interlude

少女

第9話 interlude 少女 1/2


 少女は森を走る。

 木を躱し、枯れ枝を踏み、小さなせせらぎを飛び越える。

 鳥が歌っていた。山に住む小動物が慌てて身を隠す。少女は、微笑む。

 春。息吹く森。立ち上がる土の香り。

 喜びが花となって咲くような、少女だけの、ここは楽園。


「氷雨。また山で遊んできたのね」

「うん。つくしがいっぱいあった。場所を覚えてきたから母様も行こうよ」

「ありがとう。でもゴメンね。母様はこれからお仕事があるの」

「えー。やだ。母様が行けないなら、父様と行く」

「ワガママを言わないの。父様も今お仕事でしょう」

「お仕事。お仕事。お仕事ってなに?」

「母様の仕事は、亡くなった人の霊を弔う事。父様のお仕事は人々を守る事。どちらも、大切な事なのよ」

「分かんない」

 母は娘の頭を撫で、優しさに満ちた微笑みで見つめる。

「父様は明日お休みよ。夜は家で仲間の方たちとお食事をなさるけど、お昼のあいだに二人で行ってらっしゃい」

「分かった。じゃあ今日はお絵かきをする」

 そう答え、少女はぱたぱたと畳の上を駆け、出ていった。

 母は思う。氷雨は、碓氷の血を色濃く受け継いでいる。仏門の家系としての血筋ではなく、火を統べる、修羅としての血を。

 幼い氷雨の火を操る才能に、母、時雨しぐれは若き日の自分を重ねる。


 夕食の後、家族三人での団らん。氷雨の祖父と祖母は自室に戻った。最近めっきり体が弱くなった。机の上で、熱いほうじ茶が湯呑の中で湯気を立てる。

「今日ね、山でつくしを見たの。野ウサギもいた、それからね…」

 娘が嬉しそうに話す姿を父、あきらは見つめる。つくしに野ウサギか。春なのだと思う。

「あなた。明日の昼、氷雨とつくしを取りに行かれてはどうですか。警察の同僚の方々にもつくしを振る舞って」

「そうだな。それが良い。婆様も喜ぶ」

「それから少し気になっている事が…」

 時雨が目を伏せる。

「分かった。氷雨、おいで。父様の着替えを手伝ってくれ」

 氷雨は無邪気に頷く。娘の手を引き寝室に入る。上着を脱ぎ、氷雨に渡す。脱いだ腰には、ニューナンブのホルスター。

「カッコいいー」

 氷雨が目を輝かせる。本当に、無邪気なものだ。氷雨は今年の春で五つか。願わくば、この純真さをいつまでも失わずにあって欲しいものだ。

「明日は何時に行く?」

「そうだな。朝方はまだ寒い。つくしも朝は眠いだろう。母様が言うように、お昼の少し前にここを出よう」

「うん。じゃあお着替えが終わったら氷雨はもう寝る」

「それがいい。たっぷり寝て、明日はたくさんのつくしを取って母様をびっくりさせよう」

 妻の杞憂とは何だろう。氷雨の事か、他の事か。私は婿養子だから家の事ではあるまい。不満を持った事はないが、寺や檀家の扱いは、未だに婆様が仕切っている。

 もしかしたら警察を退職して出家しろと言う話なのか。

 私が寺の坊主か、この世で一番、向いていないな。


 翌日、惰眠をむさぼり起きると時刻は十時半。久しぶりに、まとまった睡眠をとったな、と明は思う。伸びをして、体をほぐす。着替えて居間に下りると氷雨が私を見て駆け寄ってくる。

 準備は万端のようだ。大小の背負い竹籠に水筒と弁当箱が二つずつ。氷雨はすでに軍手をはめており、首にはタオルが巻かれている。

「父様。朝ごはんはどうする?」

「ははっ。そんな格好で待たれたら食事をするのも悪いな。父様は平気だ。そのかわり向こうに着いたらまず昼食を食べよう」

 氷雨の案内で山を登る。

 眼前に広がる雄大な自然。近年はここらの土地も開拓され出してきたが、寺から見て山側の、この辺りの景色は、私が少年だった頃と何も変わらない。

 枝を持って走り回り、そして時雨に出会ったままの、この風景。

 その景色の中、氷雨と昼食を取り、そしてつくしを集める。

 幸せとはこんな何気ない日常の中にあって、娘と共にいられる喜びを、私は降り注ぐ太陽の光に煙草の煙を吐き出して感謝した。


 時雨の心は張りつめている。恐れや不安はない。危険を、感じるはずもない。それはとうに牙を抜かれ、そして慢心さえしなければ、無害な存在だ。だが、張りつめる。それは決して絶える事無く、生命の貪欲さで、牙を取り戻そうとする。

 エーテルの流れを編み込んでその結界に触れる。また、浸食されている。忌々しいと思う。もしもがあってはならない。夫、明にもこの事は昨日のうちに話してある。

 時雨は事を成すと、祠を出ようとする。

 悠久を生きる獣が、笑った気がした。


 氷雨は爺様とつくしのはかまを取り終えて、婆様と茶菓子を食べ、また遊びに行こうとしていた。

 しばらく山道を歩いていると、竹林の奥に、母の姿が見えた。

 母様が、山に?

 不思議に思い、氷雨は母の姿を見つめる。母はただ森の奥を、何するでもなく、長いあいだ見つめていた。そして鳥の甲高い鳴き声が響き、母は眠りからさめたように歩き去っていった。

 母が去ったのを見届けると、氷雨は母が立っていた場所までやってくる。母様は森の奥を見ていたな。竹藪の中を進む。そして急に、開けた場所が見える。

 竹の連なる林の真ん中、そこだけが竹の繁茂から外れ、大きな岩がその中心にあった。こんな場所があるなんて。氷雨は宝物でも見つけたように瞳を輝かせ、岩の周りを歩く。

 そして特に何もないな、と子どもの飽き心で立ち去ろうとしたその時、氷雨は地に視線を落とし、気付く。乾いた枯葉の下に、柔らかく湿った腐葉土が見える。そこが、掘り返したようにしっとりと濡れ、苔むした古い石板が見えた。

 これか! 氷雨は石板を押す。滑車がついているのか石板はいとも簡単に動き、その下には暗い竪穴の、古い梯子が続いていた。

 氷雨はもう冒険者の心持ちで竪穴を降りる。

 底について、辺りは暗く何も見えないので、火炎魔法を手のひらの上に発し、奥へと進む。

 鉄の格子の奥に、何かが見える。おけ? 更に近づこうとして、格子に触れた途端、氷雨の身体に電流の様な強い力が働き、思わず顔を歪める。

 なに、これ? 疑問に思い、恐れを抱いたその時に、声が聞こえた。

「ねえ、誰かいるの?」少年のような、それは優しい声だった。

 氷雨は恐る恐る格子の中を覗く。暗くてよく見えないが、確かにその声は中から聞こえたように思えた。

「誰かいるの?」

 再び、声が問いかける。

「い、いるよ」

「そうか。ああ、誰かと話すのは久しぶりだな」少年の声は屈託がなく、爽やかそうに、伸びやかに聞こえる。その声に安心して氷雨は返事を返す。

「あなたはだあれ?」

「僕? 僕はホムラ。ウスイホムラって言うんだ」

「ウスイ? 私もウスイだよ。ウスイヒサメ」

「ヒサメちゃんか。可愛い名前だね」

「そんなことないよ」

「ヒサメちゃん。お願いがあるんだ。僕ここから出られないんだ。ヒサメちゃんはウスイの家の子だよね。火の魔法、得意だろ?」

「うん」

「その火で、この前にある檻を焼いてくれないかな」

「でも、母様は火を使っちゃダメって…」

「ねえ、お願いだよ。僕ずっとここにいるんだ。外に出たいんだよ。ヒサメちゃんは閉じ込められていたら嫌だろう?」

「そうだけど」

「ね? だからお願い。人を助けるためなら母様もきっと許してくれるよ」

「うん。うん、そうだね。分かった。ちょっと待って」

「普通の火じゃなくて、ウスイの火だよ」

「分かった」

 そう答え、氷雨は距離を取ると両手のひらに青い火炎を発生させる。ビリビリと、空気が爆ぜる感覚が氷雨を捕える。そしてその火を檻に近づけた。

 押し返されるような、不思議な感覚があった。

 空気の流れが狭い洞内を吹き抜け、梯子のある竪穴から逃げていくのが分かる。もう少しかな、さらに火力を高め、輝く青色の炎尾が明るさを増したその時、その火は檻に吸い込まれるように消え、何かが砕ける妙な手応えを感じた。

 檻が崩れ落ち、煙を上げるその奥で、桶から何かが出てくる。

 それは粘性のある液体のようだった。固体と液体の中間、ゲル状の粘液が溢れ、中から薄紫色の球体が現れる。

「ヒサメちゃん。ありがとう。怖がらなくて良いよ。僕は悪い人じゃないんだ」

「でも、モンスターみたい」

「それはしょうがないんだ。ずっとこの桶の中に閉じ込められていたからね。さあ、一緒に外に出よう。きっと面白い事が始まる」

「面白い事?」

「まだ内緒」

 少年の声は謎めいていて、その声の主は球体の怪物のものなのに、氷雨は何か不思議な、そう、それはまるで「憧れ」のような気持ちで球体を抱き、そして外に出た。

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