vs ガブリエル
かつて、戦場を駆け抜けた。
炎を跳び越え、瓦礫を踏み、人の屍を越えていった。
聖女の名はジャンヌ・ダルク。何物をも退ける、守護聖人である。
今その名はオルア・ファブニルとなって、現世にできたかけがえのない人と共に戦っていた。
そして現在、彼女は大の字に寝転んでいた。度重なる猛攻に吹き飛ばされ、結界を破られた直後だった。
相手は七大天使の一角にして水を司る四大天使、ガブリエル。彼は今オルアの上に馬乗りになって、泣いていた。熾天使イェグディエルの消失を、感知したからである。
彼は水で作った剣を、振り上げたまま、涙して固まっていた。
「おぉ、神よ……我になんという試練をお与えになるのか。敵は今我が同胞を殺し、消し去った。この永久に続くであろう悲しみと苦しみから、耐えろと仰せか……神よ、あなたはなんと無慈悲なるかな」
「やったんだね、ミーリくん……」
敵の消失を確認して、オルアは安堵する。正直連戦していたミーリのことを心配していたのだが、一先ずの安堵に包まれる。
だが今、今度は自身が危機的状況にいることを改めて思う。ガブリエルは見た目のまま男の天使。女の腕力でどかせる体重をしていない。現に抜け出そうと試みているが、まったくもって無意味なのだった。
「もはや一刻の猶予もありません。あなたを殺し、イェグディエルを消し去った者を葬らねば……というわけでさようなら、守護聖女」
剣がオルアの額に向けて振られる。しかしその寸でのところでオルアの結界が張られ、ヒビ割れながらも受け止めた。
ガブリエルはこの、と額を貫くことに謎の執着心を見せる。何度も大振りで額を狙い、結界に阻まれている間に、オルアは霊力を溜めて詠唱した。
「我が踏み締める大地は絶え、我が握るその手は朽ちる。無慈悲不条理の死神の息吹きよ、これがあなたの見せたいものか! “
黒と赤が混じった炎が、オルアを中心に燃え盛る。術者以外を燃やすその炎はガブリエルを焼き、とっさに飛び上がらせた。水で消そうとするが、なかなか消えない。
「おのれ、守護聖女!!」
その身を灰にされまいと、必死に消火活動に専念する。だがその間にオルアは霊力を溜め込み、再び詠唱した。
「集え集え集え! 自らの
光を宿した旗の一振りと共に、世界が変わる。そこにはオルアとガブリエルしかいなくて、一面の広原と、そこに並ぶ無数の廃墟だけがあった。
そしてそこに、彼らは集う。三〇〇年前、かのジャンヌ・ダルクと共に戦った、一騎当千の英雄達。その数一万。神をも恐れぬ英雄達は今、祈りを込めて天にそれぞれの武器を掲げる。神よ、我に勝利をと。
「敵は水の熾天使ガブリエル! 敵はその一体のみなれど、決して油断するな! そしてまた、臆する必要すらもない! 天は、我々に味方している!」
彼らは咆哮する。天が――神が味方していると、神の声を聞く聖女が言った。それはもう、彼らからしてみれば何ものよりも疑い難い勝利の宣言。神は彼らに、勝てと言っているのだ。
「いざ進め! “
オルアが旗を掲げると同時、英雄達が突き進む。相手は飛んでいるにも関わらず走り、数人が霊力をまとわせた槍で撃ち落とそうとした。
が、ガブリエルは落ちない。大きく広げた翼に滴を宿し、一斉に射出する。高圧の水の弾丸が槍を弾き、盾を持たず鎧を身に着けていない戦士達を貫いた。高水圧の弾丸が雨となって、戦士達を襲う。
オルアはそれを見て一度引かせようかとも思ったが、戦士達は止まらない。とにかくガブリエルを撃ち落とすことを考える。地上にさえ落としてしまえば、あとは戦士達で充分に倒せるはずだ。
“神々に導かれし聖騎士団”の使用で枯渇した霊力から、オルアは霊術を使おうと試みる。旗を地面に突き立てて、必死に霊力をこね回した。膨れ上がらせようと、必死に
「我が踏み締める大地は絶え、我が握るその手は朽ちる……無慈悲不条理の死神の息吹きよ……これが、あなたの、見せたいものか……」
詠唱するのも辛い。ならば詠唱破棄で放ってしまえばいいのだが、それでは弱い。撃ち落とすためには、確実に強い攻撃を放たなければならなかった。
だがこうしている間にも、戦士達は倒されている。その数は少ないものだが、塵も積もればだ。早急に手を打たねばならない。だというのに、霊力がなかなか霊術発動にまで高まらない。かなり焦る。
旗を握り締める手には汗がにじみ出し、赤い髪は少ない霊力をひたすら上昇しようと揺れる。だがそれでもまだ足りない。戦術を誤ったことをかなり後悔した。
「皆の者! 我らが聖女に霊力を!」
見かねた戦士達数人が、オルアに助力する。自らが今この場にとどまるための霊力をオルアに与え、うっすらと幻のように消えていく。助力されたオルアは霊力で満ち、足元から黒と赤の混じった炎を燃え上がらせた。
そして放つ。死神の鎌が持つ、生を立つ煌炎を。
「“死神挽歌”!!!」
死を招く熱を抱き、炎が空に上る。戦士達の攻撃をことごとく撃ち返していたガブリエルが、初めて回避し、オルアに向けて水の弾丸を放った。盾を持った戦士達が、オルアを守る。
オルアは盾の隊列に守られながら、さらに詠唱を続ける。灼熱を放ちながら、今度は青白い光に満たされた。純白の御旗を翻し、呟くように詠う。
「死は尊く。生は重い。されど決して顔を下ろすな、見上げよ。見上げて歌え、この歌を。死神が耳を塞ぐ、神が
オルアが詠唱していることに気付き、ガブリエルは飛ぶ。翼から無数の水の塊を降らせながら、高圧で固めた水の剣で、オルアの首を叩き斬ろうと振り払った。
戦士達もまた、迎撃しようと霊力を込めた槍を投げる。だがそれらは今までと同じく撃ち落とされ、逆にやられてしまった。だがそれで稼いだわずかな時間が、霊術発動を実現させた。
「聞け! “
オルアと旗から、無限にも近い光が走る。その光は傷つき消えかけていた戦士達を癒し、再び武器を握らせ高揚させる。それだけのはずだった。
この霊術は、味方を癒す。傷も体力も回復させ、脳内をアドレナリンのようなで満たす。これ以上ないほどの回復術。ただし回復以外の何もない。それだけのはずだった。
だが効いている。味方ではない。ガブリエルに。
ガブリエルは苦しんでいた。六枚の翼がバラバラに羽ばたき、もはや飛べているのが不思議なくらいに、慌ただしく呻いていた。脚をバタつかせ、何かを掴もうと必死にもがく。
だが一体、何が彼を苦しませているのかがわからなかった。まだ炎は届いていない。強いて言って、浴びたのは今の治癒の光くらい。だが彼は回復するどころか、逆に苦しんでいた。のたうち回っている。
何が一体、彼をここまで苦しめているのだろうか。
霊術は、回復の光。神が定めた休息の日。必ず英気を養えという決まり。働く人や天使達が、また動くことができるようにと、神の優しさが決めた一つの法律。絶対に守らなければならない、神の命令。
そう、命令なのだ。天使が絶対とする、神からの命令。おまえは休めという命令が、ガブリエルにされていた。
だが今、絶対である神の命令に、彼は逆らおうとしている。考えられる理由としては、それよりも優先しなければならない命令がすでにされているということだが、果たして誰が神と同等の命令を出せようか。
それについては、オルアはわからなかった。だがこの仮説に辿り着いたときから、ガブリエルを倒す術は決めていた。
強く地面を踏み締め、旗を突き立てて霊力を込める。戦士達の力を借りて光をより強め、逃げようとするガブリエルに届かせた。
まるで日の光に焼かれる吸血鬼伝説のように、高位天使が光によって身を焼かれている。前にある命令と今されている命令とがぶつかって、彼の頭は極度に混乱していた。
「おのれぇぇっ!!! 我が身に一体何をしたぁっ!!! これは、この命令はまさしく神のぉぉぉぉぉっ!!!?」
もはや光に焼かれる闇の獣。そんな呻き声で怒鳴る。ガブリエルの水はもう別の何かにはなれなくて、ただ翼の表面を滴っていた。
「おのれ! おのれ! おのれおのれ! あぁ神よ……我に止まれと? 何を言うのです。私は、私はあなたの命令でこうして……こうして戦っているというのに……何故……」
「神様は望んでないんだよ、この戦いを。僕達は、戦う必要なんてなかった」
「
「神様は昔から人間の味方だよ! 少なくとも、僕に声を届けてくれた。僕に勝利を与えてくれた神様は、人間の味方だった! その神様が言ってるよ! 君達に、そんな命令出してないって!」
「戯言をほざくなと言っている! 人間ごときが神の声を聞くなどありえない! 貴様らはそうやって我らが神を
「違う! 僕は神様の声を聞いた! そして勝てと言った! 神は、僕ら人間を愛していた!」
唇から耳にかけて伸びていたチェーンを引きちぎり、明らかに不機嫌な顔を見せる。そこにはまた明瞭な殺意が現れていて、力強く握り拳を作った。
「もういい! 人間の戯言など、もうどうでもいい! その忌まわしい光を今すぐ閉ざせ! 神を模倣するなど万死に値する!!!」
ガブリエルが襲い掛かる。だが水の剣はオルアのまえに立った戦士の盾と剣によって防がれ、攻撃は届かなかった。まだまだ数千の数を残している戦士達に、ガブリエルはまた歯を食いしばってイラつく。
「おのれ人間共めがぁ! 貴様ら人類の滅びが、神の決定だ! 逆らうなぁぁっ!!」
ガブリエルの翼が限界まで広がると同時、上空に雨雲が発生する。雷すらも落としそうな黒雲を出すと、そこから雨を降らせた。攻撃力は一切ない、普通の雨だ。
だがその雨を浴びているうち、ガブリエルに異変が起こる。
水を吸った翼は巨大化し、体は筋肉で膨れ上がり、服を破って地上に落ちる。それはもはや、巨大な怪物。海に住まう海魔の類。耳はやがてヒレに変わり、手には水かきをつけて膨らませた背中にも背びれを生やした。
もはや魚と同化したガブリエルは、その膨らんだ腕で一気に薙ぎ払う。戦士達の鎧や盾は砕け、剣や槍は折れていく。ガブリエルの肌は強固な鱗に覆われ、一切の刃を通さなかった。
「“死神挽歌”!!!」
ならばと、オルアは炎を這わす。だが雨のせいで火力が弱まり、まったくもってダメージを与えられなかった。片腕の一払いで掻き消される。
「無駄……この水の熾天使ガブリエル……海魔の力を得た今やられはしない!」
まるでイソギンチャクのような尾を振るい、数十本の触手を伸ばす。捕まえた戦士達を締め上げて、次々に骨を砕いていった。一撃で、戦士達が消えていく。もうオルアのところに辿り着くのは時間の問題だ。
「“天上鎮魂歌”!!!」
休めと言う神の命令を再び下す。するとガブリエルはまたも苦しみだし、その場で無茶苦茶に腕や尾を振り回した。
そのスキに戦士達が襲い掛かる。剣や槍を力づくで突き刺し、返り血を浴びる。だがガブリエルも命令に抗いながら――もとい、始めの命令に準じながら、拳を振るう。一撃で絶命させる拳で、戦士を次々に打ち砕いていった。
なけなしの霊力を振り絞り、オルアは踏ん張る。だが戦士達にもらったものも底を尽き、踏ん張る力もなくなっていく。光は徐々に消え去って、ガブリエルもまた動きにキレを取り戻した。
「死ね! 死ね! 神を
イソギンチャクの触手を伸ばし、オルアを捕まえようと襲い掛かる。だがオルアは最期残った力で結界を張り、触手をすべて弾き切った。
「死ね! 死ね! 死ねぇぇっ!!」
「このままじゃ……」
“神々に導かれし聖騎士団”ももう保てない。
覆す術は、ない。
「とどめだぁぁっ!!」
結界が破られる。オルアは捕まり、全身を締め上げられた。あまりの力に、持っていた旗を落とす。
ガブリエルは全力で絞めてくる。全身の骨を粉砕すべく、全力で。さらには翼から水の弾丸まで用意され、発射のときを待っていた。
「死ね! 死ねぇ! 下等種族! 神は今、おまえ達の絶滅を決定した!」
もう息が苦しい。全身が痛い。死ぬ。
覚悟はしていたが、実際に死ぬとなると怖いもので、恐怖心がより強く苦しくさせる。体が麻痺してきた。もう動けない。意識も遠のいてきた。もう動かせない。
もはや三途の川すら見えてきそうなこの状態。だがその状態が、オルアに声を聞かせた。誰の声かはわからない。だがその声は、たしかに言った。
――聖処女ジャンヌ・ダルク。神と人の繋ぎ目としての役、まっとうせよ。
神様!!
その声を、かつて聴いた。
声は必ずしも人に味方し、活路を見出してくれた。声は必ず聖処女の心を癒し、冷たい鉄のようにはしなかった。熱く、熱く、熱く。熱を抱く。
その声は言った。勝てと。
オルアの全身に霊力が流れ込む。オルアの限界を超えて、沸きあがったものではない。その質と量を見れば、明らかに誰かが与えたのだろうことは明白。だがそれが果たして誰からのものだったのか、戦士達にはわからない。
だが締め付けていたガブリエルは、彼女を満たす光を放つ霊力を知っていた。いや、憶えていた。その霊力の光と熱を。
「おぉ……神よ……神よ、神よ……我に止まれと? 人間を、滅ぼすなと仰せですか……何故です。こんな下等種族、あなたの手ならいとも簡単に……そう、潰すことなど容易に……」
信じられぬと、ガブリエルの驚愕が彼から力を抜く。その間に脱したオルアは旗を拾い上げ、そして詠う。彼を止める、今回最後の詠唱を。
「熱く熱く熱く、我この熱を抱く。鉄を溶かし、大地を焼く。天界の
それは歌。
誰もが惚れる美声が歌う、たしかな歌。
その声は地上を満たし、万来の喝采を生む。天はこれに呼応して、光と熱で地上を照らす。その歌を聞いた人々は活気に満ちて、神々は命を取り戻す。
だが同時、これは粛清。神に抗う者を燃やし滅する、業火。悪魔がその歌を聞けば、自身の身が焼けていることに気付くことなく聞き惚れ果てる。
その炎はガブリエルの身を焦がし、燃やし始めた。ガブリエルの必死の消火活動も意味はなく、ただガブリエルの体は、燃えろという命令に従って燃えていく。
「バカな、この炎は神の……神のぉぉっ!!」
炎で包まれるガブリエルに、戦士達は最後の特攻をかける。焼かれる身は剣や槍を通し、貫かれ、斬られる。白い鮮血を飛ばして喚く天使に、彼らは容赦なく斬りかかった。
血という水分を奪われ、ガブリエルの体は元のサイズに戻っていく。最後には大の字に寝かされて、全身を槍で貫かれた。
ガブリエルの意識が遠のく。
神よ、何故彼らを助けるのですかと、その声を出せぬままに命の炎を燃やし尽くし、翼から燃えて消えていった。
“神々に導かれし聖騎士団”を解き、オルアは元の場所に戻ってくる。その場で大きく大の字に倒れると、今まで無理矢理整えていた息を乱して大きく息を吸った。
もう無理矢理霊力を生成し続けて、クタクタである。空を見上げれば、そこで戦う仲間達が目に入った。
空はもうすぐ夕暮れ。日は落ち始め、空はまるで人間の血の色に染まっている。今、自分が吐き出したものと同じ色だなと思って濡れた手を見ると、その色は変わっていた。
白。
純白とまではいかないが、赤が混じった白血。それは、天使とそれを束ねる神の証。
それが魔神である自分の体から流れ出たことが、オルアは信じられなかった。何故ならすでに神である自分が、さらに高位の神に近付いているのだから。それはこの歴史上前例のない、魔神の進化だった。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます