愛の偶像

 時間を少しだけ遡る。

 空虚うつろは園内を走っていた。

 体の中に宿しているエレシュキガルが、ユキナの――イナンナの接近に気付いたからだ。

 庭園には怪我を負った仲間達が匿われている。

 急ぎ、ユキナの進行を防がなければならない。

 最悪、庭園を支配しているセミラミスがやられるようなことがあれば、この庭園自体落とされかねない。

 とはいえ、あなた自ら止めに行くのは、反対なのだけれどね。

 体内の女神エレシュキガルは訴える。

 だが空虚は、自分以外に戦えるものはいないだろと、正論でねじ伏せた。

 正確にはミーリの武装もいるのだし、戦力がないわけでもないのだが、しかしユキナには敵わない。

 彼女と戦えるのは、彼女に拮抗する力を与えられた空虚だけだ。

 そもそも彼女と拮抗するために、自分はエレシュキガルという力を与えられたのだから、ここで出ないと意味がない。

 ミーリにこの庭園を託された以上、ミーリに戦う力を与えてもらった以上、戦う以外の選択肢はない。それが荒野あらや空虚の、生涯を誓った男に着いて行くことを誓った女の意地だ。

 そもそも守られるだけなど、性分ではない。

『主、これ以上近付いては私の力を十二分に発揮できません。接近戦では不向きです』

 パートナーの言うことは最もだ。

 だがしかし、相手は遠距離狙撃などものともしない怪物だ。

 いくさの照準機能を以てしても、矢は一本も当たらないだろう。そう、ただの狙撃ではダメだ。

 近距離から、ゼロ距離から叩きこむしかない。自滅覚悟で接近して、懐にありったけの霊力を――

「それはただの自殺でしかないよ、空虚くん。僕はそんなことをさせるために、育ててきたつもりはないんだけどな」

 不意に、知らない声。

 だがすぐに、空虚の脳裏にある人の顔が浮かぶ。

 直後に陰から現れたのは空虚もよく知る人――ラグナロク学園長の帝鳳龍みかどほうりゅうだった。

 しかし彼は今、行方不明だという情報が流れている。

 まさか彼に化けている敵の策略かと思ったが、直後に出てきた透明な髪の少女を見てその考えを改めた。

 常に鳳龍の側にいた彼の名も知らぬ神霊武装ティア・フォリマ。彼女がいるということは、彼は帝鳳龍に違いない。

 だがそれでも、疑問は残る。

「行方不明の学園長が、どうしてここに?」

 半歩、後ろに下がる。

 少女がいるとはいえ、まだ彼が学園長だという確証はない。

 変身能力を持った何かが、二体揃って来ている可能性だって捨てきれないのだ。

 彼は半歩引いた空虚に、それでいいよと笑みを零す。

「僕はそもそも、このときのために姿を眩ませていたんだ。ミーリくんと彼女の経歴も因縁も、勝手に調べさせて貰ったよ。本当はオルアくんに託していたのだけれど、多少の予定変更くらい構わない。何より僕らの計画よりもベターな方法があるのなら、なんでもいいのさ」

「なんの話を……」

「簡単に言ってしまえば、僕らは君達の、ミーリくんの味方さ。彼には勝って貰わないと困る。オルアくんに代わって彼が、次代の人と神を繋ぐ架け橋になってくれることを祈るしかない」

「私達に、助力してくださると?」

「そういうことさ」

 少女がいつの間にか、空虚の手を取っている。

 同性故にそれだけで繋がった霊力パスが、仮初の契約を示していた。

「その子をあげよう。接近戦が苦手な君でも、うまく扱えるはずだよ」

「あなたは、一体……」

「神と人間が手を取り合って生きる新時代。それを心から願う者さ」

 透明な髪の、名もわからぬ少女。

 不随なのか誰とも一切口を利かず、いつだって閉じられている。際立って無口なことから、ミーリはムゥちゃんなどとあだ名をつけて呼んでいた。

 刀剣の武装であることはわかるのだが、名前も不明でどんな能力を有しているのかもわからない。

 学園長はただ、凄まじい切れ味の刀だということだけ告げて消えてしまった。

 結局ほぼ押し付けられた形で、刀剣の礼装を受け取ってしまった空虚だが、今は受け取ったことに感謝していた。

 この刀がなければ、彼女と張り合うことはできなかっただろうから。

「“金色の名を持つ三日月角の堕天使アスタルテ”!!!」

 金色の霊子を軌道線上に残しながら、電光石火の速度で駆け抜ける。

 あらゆる方向から飛んでくる空を切り裂く音を鳴らす蹴りを、エレシュキガルの霊力をまとった刀剣は見事に受けきっていた。

 相手に傷を付けられてこそいないものの、折られるような心配も見られない。

 柔な作りの、それこそ名前も持たないような武装ならば、彼女の蹴り一発で見事に折られていたことだろう。

 イナンナの神格と霊力を手に入れた彼女の蹴りは、まさに鎧袖一触という言葉が相応しい。

 ただの蹴りが魔神の霊術規模の攻撃力を持っているのだから、やはり彼女は世界の敵となり得る存在なのだと再認識させられる。

 それと対峙できている自分は、ハッキリ言ってしまえば紛い物の集合体だ。

 神の力を借り受けて、業物の刀剣を譲り受けて、愛する人からの力を貰って、ようやくこの場に立てていることこそ奇跡。

 自分はそれほど強い人間ではなく、学園で最強の七人と数えられていたことなど、井の中の蛙であったのだと改めて痛感する。

 もしもあのまま軍役に務めていたとしても、自分など非力な存在は、大した名もない神に喰われて死んでいただろう。

 しかし今自分が対峙しているのは、世界を敵に回した主犯の女。

 世界そのものを覆すほどの神格を有した女を相手に、大立ち回りを繰り広げているのがまさか自分だとは、今更ながら、自分のことであるのに信じ難い。

 同時、今自分がいる領域が、ミーリやリエン、他校で言えばディアナやヘラクレスらが見ていた世界なのだと思うと、自分がその次元にいることにわずかばかりの感動を覚える。

 しかし感動に浸ってばかりもいられない。

 相手は怪物と呼んで相応しい強者だ。油断すれば一瞬で首を持って行かれる。

 勝機の一つでも見つけて油断すれば確実に潰される。

 故に目を離さない。

 刀を離さない。

 油断もしない。

「どけぇぇっっ!!!」

 斜め上からの蹴り落としを身を捻って躱し、着地地点にあった首目掛けて刀を振りかぶる。

 ユキナはとっさに背を大きく反ってそのまま逆立ち。腕を軸に回転して回し蹴りを連続で叩き込む。

 とっさに刀を縦に構えて防いだが、衝撃が体の芯に響いて動けない。続けて撃ち込まれる回し蹴りの威力に吹き飛ばされるが、空中で体勢を立て直して着地する。

 同時、飛び込んでくる彼女の膝蹴りを刀で受けた空虚は自ら後方へ跳躍。壁を蹴って斜め上に飛ぶと、刀剣を上空にほうって弓矢を構える。

 二重の上位契約が発動し、さらにエレシュキガルの瘴気をもまとって空虚の出で立ちを変えていく。

天速水猛地之神堕あまはやみたけるちのかみおとし

 漆黒の衣に身を包み、矢を番えて放つ。

 放たれた三本の矢が走って、ユキナに蹴り飛ばされるがそれは囮。

 本命は抛った刀の方だ。弧を描いて返って来た刀を受け止め、唐竹――縦真っ二つに両断してやろうと振り下ろす。

 ユキナは脚を上げて足裏で受け止めたが、直後に弾き飛ばした。

 すぐさま反撃が来ると思って構えた空虚だが、ユキナにその様子はない。

 見ると、剣撃を受け止めた彼女の足裏が切れて血を流し、庭園の石床に血だまりを作っていた。

 初めて、空虚の攻撃で傷がついた。

「だから、どうしたの? ミーリから聞いてると思うけど、私には神霊武装の攻撃力を半減させる“誰一人刃向えぬ主イシュタール”がある。神の力で向かって来ても、“金星の輝き持つ天女王イシター”が私の霊力を底上げする。こんな傷はすぐに塞がって、あなたを殺すためまた踏み込めるわ。問題ないのよ、この程度」

「だろうな」

 ユキナに降り注ぐ漆黒の矢。

 すべてが瘴気を放ち、ユキナの体に刺さって節々を腐らせるように溶かしていく。

 腐敗していく自らの体。しかしユキナの霊力は肉体の腐敗をも凌駕して、凄まじい回復力を見せる。

「だから? 何発撃ち込もうが関係ないと言っているのよ。例えエレシュキガル、かの冥府の女主人の死の権能を以てしても、ここは冥界じゃない。彼女が力を揮える世界じゃない。ここは空。私の領域。すべての空は、すべての空の下が私の領域なのよ」

「ならば私の領域まで、落とすだけだ」

 漆黒の矢が、空高く跳ね上がる。

 直後、刀を真横に振り払って斬りかかる。

 回復したばかりのユキナの体はすぐさま、瘴気を帯びた剣撃を受けた。

 効かないとは言うものの、薄皮が裂けて肉が斬られ、鮮血が弾けることに違いない。

 だがユキナは連続で叩きこまれる剣撃のすべてを、脚一本で受けきってみせる。

 すべての攻撃を真正面から、一切の揺ぎ無く受けきってみせる彼女の姿はまるで、一本の柱だ。天に向かって高く、深く聳える柱。

 一人の人間の力では、まるでビクともしない。

 それこそかの巨人が空を持って支えているように、彼女もまた空という領域を両肩に乗せて立ち尽くしているかのようだ。

 どれだけ剣撃を浴びせても、ユキナは片脚立ちの状態で右脚のみで斬撃すべてを受けきって、受け流して見せる。

 空虚が下がると、宙に弧を描いて返って来た矢がユキナを襲う。

 だがユキナは一まとめにして握り締め、エレシュキガルの瘴気をまとった矢を握り潰してしまった。

 ならば、と空虚は両脚を固定する。

「この力、死の女主人なりや――放つ。“静謐之瀑布サイレンス・アルラトゥ”」

 空高く、漆黒の矢が放たれる。

 体が深く沈み込むほどの衝撃を受けながらも放たれた漆黒の矢が、上空で無数の塵となって青空に散らばっていく。

 直後、凄まじい総量の小さな矢が雷撃のような轟音を連れて降り注いできた。

 鼓膜を直に揺らしてくる轟音の中、他の音など掻き消えて聞こえない。

 大規模かつ大量に降り注いでくる矢によって視界も狭く、下手に動けば逆に串刺しにされる。

 その中で動き回れるとすれば、その矢を放った空虚だけだ。

 無名の刀剣を抜いて、勇猛果敢に斬りかかる。

「“無銘剣・虚無ゼロ”!!!」

 すべての矢が落ちた。

 轟音が消え去って、残った静寂の中で二人の青年だけが立ち尽くしている。

 空虚の剣撃を真正面から受け止めたユキナだったが、その手からは血が流れ、全身に刺さった矢が痛々しい。

 だがユキナの足が空虚の腹部に突き刺さって、肉を抉っていた。

 傷の数では圧倒的にユキナの方が受けているというのに、たった一撃受けただけで空虚の方が先に片膝を突く。

 エレシュキガルの瘴気を受けて体が腐敗しながらも、ユキナの体は再生し続ける。

「あなたは言ったわね。私は今の彼を愛してないって。私が愛しているのは過去の彼。今の彼を知らないままで、愛など吐くなと。それは一種の、神への冒涜よ」


「神は本来、その存在も姿も意匠も人の想像上にしか存在しないもの。彼らを崇拝し、彼らの思想を尊重することは一種の愛情よ。過去の彼を愛したまま、今の彼を愛することもまた、一種の愛の形。今の彼を知っているから何? 私が今の彼を知らないから何? 私の愛は、あなたよりもずっと深い」

 空虚の腹を抉った脚が引き抜かれ、そのまま俯く彼女の頭を踏み砕こうと振りかぶられる。

 だがこのとき、ユキナは見逃していた。

 空虚の放った矢が、まだ残っていたことを。

 自身を固定までして放った矢は、一本ではなかった。ユキナも気付かないように重ねて、わずかな霊力のみで放っていた。

 それが弧を描き、帰って来る。

 今まさに空虚の頭を踏み砕こうとしていた脚を射抜き、両断した。

 音もなく落ちて、光の刃の如く鋭利な切り口で自身の脚を切った矢が通り過ぎたことに遅れて気付いたユキナは、ここで初めて揺らぐ。

 その隙を空虚は見逃さない。

 刀を捨て、弓を捨て、揺らいだユキナの両肩を捕まえてヘッドバッドを叩きこむ。

 初めてユキナは揺らぎ、尻餅を突かされた。

「おまえの愛した男は神ではない! 今を生きている人間だ! おまえは彼を崇め、奉り、己の愛を受け止めるための偶像にしているに過ぎない! 過去の彼を、おまえはただの偶像にしているのだ!」


「今を生きている彼を見ろ! 今、おまえと戦っている彼を見ろ! 私が愛した男の姿を、その目に焼き付けろ! 過去に縛られ、愛の偶像しか見定めないおまえなどに、私は負けん!」

 刀が跳ねる、弓が飛ぶ。

 双方を見ぬままに捕まえて、空虚は距離を取りつつ構えた。

「立て! ユキナ・イス・リースフィルト! 私とおまえの格の違いを見せてやる!」

「うぬぼれないでよ……言ったでしょ? 私の方が、愛が深い!」

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