エリザベート・バートリ―

 ミーリが連れ去られてから、七〇時間――つまりは三日が経過しようとしていた。

 その日のロンゴミアントの目覚めといえば最悪で、木の幹がポッカリ空いた穴の中で、槍脚を抱えて力尽きていた体は、まったく休めていなかった。

 つい数分間の寝床を出て、背筋を伸ばす。だが直後にフラついて、片膝をついた。体力は、もう限界に近い。

 だが誰よりも早くミーリに会いたくて、ロンゴミアントは限界の体にむち打って走り出した。

 もはや自慢の槍脚も、削れてしまいそう。自分を包み、服のように見せている霊子もなくなりかけ、綻び始めていた。

 だがそれも構わない。ロンゴミアントは走り続け、ミーリを探し続けた。

 でなければ安心できない。探さなければ、探していなければ、死んでいるような気分になってしまいそうだった。

 死にたくはない。ミーリに会いたい。ミーリの胸に抱き着きたい。

 その一心だった。

 だが思いとは裏腹に、限界の体は蹴つまずき転ぶ。倒れた直後に起き上がろうとしたが、言うことを聞かなかった。

 悔しくて、情けなくて、涙が止まらない。次から次に溢れてくる。仰向けに転がったロンゴミアントは、手の甲で涙を拭いながら、同じ空の下にいると信じている主人を思った。

「ミーリ……」

 そのミーリはというと、結界のまえで霊装を現出し、貫こうとしていた。だが長針はすぐに砕けて消え、短針も結界の強度のまえに砕かれてしまった。

 今の力では、結界破壊など途方もない夢だ。

 それは背後で見ていたオルアも、そう思っていた。やるだけやってみると言っていたからついて来たが、来てみてその考えはより強くなった。

「ミーリくん、この結界は君の力じゃ砕けないよ。なんとかブラドのスキをついて、結界を解除させるしか」

「でもミラさん全然スキないじゃん。だって、いつでもあの槍出せるんだよ? 俺の霊装じゃ、あの槍に簡単に砕かれるし。オルさんの霊装でも決定打がないもん」

「それはそうだけど……じゃあどうするの」

「頼んでみるとか」

「出してくれるわけないよ。彼女にとって、僕らは餌か何かでしかないもの」

「それはないよ」

「どうして?」

 ミーリが指さす方にいたのは、逆さでぶら下がっているコウモリが数匹。彼らの見ているものはすべて、飼い主であるブラド本人に伝わっている。

 オルアは急いで払おうとしたが、そのまえにコウモリはすべて飛んで行ってしまった。

「いつから気付いてたの?」

「逆に、今まで気づかなかった? ミラさんずっとこっちの動き見てるよ? 入ってこないのは寝室くらい」

「じゃあなんで払わないんだい?」

「払えば敵対行動でしょ。そうなれば警戒が深くなるし、行動しづらい」

「でも――」

「それにミラさんは知っていて何もしなかった。それどころか、俺に霊装を出せるヒントまでくれた。ってことは……」

「何」

 ミーリの中で、一応の回答は出ている。だがまだこちらを見ている一匹のコウモリと視線で相談して、ミーリは決めた。

「さぁ、なんだろね。俺らに興味でもあるんじゃない?」

「相手は人間を餌だと思ってる吸血鬼だよ? 僕らに興味なんて……」

「それはここで俺達が言い合ってもわからないでしょ」

 そのあとは寝室に行くと嘘を言ってオルアとわかれ、ミーリは一人ブラドの部屋に行った。

 コウモリを通じてわかっていたブラドは、まるで予想だにしていなかったような態度を取って玉座で迎えた。

「どうしたミーリ、我に用か?」

「うん、外の様子が見たいんだ。まえみたいにコウモリたくさんで画面やってくれない?」

「よかろう。キャンプの様子がわかればいいな?」

 ブラドが指を鳴らすと、コウモリ達が部屋に集まりだす。そして目から光を放ち、大きな画面となって外の状況を映し出した。

 ズラッと並んだテントの中で、眠っていたブラドの霊力と殺気に当てられていた生徒達が体を起こし、看護している生徒達に看てもらっていた。

 この様子なら、あとひと眠りでもすればすぐによくなるだろう。

 むしろ心配なのは、ブラドが来るかもしれないと警護や見回りに出ている生徒の方で、気を詰めすぎて顔に疲れが出ていた。

 このままでは後々倒れて、今テントで寝ている生徒達と代わって寝込んでしまうだろう。

「ちょっと、そこの女の子を追ってくれる?」

 見つけた後姿を追わせると、そこには木陰で休んでいる時蒼燕ときそうえんがいた。そして彼女――荒野空虚あらやうつろが、彼に水筒を手渡した。

「知り合いか」

「友達。比較的元気そうで、安心したよ」

「……これ以上は気付かれかねん。もう閉じるぞ」

 ブラドが再び指を鳴らすと、コウモリ達は散り散りに飛んでいった。映像はミーリの吐息で消え、見えなくなる。ブラドは安心したような何か言いたそうな、そんなミーリを見つめて頬杖をついた。

「おいミーリ、先の奴はなんだ。恋人か?」

「友達だよ。恋人、想い人はユキナだ。それは間違いない。これは絶対揺るがない。何があっても揺るがすつもりはないよ」

 そのときのミーリの目といえば、脅迫じみた怖さがあった。ブラドに対しては脅しにもならなかったが、それでもこれ以上続けたら怖いぞという警告にはなった。

 故にブラドはその話を吐息で終わらせ、続けることはしなかった。

 だが胸の中がモヤモヤする。頭がイライラする。ただの旧友であった天の女王イナンナが、べつの対象に変わりそう。 

 その根源はわからない。ただ自分が今、恋人という単語に過剰に反応し、それに対して何かを思っていることだけは確実だった。

 だがそれがなんなのか、何故そう思っているのか、調べる術はブラドの脳内に存在しない。

 それは当然といえば当然で、二つの人生までさかのぼっても、ブラドには経験がなかったのだ。

 恋をする、という経験が。

 どちらとも貴族の生まれであった自分は、まず親に平民は汚い家畜のようなものだと徹底的に叩き込まれた。

 男としての人生ではあとでそれが間違いだと気付き、自国の民のために戦った。すべてを民のために費やした自分は、人を尊いと思いながら恋することなく死んでいった。

 女として生きたときも、恋はしなかった。

 故に今の気持ちには気付けない。恋に恋人、恋煩い。恋という単語は知っていても、自分がそれを抱いたときの気分など、知るよしもなかったのである。

「あ、そうだミラさん。お風呂入っていい? ちょっとあそこで考えごとがあるんだけどさ」

「あ、あぁ。使うがいい。だが、風呂場でまで霊装を出そうとするなよ? あそこを壊されては、我も腹が立たん保証がない」

「大丈夫、あそこじゃ出さないよ。、ね」

 そう言って、ミーリは部屋を出て行った。

 残ったブラドは、一人物思いにふける。そしてひたすら、恋という回答が出せない問題に自ら挑み、袋小路に迷い込んだ。

 何故ミーリを見ていると、鼓動が早まる。

 何故ミーリが他の女性を気にしていることを気にしている。

 何故ミーリが他の女性を好きだと言うと、胸が締め付けられる。

 何故ミーリがいなくなると、少し寂しくなる。

 何故――何故――何故……。

 いくら思考を繰り返し、折り重ねても、答えには辿り着かない。男としての人生でも、幾度も戦術を考えて袋小路に迷い込んだ経験はあったが、ここまで出口がまったく見えないのは初めてのことだった。

 こんなとき、人生ではどうしたのかを思い出す。そうしたときブラドはおもむろに立ち上がり、大きく胸を縮ませて吐息した。

 そして、場所を風呂場に変えて考える。実は出たばかりだったが、入ってしまえばそんなことはお構いなしで、肩までどっぷりと浸かった。

「ミラさんどしたの? そんな難しい顔して」

 風呂にいたミーリは、なんとなく怖い今のブラドに警戒する。

 だがミーリに話しかけられたブラドの表情は、あっという間にいつもの余裕を取り戻した。

「何、少々考え事だ」

「考え事? 何々、ミラさんの悩みとかすっごい気になる」

「そうか。ならば参考までに貴様の意見も聞いておくか」

 二人は今異性同士で風呂に入ってることも忘れて、話に花を咲かせる。しかもまだ答えがわかってないブラドは、あろうことか相談してしまった。

 湯を溜めていた獅子の像も、驚いてか湯の出が悪くなった。

「我は今、人生でも経験しなかった状態にある」

「へぇ」

「ある特定状態にいると胸が高鳴り、脈は上がり、気持ちも晴れやかになる。かつて我が男として生きていた世ではそのような効力を持つ薬が流行ったが、無論我は飲んでいない。なればこの気持ちはなんなのか。この状態は、一体なんなのか」

「ふぅん……なるほど。で、その特定状態って?」

「あぁ、実は今もしているのだが……ミーリ。貴様のことを思うとき、我は心の臓が痛む。これは一体何の状態だ。この時代の流行り病なのか。知っているのなら、教えてくれ」

 単純な疑問から解き放たれようとしているだけのブラドに、気恥ずかしさはない。それがたとえ告白となっているとあとで知ろうとも、きっと誇って笑うだろう。

 だからというわけではないが、ミーリは純粋に回答として述べた。

「ミラさん。それ、きっと恋だよ」

 そこに気恥ずかしさはなく。自分が彼女に好かれているのだとも理解したうえだった。

 きっとここで誤魔化したところで、彼女は納得しないだろう。そう思ったからだった。

 だがそれは正解で、ブラドは答えを聞くと聞き返すもうろたえるもせず、単にそうかとだけ呟いて、湯気が集まる天上を見上げた。

「とすると、我は貴様に恋をしたのか」

「そうだね。ってか二つも人生あって、恋しなかったの?」

「そうだな。男としての人生では、戦争ばかりでそれどころではなかった。とにかく民のために戦い、守らねばと必死だった。故に恋沙汰など、他人事ひとごとだったのだ」

「女性としては?」

「最期まで、平民を家畜と信じて疑わなかった。我が美しさの代名詞であり、他は我を引き立たせるための存在であると信じていた。そんな女が、他人に恋などすまい」

「じゃあ神様になって、やっと初恋したんだ」

「そうなる。男のときの経験と理解が、影響したらしい。女の記憶だけでは、恋心など抱けなかった」

 獅子の口からまた、大量の湯が湧き出る。だが量が多すぎて、湯船から溢れた湯が滝のように流れ出た。

「ミーリ、一つ問う。繰り返しの問いだ……我のものにならんか。我の隣にいないか。貴様には、我と隣にいる権利を与える。その代わり力も貸そう。吸血鬼の力だ、悪いものじゃない。貴様を助け、貴様を導こう。どうだ」

 ブラドの湯船から浮上した腕が、差し出される。声は残念ながら男性であり、表情も女性というには凛とし過ぎたものがある。

 だがそれを除けば彼女は――カミラ・エル・ブラドは美しい女神だった。

 人間の女性としての頃の狂気的美容術が正解だったとは思えないが、彼女は美しさの中に気高さと凛々しさを感じられる、崩して言えば、カッコよくも綺麗な女神だった。

 気高さと凛々しさは、きっと男性のときの名残なのだろう。

 その気品溢れる美しさは、女性の頃の名残なのだろう。

 儚い気泡の美神アフロディテがどんな容姿をしてるのか知らないが、おそらく生前の彼女はその女神に例えられたのだろう。

 だからこそおそらく、彼女はそのままでいなければならないという強迫観念に突き動かされ、永遠を求めたのだろうことは、ミーリの知るところではない。

 故に哀れみはなく、故に深い意味はなく、故に同情することもなく、故に正直に、ミーリはブラドの手を湯船の中にそっと沈めた。

 ブラドは何も言わず、黙って沈められる。結果は実際わかっていて、ただ想像できなかったのが彼の断り方だけであったのは、寂しい理解だった。

「俺が愛してるのは一人だけ。愛せるのも一人だけ。好きな人は、まぁたくさんいるけど……愛してるって言えるのは、一人だけなんだ。だから、君の愛には答えられない」

 だがこれが恋と言うものの影響なのだろうか。わかりきった答えが当然のように返ってきたというのに、心苦しい。

 わかっていたはずなのに、ショックを受けている。立ち直れそうにないくらいの衝撃だ。実際、ミーリの槍の一撃よりも効いた。

 気分はそれはもう最悪で、吐き気と頭痛と心筋梗塞と胸痛が同時に襲ってきたかのような気分だ。吸血鬼だからそれらで死なないのが地獄のよう。

 そして今にも、泣いてしまいそうだった。

「また、断られてしまった。貴様は一体あと何度、我の誘いを拒むのだ……我は、我は……」

「ごめんね、ミラさん」

 泣きそうな感情も苦しい心境も、すべてを口の中に溜め込んで息と共に吐きだす。ブラドはおもむろに立ち上がると、微笑を浮かべて見下ろした。

「まぁいい。いずれ貴様を我のものとする。十年、何十年かかろうとも、必ずな。そのためにも貴様には今ここで、我の情報を一つやろう。我を形作る伝説の一人、その名だ。調べれば色々とわかるだろう。我の弱点、などな」

 歩み寄ったブラドはかがみ、覆いかぶさるようにミーリに近付く。そしてその耳を甘噛みし、舌で撫でまわしてからささやいた。

 さすがのミーリも裸での密着には動揺で応え、思わず聞き逃しそうになった。

「エリザベート・バートリ―……女性としての、我の名だ。覚えておけ、頭の中に刻んでおけ。一生を城と牢獄の中で過ごした、どうしようもない貴族の娘だ」

 再び立ち上がったブラドの裸体が目の前に。ミーリはさすがに目を逸らしたが、ブラドはしばらく微笑を浮かべたまま、立ったままだった。

 初めて戸惑いを見せたミーリの反応が、おもしろかったのかもしれない。だがその心の底は、ブラド本人にしかわからないところであった。

 ブラドは湯船を上がると自らの霊力で体の水滴をすべて弾き飛ばし、霊子で服を編み上げて風呂を出ていった。

 ミーリはしばらく茫然自失で動けず、結果のぼせてしまった。

「まったく、どんだけ入ってたんだい?」

 オルアが水で濡らした獣の皮を額に乗せる。そうすると独特の臭いがしたが、気持ちよさを優先してどかさなかった。

「それで、いい考えは思いついた?」

「思いつきはしなかったけど、情報が一つ」

「どこから」

「ミラさんから直接。告白されちゃってさ」

「……そ、それで?」

「もちろん断ったけど、諦めてないらしい。情報をくれてやるって言って教えてくれたけど……」

「けど、何」

 思うところはいくつかあったが、何も言わなかった。彼女の言う通り、まぁ調べるだろうが、調べてわかったこともおそらく話さないだろう。

 カミラ・エル・ブラド――エリザベート・バートリ―のすべてが、そこにあるとは思えない。調べても、根も葉もない伝説だらけだろうから。

「とにかく、結界から出る方法はまた探さないと。交渉の余地があるなら、交渉するし」

「そんなこと、本当にできるのかい?」

「やれるかどうかはまず試してみなきゃ。やれないって言ってやらないほど、簡単なことはないじゃん?」

「それはそうだけど……」

「ってなわけで俺はちょっと寝るねおやすみぃ……」

「ちょ、ミーリくん寝るの?!」

 その後ミーリが寝息を立てるのに必要だった時間は、十秒を切ったという。

 だが同時刻、ブラドは膝をついていた。息は荒れ、胸は苦しい。腹部のタトゥーが鼓動して、赤の暗明を繰り返していた。

 虹彩の赤は怪しい輝きを宿し、手で覆って作った暗闇の中で光る。その中心の瞳孔は小さく狭くなって、外の光を吸い込むのを拒みだした。

 玉座からグラスが落ちて、中に入れていた血を飛ばしながら割れる。その血が視界に入るとなんだかイライラして、むしゃくしゃして、その血だまりを叩き潰そうと、何度も拳を振り下ろした。

 今の状態に、ブラドは心当たりがあった。だがありえない。ありえるはずがないと、その可能性を否定した。

 でなければ自分は、自我を保てなくなってしまう。

「我は……我、は……」



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