最高位貴族
全身黒尽くめの魔神は、一人風に吹かれていた。
遠く遠くずっと遠くで逝った、二人のことを思う。だがそれは嘆きや悲しみなどではなく、一種の哀れみだった。
「エーラ、
魔神の元に、さらに二人の魔神が集結する。真っ赤な着物を着た燃えるような瞳をした女性と、全身すべてを覆い隠せてしまうのではないかというくらい長い栗色の髪の毛を揺らす女性だ。
着物の女性があくびする。
「魔女さん? 私達はこれからどうするのです? エーラと輝夜が逝き、リングフィンガーが寝返った。これはもう、諦めろとのことなのでしょうか」
魔女と呼ばれた黒尽くめの魔神は振り返る。その漆黒の隻眼で、着物の彼女を一瞥した。
「あなたは諦められるのですか、
着物の女性、清は笑む。その笑みは酷く歪んだもので、それを自身でもわかっているのか、彼女はすぐに着物の長い袖で覆い隠した。
「まさか。諦めるわけがありません。だって龍を殺せば、
「ラプンツェルは……諦めませんよね」
栗色の長髪をしたラプンツェルは、静かに頷く。顔を髪で覆い隠している彼女は、ここまで一言も発していなかった。ここまでというのはこの地点この場所に来てからではなく、召喚されてから一度もという意味だ。
無言の返答を受けて、魔女はまた風に吹かれる。今後ろにいる二人のことを、また哀れんでいた。
「ん、んん……」
「! ミーリ!」
目を覚ましたミーリの顔色を、ロンゴミアントが覗く。重い麻痺毒を喰らっていたミーリが目覚めたのは、戦いから丸半日後だった。つまりは滞在日数としては五日目に突入していた。
ロンゴミアントに聞くと、エリエステルと樟葉は敵を撃破して無事帰還。ミーリと戦ったリングフィンガーは、射抜かれた脚の治療のためにスカーレットとネキの言うことを聞いているそう。そしてレーギャルンとウィンは、その手伝いをさせられているらしい。
「まったく。私を連れて行けば、こんなことにはならなかったのよ。ネキを連れて行ったとき、ちょっと妬いたんだからね?」
「ごめん、ロン。でもあのときネッキーを連れてかなかったら、師匠にあとで色々言われたと思うから……ごめんね」
「まぁいいわ。でも次出るときは、私を連れて行ってね。約束よ」
「うん、約束」
指切りをしようと、手を上げようとする。だがまだ毒が残っているようで、ミーリの手はなかなか上がらなかった。
「まだ痺れるの?」
「あぁ、うん……そうだ。ロン、今オルさんが使ってる部屋にさ、薬草を使ってでの解毒剤の調合が書かれた本があるんだ。それで――」
「解毒剤を作ればいいのね、わかったわ」
「ごめんね。面倒だけど、頼むよ。薬草は庭園にあるはずだから、どんどん抜いちゃって」
「構わないわ。私は、あなたのパートナーだもの」
そう言って、ロンゴミアントは部屋を出る。そして昨日の夜、ミーリ達の戦闘が終わるまでスカーレットにしごかれたオルアが借りている部屋の扉をノックした。
数秒後、両腕と頭に包帯を巻いたオルアが扉を開ける。彼女は調度ミーリの言っていた薬草の本で、薬を調合して塗っていた。
聞けばオルアの母親が薬学を学んでいた人で、オルアは母の真似をして薬の作り方を会得したのだという。もっともそれは、オルアがジャンヌとして生きていた三〇〇年ほどまえの話だが。
「じゃあオルア、ミーリの薬も調合してくれないかしら。私もできないことはないけど、プロがやってくれると安心だわ」
「プロってわけじゃないけれど……でもいいよ。麻痺毒に効く調合だね。ちょっと待ってて?」
本を開き、手早く調合のレシピを探し出す。毒の種類はリングフィンガーに聞いていたので、どれが適当なものかすぐにわかった。ロンゴミアントに頼んで、庭園から持ってきてもらう。薬の調合は、レジェンダにキッチンを借りてやった。
持ってきてもらった薬草を順に
「あっという間ね。手際がよかったわ」
「ありがとう。ささ、早くミーリくんに飲ませてあげて。きっと効くから」
「えぇ。ありがとう、オルア」
ロンゴミアントが行って、一人後片付けをする。すると調度昼食の時間のようで、レジェンダがエプロンを巻いてきた。キッチンの整った様子を見て、関心の吐息を漏らした。
「あなた、料理もするの?」
「まぁ、それなりに。独り暮らしですから」
「そう。ちなみにミーリは、ハンバーグが大好物よ?」
「ハンバーグ、か……そっか。今度、作ってみよう……かな」
「えぇ、作ってあげて。んでもって、ミーリの胃袋を掴んじゃいなさい!」
そっか、ミーリくん、ハンバーグが好きなんだ……。
おそらくロンゴミアント辺りは知っているだろうが、それを除けば知っているのは自分だけ。それが少し嬉しかった。
まだラグナロクに来たばかりのときは数日間部屋を貸してくれたし、枕も買ってくれた。そのお礼をしなきゃと思っていただけに、その方法が見つかって嬉しかったのだった。
「ところでその本探してたとき……見た?」
突然のレジェンダの質問の意味が分からなかった。ただその声のトーンと表情は固く、真剣というか深刻な面持ちだった。
お米を研ぐために入れられる水の音が、二人の間を通過する。
「あの、それって何を……」
「いいえ、見てないのならいいの。あれはちょっと……とくにミーリを好いてくれてる子には、衝撃が強すぎるからね」
その意味はやはりよくわからなかったが、使わせてもらっている部屋に何かあることだけはなんとなく感付いた。だからあまり見る気はしなかったのだが、部屋に帰ったオルアは見てしまった。
それはレジェンダの料理をちょっと手伝い、部屋に戻って薬草の本をしまおうとしたときだった。
元々ぎゅうぎゅうに本が入っていたので、分厚いその本をしまおうとしてもなかなか入らず、一回その段の本をすべて出そうとなって、全部出したあとに順に入れていたとき。うっかり落として開いてしまったその一冊が、レジェンダの言うものだった。
ついなんの本だろうと見てしまったことを、オルアはすぐ後悔した。だがその本を閉じてしまうことはできず、手は勝手に次のページを開いた。
「何、これ……」
某月某日、神経毒投与。
直後に吐き気、幻覚症状を訴える。熱は三九度まで上昇。二日で引くも、幻覚症状は治まらず。三日後、薬を投与。症状、安定する。
某月某日、麻痺毒投与。
一時間後に全身の痺れを訴える。全身麻痺による行動不可。のちに呼吸困難を引き起こす。六時間後、薬を投与。症状、二時間後に安定。麻痺の解消に丸一日をかける。
某月某日、溶解毒投与。
五分後に吐血。四肢の痺れを訴える。四一度まで発熱。激しい頭痛と吐き気を訴え、三度吐血する。四〇分後に解毒剤投与。回復に一週間を要する。
某月某日……。
某月某日……。
毒の投与とその経過が延々と記され続ける。その毒はどれも量を一ミリグラムでも間違えば、死んでしまうような致死性の猛毒だった。
某月某日から始まるこの記録は約三年分あり、それはどれも同じ被験者だった。その記録のタイトルが、ミーリの抗体生成記録。
「オルさん、解毒剤ありがとね。もう即効性が強くてすぐに効い、た……」
オルアにお礼を言おうと、回復したばかりのミーリが部屋に入ってきた。だがそのとき彼女が持っていたものと、それを見る彼女の涙する姿を見て、言葉をなくして吐息した。
「見たんだね」
「ミーリ、くん……何、これ。なんで、こんな酷いこと……」
後頭部を掻き、オルアの隣に座る。その口はなかなか開かなかったが、黙っているのも誤魔化すのも無理だと悟ってようやく口を開いた。
「俺は、最高位貴族の生まれなんだよ。国をまとめる王族の次に偉い、貴族の中でもトップの存在。地位もあれば権力もあった。それなりにね」
「じゃあ、これは……」
「そう、毒殺されないため。最高位貴族は王族に比べてガードが緩いから、殺しの標的にされやすかったんだ。当時はとくに毒殺が多くて、だから俺は三年間で、およそ千の毒に対する抗体を作った。死なないためにね」
「でも、こんな……普通抗体って、微量の毒を少しずつ投与するものでしょ? なのにミーリくん、君は致死量ギリギリの量をいきなり投与されて、苦しんで……」
記録の上に落ちる、オルアの涙。当時、そうしてミーリの苦痛を泣いてくれる人が家にいなかったことを、ミーリは思い出していた。
いや、泣いてくれる人はいた。それは昔から親交のあった、同じ最高位貴族に生まれた少女だった。彼女もまたこの記録を偶然見つけてしまい、ミーリの苦痛と、今度は自分が受けるのだという恐怖心から、涙したのだった。
だがそれが普通だ。人の苦痛をまえにすれば、何かしらの反応を見せるものなのだ。
だがこうして自身の苦痛の記録が目の前にあっても、ミーリはその当時を思い出して辛い顔をすることもなく微笑んで、涙を溜めるオルアの瞳を指先で拭ったのだった。たとえその微笑みが辛さを隠すものだったとしても、当の本人が笑みを浮かべたことに、オルアは衝撃を受けた。
実際記録を見たときより、衝撃的だったかもしれない。
「しっかし、まだ残ってたんだねぇ……もう捨てちゃおっかな。あぁでも、毒の抗体資料これだけだしなぁ……」
「僕が守るよ……ミーリくんは、僕が守るよ! もう毒なんて受けさせない! 受けたって、僕がすぐに解毒剤を作ってあげる! 僕が守る……僕が、守ってあげるよ。僕は守護聖女なんだもの」
泣いてそう言ってくれることに、喜びを抱く。
かつてこの資料を見て最初に泣いてくれた少女もまた、そんなことを言ってくれたような気もしなくない。だから少し懐かしくて、ミーリはオルアの頭を二度軽く叩き、そのまま撫で回した。
「ありがとう、オルさん……さて、お腹空いた。おばさんがご飯作ってくれてるだろうから、行こ?」
「……うん、そうだね」
資料を棚にしまい、二人で食堂に向かう。まだ脚の痺れが完全に取れていないミーリは、オルアの肩を借りた。
「そういえば、ここにミーリくんの資料があるってことは……まさか」
「あぁ、うん。ここ、元は俺ん
「そうだったんだ……」
こんな城みたいな場所が家?
王族の次に権力を持つという最高位貴族のすごさが、わかった気がしたオルアだった。
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