえ殺せはしない」

「そう。なら……」

 牡牛の目が遠ざかって、雲の向こう側へと隠れて見えなくなる。直後に牛とは思えない咆哮を上げると、おびただしい数の青雷を落としてきた。

「聳える冥府の扉さえ踏み付けなさい――“天に轟け我が憤怒よ雷鳴となってハーダッブ・アーライッハ”!!!」

 流星群というものを、空虚は肉眼で見たことはない。

 星々が本当に群のように、次々と空を通り抜けていく光のショー。瞬く間に通り過ぎていく奇跡の連続。美しく、感動的な光景なのだろうということは資料で知っている。

 だけどもしもそれら流星の群れが、自分のいる場所へ向かって来たら――ずっと昔にそんなことを考えた記憶がある。そして今迫り来ているのは、昔考えたそれに似た破壊だった。

 数十の雷が群となって、次々と襲い掛かってくる。青、赤、黄金、白銀、漆黒。五色もの雷が次々と降り注いでくるが、それぞれ威力や効力が違うのかはわからない。

 ただしどれも凄まじい音量と雷光で、女神の宮殿を破壊せんと落ちて来る。もはや誰の声も聞こえず、光で視界もままならず、耳を塞いで伏せても、音と光だけで心臓が止まってしまいそうなほどの衝撃を伝えて襲い来る。

 だがその中にあっても、アテナだけは堂々として立ち尽くしていた。

 もはや雷の中にいるのと大差ないこの状況で、防壁を揺らがせることなく維持し続けている。

 結界防壁たる宮殿には亀裂すら入らず、数十の雷による連続攻撃をも耐え抜いた。

 さすがに、ユキナも動揺を隠せない。イナンナにとって切り札の一つですらある牡牛まで出しておいて、傷一つ付けられないなど恥でしかない。

 そしてその点を、プライドの高い女神は痛いくらいに突いて来る。

「初めてみたな。其方がそうして、言葉を失っているところを」

「……! 防御しか取り柄のない駄女神の分際で、粋がらないで!」

 再度、雷を落とそうとする。そうしてムキになった隙を、アテナは突いた。

「雷帝の頭をかち割れ、鍛冶の神が剛腕を持って鍛えた黄金の戦斧――“神割之斧ラブリュス”!!!」

 結界から単身抜け出て、重量を持った光を戦斧に変えて握り締めて薙ぎ払う。斬れはしないものの、鈍重な戦斧の一撃にユキナは飛ばされる。

 吐血しながらも白銀の装甲をまとった武脚で蹴り返す。だが牡牛の雷撃をも止めた結界をまとったアテナの腕に止められて、逆に武脚の装甲が砕け散る。

 脚を振り払われて結界をまとった拳に殴り飛ばされ、ユキナは地上に向かって回転しながら落ちていく。途中で大気を掴むようにして止まり、すぐさま大気を蹴って庭園へ戻る。そのまま庭園を貫いてやろうとしたが、アテナの結界にまたも防がれた。

「勝利の女神たる守護神パラス・アテナが祝詞を捧ぐ! 万人の息づく国を守護せし我が力、今このひと時我へと返し、雷帝の霹靂を斬り裂く一撃を与え給え!」

 結界を滑り下りながら、アテナが肉薄してくる。攻撃を弾かれた反動で動きが止まったところに、振りかぶった戦斧が叩きこまれ、直後に雷撃が走った。

「“雷切ケラウノス・ロス神割之斧ラブリュス”!!!」

 かつて雷帝ゼウスの頭を割るために作られた戦斧でさえ、ユキナの細い体躯を割ることはできない。正確にいえば戦斧そのものではなく、アテナが模倣して作ったものだが、それにしても切れないユキナの体は、もはや異常だった。

 地上へと落としながら、アテナは思う。

 すでに彼女とイナンナの核は魂の中で融合して、解離できない状態にあるのだろう。ユキナとイナンナの霊核がそこまで溶け合ってない状態ならば、解離してしまえば肉体を失ったイナンナは自然消滅すると考えたが、ここまで女神と一体化しているとなると無理だ。

 だとしても、やはり異常だ。天空の最高神、イナンナの権能を扱えるだけならまだしも、ここまで一体化できるなど本来ならあり得ない。

 共にあった時間がそうさせたのか。それとも相性がそれほどよかったのか。とにかく、ここまで神の権能を操ることができる人間はそういない。それこそ、半神半人でもない限りは――

 ユキナを殴った腕に、八芒星の刻印が入っているのに気付く。金色に光るとアテナの全身に激痛が走って、膂力と霊力を奪っていく。

 アテナは権能を有して浄化するが、それだけでもかなりの霊力を消耗しなければ解呪できない。たかが呪印一つで、アテナは今までの勢いを大きく削がれて消耗した。

 それを知っていて、いつの間にか距離を詰めていたユキナはアテナの目を覗き込む。その虹彩は赤く、中心に金星の金色を湛えていた。

「辛そうねぇ? さっきまでの勢いはどぉしたのかしらぁ?」

 白銀の武脚が、粘着質な言葉の直後に軽やかに繰り出される。

 アテナの顎を蹴り上げ、真横に腹部を薙ぎ、追いついて地上へと蹴り落とす。未だアテナの結界が綻びを見せないことを確認すると、迷わず土煙の中に突っ込んで、追撃した。

 白銀の武脚と結界をまとった拳とが衝突し、上がっていた土煙が吹き払われる。

 直後に繰り出された連続蹴りを咄嗟に張った光の防壁で防ぎ、それを破壊した最後の一撃を繰り出した脚を捕まえて投げ飛ばし、踏ん張って止まったところに結界を張って閉じ込める。

 無論、破壊されることは明白だが、時間はかかる。その間に霊術のための詠唱を紡ぐ。

「仄暗い灰色の瞳! 輝ける青の瞳! 梟の如く鋭利な眼光にて敵を睨み、刃たる爪を持って獲物を射殺す! 我が母は叡智の女神メティス! 我が父は天空の神ゼウス! 名を与えることすら憚られる我が霊術よ! 嘶く霹靂を我が力と変えて、かの女神を封じ込めん!」

 ユキナが粉砕した結界より外側に、より眩く輝く光の結界が張られる。それは剣を大地に突き立て、大きな白き翼を広げた天使のような形となって、ユキナを突き立てる剣の中に閉じ込めた。

「“有翼なる勝利の女神ウィクトーリア”」

 触れた指先が結界に弾かれたユキナは、それに込められている霊力を感じ取る。

 霊力を大きく消耗し、吸収までされておきながら自身より格上の女神一柱を隔離できるほどの結界を作り上げるなど、さすがに神話に名高いオリンポス一二神の一角は伊達ではない。

 さらにいえば、彼女は本来の力の象徴たる盾を取り戻した状態。これがオリンポス一二神本来の実力ということなのだろう。

 そして今、ミーリとオルアが空中庭園目掛けて飛んで行った。仲間の安否を確認するためだろう。

 あれを追撃するには、今自分を閉じ込めている結界も空中庭園を覆っている結界も硬すぎる。なるほど時間稼ぎにはもってこいだ。それこそ彼女が本調子で、相手が化け物程度なら千年は軽く閉じ込め続けていられるだろう。

「まさかここまでやるなんて……これは私でもそう容易くは破れないわね」

「そうだ。おまえ相手では一時間も持たぬだろうが、あの者らが庭園に辿り着くまでの時間稼ぎならできる。おまえにも回復の隙を与えてしまうが……今は庭園より遠ざけることを優先しよう」

「賢明ね。そういえば、知恵の神様でもあったっけ――じゃあ、知ってるわよね? 私が取り込んでいる女神イナンナ、イシュタルがあなた達オリンポスの中では誰に該当するのか。戦はあなた、豊穣はアルテミス、なら……は?」

 ずっと上空から、あるはずのない音が聞こえてアテナは振り返る。

 庭園から大量の泡が噴出して、滝のように流れ落ちて大地へと積みあがっては崩れて、押し広がっていく。

 泡は結界を通過しているが、溶かしていたり破壊しているわけではない。すり抜けているだけだ。故に防御に影響はないが――

「そう。あなた達の神話では彼女が私の立ち位置。私にはあなたと言い争った記憶はないけれど……私もまた、この世で最も美しい存在――アフロディーテの片割れなのよ」

 泡の女神アフロディーテ。

 まさか共謀していた――いや、今の彼女にそんな力はない。そもそも彼女は戦神ですらなく、イナンナと重なっているのは美しい神としての肖像の部分だけのはず。

 何より、彼女は夫であるヘパイストスを殺されて気が狂っていた。そんな状態で共謀など画策できるはずがない。

 ましてや洗脳など――

「泡の女神アフロディーテは浄化の女神……彼女を洗脳などできるはずが――」

「洗脳の手段が呪詛や毒なら、あの子には効かないでしょうね。でも、あの子と同じ美の象徴――それも黄金の洗脳なら? 自分の力に対してこそ耐性を持っていても、自分と同じ系統の上位互換に、単純な力比べで勝てはしない。それこそ、戦いの神ですらある私があの子に負けるはずもないのよ」

 庭園で炎が上がる。泡を消すために誰かが放ったのだろうが、泡はそれすらも侵食して、未だ勢いを衰えさせることなくなだれ落ちてくる。

 元々彼女の操る泡は浄化よりも、膂力や霊力を含めた力そのものを削ぐ能力の方が今は強い状態だ。だからこそ厄介でもある。

 何せ霊術を発動させても、その力を徐々に削いで、最後にはマイナスにまで下げてしまうのだから厄介極まりない。

 アテナも彼女の泡の効力をすり抜けることはできるが、無効にはできない。せめて庭園内が泡で満ちて窒息することのないように、泡を外へ流しだすくらいだ。

「私を止められたことで安堵した? あなたの結界は確かに私を止めた。けれど、私の力を止めることなんて、あなたでも適わない。イナンナ、イシュタル、アフロディーテ、アスタルテ、アナト、ヴィーナス。それぞれの神話に名を変えて、姿を変えて残っているのがこの私。その頂点がイナンナというだけで、その他が目覚めていないというだけで、私は世界各地にいるようなもの……そして私は、天の女主人。月の神の娘にして太陽神の双子――」

 このとき、アテナは違和感を感じていた。

 先ほどまでと、本当につい今さっきまで、そこにいるのはユキナ・イス・リースフィルトだったはず。神の力を操ろうとも、複数の神を飼い慣らそうとも、そこにいたのは人間のはず。

 だが、今目の前で、自分の結界に閉じ込められながらも悠々と語るそれは、アテナと同じ神の気配を帯びた、神そのものだった。

「貴様、まさか――」

「姉の力に、オリンポスの力――縁の誓い神々の力に触れた影響なのかしらね。まぁおそらく、出てこれるのはほんの少しの間だけでしょうけれど……話し相手もいるし、退屈はしなさそうね」

「イナンナ……」

 ユキナの口でそれは語る。それは笑う。

 彼女の中にあり続け、彼女の思うがままに力を振るい続けた女神イナンナが、彼女の体を借りて初めて、人格を表に晒した。

「さて、女神アテナさん? 一つ賭けをしない? この子が愛する彼がアフロディーテを殺せるか殺せないか――どっちに賭ける?」

 燃え盛る炎があっという間に鎮火される。

 もし自分を火刑に処したあの日にこの泡があればなどと考えることはないが、それでも自分を焼き殺した炎があっけなく消される様を見るのは、聖女ジャンヌ・ダルク――基、オルア・ファブニルでもムッとならざるを得なかった。

「僕、なんかパワーアップしたのに最初の相手がなんでこんな相性悪いかなぁ……これじゃあ僕の見せ場がないよぉ」

 目の前にいるアフロディーテは、二人が見た幼い子供の姿ではなく、絶えず揺らめくウェーブのかかった金髪が伸びて、女性的な美しさを象徴する裸体を晒す女性だった。

 両手から絶えず泡を出しており、微笑を湛える美しく整った顔の中で、黄金の双眸がそれこそ、宵闇の中で獲物を狙う梟のように鋭く光って二人を狙っていた。

 さすがに女神の中でも最高の美しさと謳われるだけあって、裸体であることよりもその美しさに充てられて異性は目を向けることすら許されず、荘厳かつ優雅な姿は神の力をまとった二人よりも神々しさに満ちていた。

 そんな彼女を、ミーリは恥ずかしげもなく直視する。

 女性の象徴であり、美しさの極致たる肉体を見せつけられて何も思わないことはないが、それでも怯むようなことはなかった。

 この目はもう、すでに愛する女性の体をしかと焼き付けているのだから。

「じゃあ、二人でやるよ。あの金色の目、多分ユキナの霊術だと思う。二人でとりあえずあの頭、気絶するまでぶっ叩こうか」

「さらっと怖いこと言うなぁ……まぁでも、それしかないか。よし! やろっか!」

 聖女は燃え、時空神を司る青年は槍を構える。

 絶えず女神から溢れ出る泡の中でも大きめの気泡が弾けて割れたとき、二人は同時に仕掛けた。

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