人類悪
ミーリ・ウートガルドの
セミラミスとネブカドネザル、アテナの三体を中心に今後の計画が練られていた。
ネブカドネザルが卓上に並べるのはチェスのそれに似た駒だが、その形は空中庭園の模型や悪魔、騎士など本来のチェスの駒とは違うものである。
悪魔の駒を敵として南の孤島に配置。自分達のいる空中庭園の駒をそれよりずっと北西の位置に配置し、現在の位置と敵の方角を確認している。
このまま庭園を南へと動かせば、敵のいる場所までおよそ五日。瞬間転移を使えば一瞬だが、庭園丸々を移動させるとなると必要な霊力がまだ足りておらず、今から溜めるとなると二日はかかる。
しかもそれを使えば、しばらく庭園の防衛機能を満足に使えない。戦場のど真ん中に転移してそれは痛いので、必然的に亀の歩みで進むしかないわけだが。
「セミラミスよ、しつこいようだが問わせてもらう。現時点での霊力貯蔵量とこれからの蓄積量を加味しての現在の移動速度であるとのことだが、些か遅過ぎはしないか。これなら荷馬車の方がまだ速いとすら思えるのだが、俺の作ったこの庭はそんなに鈍いのか」
ネブカドネザルの問いは、彼の言うように幾度となく繰り返されてきた。それ故に問われたセミラミスの答えもまた同じ繰り返しである。
「お言葉ですが陛下。例のあれと対戦するのであれば我々も霊力の温存をしなければなりません。速度を上げることは可能ですが、その後の対戦をも考慮すれば温存する量も計算に入れなければならないのです。故にこの速度を保つことで、後の対戦にも影響されましょう」
庭の主セミラミスでも畏まる相手、それがネブカドネザルである。
故に彼女は唯一かの王と対話するときのみ丁寧語となるのだが、誰であろうと物をハッキリ言うところは変わらなかった。
「故にこの鈍さが、後の対戦を勝利に導く結果となると信じております。故にどうかご辛抱ください、陛下」
「……おまえの懸念は充分に理解している。だが少し警戒が過剰ではないか? 今回の標的は邪神一体。ユキナ・イス・リースフィルトがいるとしても、元々奴相手に庭の機能など期待できないのだ、元よりないようなもの。ならば加速したところで、変わりはないと思うのだが?」
「王者ネブカドネザル、おまえは少し慢心が過ぎる」
「何?」
アテナが口を挟む。その口調はかなり強めだ。
ネブカドネザルといえど、所詮は魔神。名のある神アテナにとって下なのは変わりない。そこは実力ではなく、地位の世界だった。
王でありながら下に見られることに我慢を強いられる王だが、しかし彼自身はそこまで苦にしていない様子である。むしろイラついてるのは下に見られているからではなく、油断していると言われたことにである。
慢心することこそ王の務めとどこぞの王が言ったのを皮切りに、余裕を持つことが王の気質、資質と言われてきた。故にネブカドネザルにとって油断があると言われることは、自らの資質を馬鹿にされているようで我慢ならないのだ。
故にとなりのセミラミスはかなり緊張した様子で、なんとか抑えてくださいと願うばかりであった。
「あれはおまえ達魔神よりも格上の存在だ。人類にとって基本的な悪質。人類悪と呼べる悪の権化。アンラ・マンユはおまえ達元人間にとっても最悪の相手だろう。人間はまずあれに勝てないし、魔神も勝てる見込みは薄い」
「ならば何故俺達にそれを討伐するよう頼んできた。アンラ・マンユの能力が人間にとって最悪ならば、ミーリ・ウートガルドに奴は倒せないだろう」
「残念ながら、その問いには答えられない。私も我が父の指示でここに来て依頼している故。現地に着いたときにでも父に訊くがいい。それ以上のことを私は許されていない」
「貴様はただの伝令役か。そういうのはヘルメスのような狡賢い奴の仕事だと思うが?」
「……生憎と、ヘルメスはもうこの世にいない。奴に――ユキナ・イス・リースフィルトに殺された故な」
人類悪。
人間にとっての悪心、邪悪。悪と付くものの集合体。悪の権化。
それが悪神、アンラ・マンユの正体である。彼女は人類にとって邪悪そのもの。人間にとっての悪が神として昇華された存在。
故に人間では勝てない。
何故なら人間にとって悪とは呪い。受け入れられない毒素そのものだからである。
生物や草木が発する毒ならば抗体も作れよう。
しかし悪に抗体など存在せず、それはトラウマや過去の災厄。悲惨な実体験など、その人物にとっての悪、受け入れられないものとして襲い掛かってくるのだ。
避けようもない。どんな人間の中にも必ず宿り、自身を苦しめる人類悪は、人間にとって最悪の災厄と言って過言ではないだろう。
どんな英雄も、人間である限り最大の敵である人類悪。故に絶対的に相対したくない敵と言えるが、それをユキナが手に入れたことを、ミーリは内心ホッとしていた。
ユキナのことだ。人類悪を手懐けたのは、ミーリと戦うのに邪魔な他の人間や魔神を遠ざけるためだろう。
逆に言えば、それ以上のことには使おうとはしないはずだ。彼女の目には、ミーリ・ウートガルドを殺すこと、ミーリ・ウートガルドに殺されることしか興味として映らないのだから。
唯一彼女が興味を示すとすれば、ミーリ・ウートガルドに自分以外の女が付いているかいないかということくらいだが、妻となる人を迎え入れた今、彼女の怒りを買うことはもはや避けられない災厄であった。
故にもう人類悪となんら変わりなく、ミーリは特に気負うこともなく人類悪へと向かうことができていた。
「……ミーリ」
「おはよう、空虚」
空虚は自分の現状を見て、一瞬だけ理解が追いつかなかった。
一昨日の晩にプロポーズを受けて、そのまま昨日の晩まで眠らないまま二人きりで過ごして夜は――
そこまで思い出して理解した。同時、とても恥ずかしい。
まだミーリの温もりが、内側から感じられる。それがなんだか愛おしい気もする。
ちょっと痛みも感じるが、しかしそれも彼との絆の証なのだと思えば、決して悪く思えなかった。
むしろ喜ばしい。自分が本当に、彼と結ばれたのだと言う実感を持てて、嬉しかった。
その嬉しさ故、つい積極的に手が動いた。ミーリの手を握り締めて、自ら自分の頬に持っていって撫でさせる。
ミーリはその期待に応えたあとに空虚の髪を指先に絡め、指と指の隙間に通して愛でる。彼女の頭を撫でると再び頬に手を伸ばし、柔い頬を軽くつまむように愛でた。
「ミーリ、その……今度の敵と言うのは、人類悪なのだろう? 奴と相対できるのは、人類善のアフラ・マズダという双子の神だけだというが……その彼、もしくは彼女を見つけて味方になってもらうというのは……」
「それができればいいけど……その神様も、アンラ・マンユと同じで眠ってたなら、復活してるかどうかわからないし、まず探す手掛かりがないしね。それにあいつが絡んでるなら、これは俺の戦いだ。俺がやらなきゃ」
「人類悪については、伝承や神話を辿るしかないが……しかしそれだけでも、人類はアンラ・マンユを相手にして、精神をまともに保てなかったとある。人類が絶対に敵にしたくない神、それが奴だ。そんな相手と戦って、おまえが無事で済むのか……心配なんだ」
「うん、わかってる。だけど俺の中には、神様達がいるんだ。それに一人で戦うわけじゃない。ロンや、みんながいるからね」
「……信じて待つしか、ない――いや」
少し黙って考えた空虚は、ミーリの上に圧し掛かる。ミーリの胸板に手を添えると、優しく撫でながら頬を擦りつけた。
「頼みがある、ミーリ」
「……言いたいことは、なんとなぁくわかるけど、ね……でも――」
「わかっている。下手をすれば、私はアンラ・マンユに相対するよりまえに自壊してしまうかもしれない。だが、私は……おまえに背中を預けてもらえないままでいるのは……イヤなんだ」
「嫌なんだよ、ミーリ」
少し潤んだ声で訴える。
ミーリは空虚を優しく抱き締め、頭頂部に口づけする。
しばらくその状態のまま沈黙すると、微かな吐息と共に承諾した。
そして自分の中へと意識を潜らせ、彼女に邂逅する。
冥府深淵の魔女、女神エレシュキガル。
「というわけで、ちょっとの間彼女をお願い。エレさん」
「まぁあなたよりも相性はいいし、私も理性が保てればなんともないでしょうけど……でもいいの? 人類悪と相対するのに、私の力は必要だと思うけれど」
「案ずることはない、行くがいい冥府の女神よ」
間に入って来た、白髪の吸血鬼。カミラ・エル・ブラド。
名のある女神エレシュキガルより格は下の魔神だが、性格上彼女の方が立場が上のようで、女神の前でも堂々と王座に鎮座していた。
その隣では、この精神空間の創造主である
正直ミーリの精神空間で、彼女が頂点にいるように思えた。
「人類悪相手に確かに我ら人間と魔神は不利であろう。しかし決して打倒し得ないわけではない。我らは聖約を結び、この男の力となった。結束こそ人類の力の象徴である。故に一個体にいつまでも臆することはない」
「故に行くがいい、女神。そもそも人類悪と対峙するのは、人類こそ相応しかろう。おまえは除外されるのではなく、新たな友と戦場に向かうだけのことだ」
「でも――」
「我らが愛する男の惚れた女だ。護るのに、それ以上の理由がいるか」
そういう彼女は寂しそうだった。
しかし同時に微笑んでもいた。
ブラドはミーリを愛し、最後には自ら誓約を結んだ者。彼女にとって、恋敵を護るというのは気が乗らないことだろうし、心境は複雑だろう。
だが認めなければならない。噛み砕かなければならない。
彼が恋人に告白する瞬間も、彼が彼女と愛し合う瞬間も見ていたのだから。
認めなければならなかったのだ。自分の愛した人間は、幸せに向かおうとしている。それを自らが拒絶し不幸に導くことは、決してしてはいけないことであろうということを。
彼の不幸は、もはや自身の不幸だ。
彼が何をしようとも口を挟まなかった。意見も異論も挟まなかった。それは彼自身の在り方生き方を、見たいと思ったからだ。
その彼があの恋人を愛すという決断をしたのならば、その先を見たいが故に、ブラドは認めなければならなかった。
自分ではない他人と、自分が恋した男の幸福を。
そしてそれに危機が迫っているのならば、護ってやるのが道理だろう。邪魔をして破綻させても、その先惚れた男に幸福がないのならば、意味がない。
彼の幸せを、ずっと近くで見続けるためならば、これはやらなくてはならないことなのだ。
それらの意味を受け止め、ましてや理解することなど、彼に対して恋心を抱いているわけではないエレシュキガルには難しい。
しかし彼女も過去、夫である王をこよなく愛したことのある存在。異性に対する恋心と、その深さを、ブラドやマキナよりずっと以前に知っていた。
故に、理解はできない。だが感じ取ることはできた。
「あぁはいはい、わかったわかったわかりましたよぉっと! あの子を護ればいいんでしょ! 任せない、ミーリ・ウートガルド! 冥府の魔女エレシュキガル! かのハデスにだって引けは取りません! だけど私を使わせるのだから、彼女にも辛い思いはさせるわよ。覚悟はよろしくて?」
「大丈夫、空虚は強いから」
「あなたより弱いのに、ねぇ……まぁそれも、愛か」
「わかれば早急にことを済ませるぞ。また見せつけられるのは、少々傷付くものだがな」
「ごめんね、ミラさん。今は――」
「――これで許して」
手の甲に口づけ。
ブラドはフムと頷き、唇は今後難しいかと小さく呟いた。
マキナの力も借りて、空虚にエレシュキガルの力を流し込むことには成功した。
しかし実際の方法が方法だったので互いに体への負担が大きかったのだが、すべてを終えて部屋を出た直後に待っていたロンゴミアントから、朝からお楽しみだったのねと冷ややかな言い回しを受けてしまった。
その後も説明をするのだが、もっと他になかったのと言われてしまい完全に不機嫌。他の武装も助けてはくれず、困り果ててしまった。
「おめぇも大変だなぁミーリ」
「そう思うなら、ロンの機嫌を直す方法一緒に考えてくんない? ボーイッシュ」
「あいつの機嫌直すってったってな……あいつはてめぇと荒野がどんな理由だろうと腰振ってるのが気に入らねぇんだろ? どうしようもねぇじゃん。これから夫婦になる奴らだぜ? 毎晩ヤってても仕方ねぇってのに……あいつ、こんな面倒な奴だったか?」
「面倒じゃなくて、繊細なんだよ……あの子は」
他全員と別れ、二人きりでアテナ達のいる部屋に向かうミーリとウィン。
ウィンは隣にミーリがいて、その体から若干空虚の臭いがすることに違和感を感じていた。
同時に、あぁこれがあいつは嫌なのかと悟る。
ロンゴミアントはミーリから異性の臭いがしているのが嫌なのだ。思えば前から自分のを擦りつけるように体を擦り寄せていたし、多分そうだろう。
なるほどねぇと納得するのと同時、しかしそれに気付いた自分もまた、何とも言えないモヤモヤした感覚に襲われているのに気付く。
ミーリから異性の臭いがするとわかってなんだかモヤモヤするとなったとき、ウィンは一瞬考えて、おい! とミーリを振り向かせた。
そしてその顔を捕まえ、帽子で進行方向から見える口元を隠して口づけする。
ユキナやロンゴミアントがたまにそういう類の不意打ちをするので驚きはしなかったが、しかし相手がウィンだったのでちょっと考えてしまった。
その様子を見て、ウィンはムッとなる。
「なんだよ。俺がこんなことしちゃいけねぇってか?」
「そんなことないけど、珍しいなぁって」
「ハっ。まぁそういう気分だったってことさ。それよりも会議だろ? 行こうぜミーリ。相手が接近しちゃいけねぇって奴なら、超遠距離からの狙撃で行くだろ? 俺の出番じゃねぇか」
「でもボーイッシュ、そういうの嫌いじゃん。いいの?」
「ま、偶には信念曲げてでも勝たなきゃいけねぇ戦いがあるってこった。今回のがそれだな。だから信念曲げるからには勝つぞ。信念曲げてでも勝てなかったなんて、恥ずかしくて帽子脱げなくなるからよ」
「……そだね。じゃ、今回はボーイッシュで行きますか」
「おぉ! 任せやがれ!」
対するは人類悪。
ミーリは人類最大の災厄に対して、縦横無尽の魔弾で挑むことを決めたのだった。
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