恋は魔法
第23話 恋は魔法 1/2
繰り返す、あの時の事。脳裏に浮かぶ、あの泣き声。
勢いで凛子とキスをしてから二日が過ぎた。今日も凛子は風邪で休んでいる。そしてあの日とは違い、俺は冷静だ。
あいつは俺が好きなんじゃない。気分だけ高まって、仲間への友情と恋愛の境が曖昧になって、そこにいた俺にキスをした。それだけだ。
目の前で、氷雨が資料に目を通している。綺麗な顔だ。放課後の教室には暖かな西日が溢れ返り、氷雨の顔に濃淡の陰影を付ける。
五月末。時は夕暮れ。来週の始めにある林間学校の打ち合わせが先ほど終わって、クラス委員長である俺たちは教室に戻り事務処理に追われていた。
目を伏せる氷雨をこっそり見つめる。やはり、綺麗だ。この顔をずっと見つめていたい。俺の事が何故か好きで、俺が付き合っている女の子。
「氷雨」
「どうしたのだ?」顔を上げる。
「これが終わったら、帰り道、少し寄り道をしないか? 考えてみたらお前のケガも治った。付き合っている俺たちがずっとただ登下校で送り迎えをするだけと言うのも変だろう」
氷雨は目を見開き、俺を見つめる。そして、ぱっと花が咲いたかのような笑顔を浮かべる。
「望むところだ。ダーリンが行きたいところはどこなのだ? 映画か、買い物か? 私はあまり流行りには詳しくないが…」
「お前が行きたいところに、俺は行きたい」
氷雨が驚いたように手を止める。手にしたプリントが風になびく。まるで、野を駆ける馬のたてがみのように。
「だ、ダーリン。冗談がつまらないぞ。どうしたと言うのだ。ダーリンはもっと、傲慢で、ワガママで勝手で、それから…」
「………」
「本気、なのか?」
俺は頷く。
「なら、なら。ワガママが許されるのなら。父様に、会って欲しい…」
氷雨が下を向く。俺は頷いたが、下を向く氷雨には見えていない。
「じょ、冗談だ。気にしないでくれ。ダーリンが寄りにもよって墓参りなど。つ、つまらないに決まっている。そうだ、キャバクラに行こう! 分からないが、きっと楽しいぞ! そ、それから、クラブとかいう物にも行こう。きっと、女の子がたくさんいるぞ」
「氷雨」
「な、なんだ」
「俺はお前の父様に会いたい。連れていってくれるか?」
「ダーリン。なにか、なにか変だ。どうしたと言うのだ」
「不安に思わなくていい。お前は安心したように、ただ笑っていろ。お前は、お前の笑顔を、ただ俺に見せてくれればいい」
氷雨が困ったように笑った。俺はもう迷わない。今ここにある幸せをただ守ればいい。
氷雨の肩に手をかける。置物の人形が驚いたかのように氷雨の肩が引きつる。
キスをした。初めて唇で触れる、氷雨の唇。
まだ愛ではないかもしれない。まだ恋とは呼べないのかもしれない。
それでも。俺は重なるその体温に何かを注ぎ込んだ。
寺の境内。その奥。竹林のその向こうに岩があった。この岩は、霊具の類だな。力を感じる。エーテル探知で見ると、西洋で言うルーンの刻印が施されているのが分かる。封呪というやつだろう。
「十年前。悪鬼を封じる
岩のすぐそばに入口があった。竪穴を下る。坑内の奥、檻の向こうに、桶があった。
「父様。氷雨です。お願いがあります。どうか、どうか心穏やかにお聞きください。この人は、私の大切な人です。あの頃の父様でいてください。今だけは、優しい父様であってください」
氷雨がそう言うと、桶の中から優しそうな、男の声が響いた。
「氷雨か。ここに来るのはずいぶんと久しぶりじゃないか。いや、泣き言だな。お前には今の生活がある。私にかまけていてはいけない」
「紹介します。恋人の麻生将さんです。氷雨の一番、大切な人です」
「そうか。将くん。声を聞かせてくれないか。私にはもはや何も見えない。何も感じない。だから何でもいい。何か話してくれ」
「麻生将だ。実家は餃子屋さんをしている。氷雨とは付き合って間もないが、大切にしようと思っている。話は聞いた。立派な父上だったのだな。安心しろ。氷雨はいい女に成長している。時雨も息災だ」
「変わった話し方をする男の子だな。将くん。今の氷雨は、どんな女の子なんだ? 時雨に聞いても、仕方がないが母親目線でね。普通の男の子に、氷雨がどう映っているか聞きたいんだ」
「俺は不本意ながら学校で奇人と呼ばれているが、俺と付き合う氷雨もまた充分に変人だ。だが安心しろ。心根の真っ直ぐな、優しい女だ」
「はははっ。それは良かった。そうか。氷雨にももう恋人が出来たか。ここにいると時の流れを忘れそうになる。いつも思う。成長した氷雨を一目でいい。一目見たいとな」
「………」
「想像するよ。時雨は、幼い頃から美しかった。そして私と時雨の娘である氷雨。さぞ美しく成長したのであろうな。肉付きはどうだ、顔に色気はあるか。はははっ。私は壊れているな。娘の容姿が気になるなど。だが思うよ。氷雨は私の物だ。氷雨が、恋人? はははっ、笑わせる」
「意識の混濁が始まったようだな」
氷雨が呟く。その顔は、能面のように無表情な、そう、まるで、氷のような顔だった。
「おい。名を明と言ったな。戻ってこい。娘が目の前にいるのだぞ」
そう言うと、声の表情が一変する。
「黙れ小僧っ! ガキがはしゃぐんじゃねーぞ。殺してやろうか。こんな檻から出られれば真っ先にお前を殺してやる。お前だけじゃない。氷雨も、時雨も、目に映る生き物は全部俺が殺してやるっ!」
「ダーリン。済まなかった。もう行こう。これが、私の父だったものだ」
「待て。はしゃいでいるのはお前の方だろう。あの時は分からなかった。だが、今なら分かる。なぜ時雨は浴びるように酒を飲むのだ? 今なぜ氷雨は氷のように無表情なのだ? そんなもの決まっている。全部、ぜんぶお前を愛しているからだっ!」
「うるせえぇーーー。ぶっ殺すぞ! アア、もう駄目だ。俺が、俺が出てくる。アアァァアァ、シネ、シネェ。ヒサメェ、コロス、モウコロス。アア、アアァァアァ」
「いつもよりひどいな」氷雨が青い炎の詠唱に入ろうとする。
「待て。明はまだそこにいる」
「だが」
俺は呼びかける。
「どれほどの苦しみがあろうと、どれほど己を失いそうでも、男とは一人の時にだけ、泣き叫べるものだ。まして父親が娘に死ねなどと、狂っても口にするなっ!」
「ダマレコゾウ!」
「黙るのはお前だ! 好きなだけ狂えばいい。だがそれは氷雨や時雨がいない、その時だけだ。いいか。これからは俺が氷雨と二人で顔を出しに来てやる。だからその時だけは死んでも自分を抑えつけろっ! 俺の目の前で一度でも氷雨を悲しませたなら、俺はお前を殺すぞ」
「もう。もう止めてくれ」氷雨が俺を遮る。
「目を覚ませ、明! お前の感情はその程度か! お前は何故生きて、何故死んだんだ!」
頼む! 心の力を信じてくれ! 想いは届く。魔法より確かな、人の、想いの力を!
声が止んだ。目を閉じればそこに、会った事もない明の姿が見えるようだった。
落ち着きを取り戻した声で、明が口を開く。
「はははっ。まさか、子どもに説教されるなんてね。だが、自分に打ち勝とうと願ったのはずいぶんと久しぶりだ。生きていた頃は、当たり前にそれをしていたのにな。氷雨。済まなかった。いつも愛しているよ。氷雨。将くんの言う通りだ。父様は、今もお前の父様でありたい…」
氷雨の肩が震えている。そうだ。例え辛くとも、死したのちの世界がどれほどの孤独であろうと、心だけは、生きた人を想い通わせなくてはならない。
俺は兄を思い出す。
兄貴。そこは辛いか? 安心してくれ。兄貴が生かしたこの命。無駄にする事は決してしない。
右胸に手を当てる。
「また来る」
「ああ。将くん。氷雨を頼む」
「当たり前だ」
竪穴から出て、僧坊に向かう。玄関に入るとそこに時雨がいた。
「お帰りなさい。氷雨、将くんに見せたのね」
「はい。ダーリンはやはり稀有な人です。そして父様も」
「そう。ところで将くん。あなたに手紙が届いていますよ」
「手紙?」
不思議に思い、受け取り、封をはがす。
『ちょっとシリアスに行き過ぎた。奇人よ。ここからはテンションを上げていけ』
「誰からだ?」氷雨がのぞき込む。
「作者からだ」
「時空が歪みすぎだろ」時雨がツッコむ。
「ま、いい。とにかくここではなんだ。上がって話そう」
「それ、家の人が言うセリフだと思うのだけど」
居間に上がる。お茶が出され、三人で卓を囲む。
「しかし困ったな。俺は完全にツッコミキャラだからテンションを上げろと言われても困るぞ。一発ギャグも最近考えてないし」
「どこがツッコミやねん」
「母様、久しぶりに氷雨はあれが見たいです。ローリング浪人おばさん」
「仕方ないわね。今日は特別よ」
時雨が床の上をころころと転がり、「えいっ」と剣をふるうマネをする。
す、すごいな。一ミリも面白くない。
だが氷雨は爆笑している。時雨も完璧にドヤ顔である。って言うか氷雨の爆笑って初めて見たな。ううむ、ツボが分からん。
それからも氷雨と時雨は内輪ネタで盛り上がっている。氷雨、実はこいつ、園児にウケるような笑いが好きなのか? ホーミング放浪おばさんも切ないくらい寒い。
って言うかおばさんシリーズいくつあるんだ?
「ああ、楽しくなってきたわね。どう、将くん。少しお酒でも飲んでいく?」
「い、いや。遠慮しておく。それより時雨。お前、明の事があるから酒に飲まれていたんじゃないのか?」
「いえ。お酒は単純に好きなだけです」
「やっぱすっきやね~ん!」
「ダーリン。あのセリフの時、実はツッコもうか迷っていたんだ」
「明に謝れっ!」
時雨が酒を飲み始めた。もう駄目だ。さっきの悪鬼よりタチが悪い。
俺はアル中を置き去りにして、氷雨に連れられて玄関へと向かう。
「ダーリン。今日は私のワガママを聞いてくれて嬉しかった。私の行きたい場所へ行きたい、そう言ってくれたな。今度は私の番だ。なにか、私にして欲しいことはないか? ダーリンの望みが、私の望みだ」
「脇をぺろぺろしてくれ」
「そ、それ以外で」
「そうだな。それならば、俺とデートしろ。場所は動物園だ。そして夕食はまた餃子屋さんで食おう。そして別れ際に、私、今夜は帰りたくない、と言え」
「セリフも指定してきたか。いいだろう。それくらいならお安い御用だ」
「いや、待て。やっぱ、私の×××をあなたの固い×××で…」
「断る」
「最後まで言わせてくれ。女の前で下ネタを言うのが俺の生きがいなのだ」
「もっと真剣に人生を生きろ」
「まあいい。そんな訳だ。今週末は予定を空けておけ」
「分かった。それじゃダーリン…」
「ん? なんだ」
「さ、察してくれ。別れ際と言えば、キスではないか」
「そ、そうか」
キスをしようとしたが、歯と歯がごっつんこする。い、痛い。
「すまん。今のはギャグだ」俺は赤面する。
「ダーリン。かわい」
「う、うるさい」
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