第10話 鳴動5

 正直、事件にはおそらく関係ないだろうことではあったが、刑事に成り立ての頃に、先輩刑事からこっぴどくたたき込まれた「相手が気になっていること、自分が気になっていることは、大したことがなさそうでも必ず抑えておく」というセオリーを、ここでも踏襲したまでの話だ。

「どれだい?」

奥田は西田から冊子を受け取ると、腕を伸ばして、遠目にするように名簿部分を確認した。

「うん、確かにいるな。中には俺がわかる人もいれば、わからない人もいるわ」

「わかる人というのは?」

「伊坂組ってところの社長とかはわかるよ」

「伊坂組ってのはあの伊坂組ですよね?」

北村が確認すると、

「そうだ。刑事さん達も知ってるべ?」

と答えた。伊坂組は北見近辺のオホーツク地区で有力な建設会社であることは、地元ではない西田でも知っていた。

北見ここの有力企業ですから、俺でも知ってます。ただ、それにしても建設会社の伊坂組の関係者がなんで参加してたんですかね? まさか昔のトンネル建設にここが関わっていたとか?」

「いやあ、さすがにトンネルの建設をここがやってたとかそんなことはねえよ。俺が知る限りでしかないが、そんな古い会社じゃないはずだ。ただ、この伊坂組はここに載ってる先代社長が始めた会社らしくて、元々は国鉄の保線なんかの下請けやら鉄道の施設補修なんかもやってたんだわ。いやと言うより、それが本業だったのかな……。俺も一緒に伊坂組の連中と仕事してたこともある。常紋あたりの保線も担当してたのは間違いない。そういう関係で来てたはずだ。今は保線関係はしてないと聞いてるよ。ゼネコンって言うんだべか? そういう風な建設会社になってからは」

北村の質問に、奥田が苦笑しながら言った。


「会社や所属、肩書きが書いてない人は何者なんでしょうね」

西田はその部分に奥田が答えてくれなかったので、再度聞いてみた。

「うーん、西田さんには申し訳ないが、ちょっとその人達はわからないな……。いやわからないというより、忘れたってのが正しいべか?」

奥田はそう言うと、冊子を西田の前に置いて戻した。

「20年以上前のことだから仕方ないな」

西田は小さく呟いた。

「二十年? ああもう二十年か……。十年一昔って言うから二昔になっちまうな。でもよく憶えてないってのは、年数の問題ってより年の問題だろう。最近色々物忘れが激しくてな。本当に年だけは取りたくないもんだ。二人はまだなんだかんだ言って若いから、俺の言ってることがわからんべや?」

西田は聞こえるように言ったつもりはなかったが、皮肉にも耳の方は全く衰えている様子もなく、奥田にはしっかり聞こえていたようだ。思わず恐縮して、肯定も否定もせず、

「まあ」

と誤魔化した。


 それ以降は特にその場で聞くべきことが思い浮かばなかったので、しばらく奥田の世間話や国鉄勤務時代の昔話を適当にあしらいながらも、何となく1時間近くも付き合ってしまった西田と北村であった。ただ、最後はまたしても「奥方」の助け船により、なんとか署へ戻る切欠を掴んだのだった。


 帰り際に、

「この資料は署でコピーを取って後から郵送させていただきますから、住所教えて貰えますかね?」

と西田が言うと、

「特にいらんからやるぞ」

と奥田は言ったが、

「いやそういうわけにはいきませんので」

と丁重に断った。

「だったら折角だから、郵便なんか使わないでまた持ってきてくれや」

と豪快に笑って言ったが、さすがにそこは住所を聞き出し、奥田の家を後にした。


※※※※※※※


 署に戻ったのは、昼1時過ぎだった。本来ならば、余り早く署に戻りたくはなかったが、この時間帯の田舎道は車も少なく、意図せずあっという間に遠軽に戻ってきてしまったのだ。捜査本部は閑散としていたが、昼飯時だったからというより、その時間帯はまだ他の捜査陣が動き回っている最中だからというのが正しい。


 ガランとした室内で背広を自分の席にかけると、西田は取り敢えず腰掛けて、どういう風に倉野事件主任官に報告するか思案していた。倉野はまだ昼食から戻っていなかったので、考える時間はあったのが救いと言えた。だが、どう取り繕ったところで、アテが外れたという現実を伝えないで済ませることは不可能であり、そこは腹を決めるしかない。


 倉野が戻ってくると、早速西田は駆け寄り、午前中の捜査報告をした。最初は黙って聞いていた倉野だったが、結論が見えると、

「ダメか」

と叫びのような声をあげて、唸った。

「イケるかと思ったんですが、こういう風になって残念です」

と西田は言うしかなかった。

「ローラー作戦もこのままだと厳しい結果になりそうだし、どうすりゃいいかな……」

倉野は横で聞いていた沢井課長に振った。

「ほぼ間違いなく、調査会の活動話が発端でしょうけど、記事を見た人間を全部特定するのは無理ですから、そこがウィークポイントになるのは仕方ないでしょう」

沢井も少々投げやりな言い方をしているようにすら聞こえた。次第に三人の間に微妙な空気が流れているのを、それぞれが感じ始めた時、倉野が沈黙を破った。


「沢井、さっきのNシステムの話だけど、あれ調べてみる価値あるかな?」

突然倉野の口から「Nシステム(自動車ナンバー自動読取装置)」の話が出て来たことに、西田はとまどった。

「Nシステムは現場周辺にはないはずですが?」

「西田の言う通りではあるんだが、現場周辺とは到底言えないにせよ、最近北見と留辺蘂の国道間にNシステムが設置されたらしいんだ。6月の15日から稼働してるって話」

沢井課長が西田に説明しはじめた。

「事件の後の話ですね」

「それがどう関係あるのか」と言いたい気持ちを、態度にも出さないように注意しつつ、西田は淡々と言った。

「ところがだ、実は本格的に稼働しはじめる前、設置してからすぐに試験運用ってのを数日間やっていたと、ついさっき、11時ぐらいだったか北見方面本部から連絡があってな。たまたまだがその試験運用していたのが、6月の4~10日の間だそうだ。吉見の事件発生が6月9日だから、もしかしたらその期間中に、例の『霊』の車がリストアップされているかもしれない。勿論そこを通ってるかどうかわからないし、通っていたとしてもそこを通っているだけじゃ、何の証拠にもならんけど」

「でも、何もないよりは良い情報じゃないですか。少なくとも調べてみて損はないのでは?」

西田は沢井課長の話を聞くと、先程までの懐疑的な気持ちも消え、多少乗り気になっていた。


「ところで幽霊ってのは、毎日のように現場に夜行ってたんだよな?」

倉野が二人に確認した。

「毎日かどうかはともかく、頻繁にあったと目撃しているJRの連中からは聞いています。勿論JRの職員が目撃していない日にもそこに居た可能性は、やっていたことから推測するとかなり高いかもしれません」

沢井が率先して言った。

「だったら、もし通っていたとしたらだ。中途半端な時間帯に、そこを数日間通っている車を特にリストアップすれば面白いんじゃないか?そんなのは、物流関係とか、特殊な仕事でもない限りそうはないだろ。都会じゃないんだから、大抵の奴は寝てる時間帯だ」

中途半端という表現は抽象的だったが、もっと具体的に言えば、夜から早朝に掛けてという意味なのは明白だった。なかなか的を射た指摘に西田には聞こえた。

「そうですね。うまく何か引っかかっているかもしれません。後はその車のタイヤ痕が一致すればかなり確率は高いはずです」

と西田は言った。

「タイヤを替えられていたらダメだが、そこまで頭が回っているかは疑問だ。うまくいけば最後までたどり着けるかもしれんぞ」

倉野は二人を交互に見ながら喋った。そして、

「問題は、記事を見たことと関係あるかだな」

と続けた。

「そこはどうでしょう。記事を見た人物と一致する可能性は普通にあると思いますよ。ローラー作戦では、今のところこれという人物はピックアップできてませんが、もしNシステムでそれと被れば、まさに状況証拠としては堅くなる。作戦の一環でタイヤ痕を採取してる対象が幾つもありますから、Nシステムで割り出してからそれを調べるより先に、既にチェック済みの可能性もありますし。どちらにしても、『何故遺体を回収しようとしたか』の動機については、後付でいいんじゃないでしょうか? 可能性としては記事が発端であると見るのが一番筋が通りますが、同時に現状最も納得が行く動機であるという『だけ』のことでもありますから」

沢井課長が「だけ」を強調して言うと、

「うむ、とにもかくにも、今はNシステムに引っかかってくれているかどうかが重要なわけだ」

と事件主任官は返した。


 これ以降の捜査方針について一通りの会話を終えると、倉野は西田に、今日は取り敢えずこのまま捜査会議までの時間、本部で時間を潰しながら残っていて構わないと告げた。西田は自分の席に戻り、奥田から借りた冊子をパラパラとめくって確認すると、コピー機に掛けた。そして、階下の警務課に行き、封筒を貰って奥田の住所をメモを見ながら記入した。原本をそこに入れると郵送してくれるように頼んで、待たせていた北村と遅い昼食に出かけた。


 昼食から戻ると西田は、冊子のコピーを今度は念入りに眺め始めた。それを見ていた北村が、

「係長、裏はいつ取りますか?」

と質問してきた。

「うーん、ここまでちゃんとした冊子がある慰霊式までやったんだから、遺骨収集を大掛かりにやったということにウソはないだろ。奥田にも聞いたし、更に裏取りする必要はないと思う」

とだけ言った。

「それもそうですね。時間の無駄ですか」

と北村は言った。

「正直言うとだな、昭和52年だろ……。ここに載ってるのは、当時の町長さんとか議長さんとかだから、年齢的に見て死んでる可能性も高いと考えてるんだ。そうなると北村の言うとおり、時間の無駄ってこと。他の国鉄職員なんかは、連絡先をいちいち調べてると時間掛かりそうだし」

西田はそう言ってコピーをめくろうとしたが、ふと指を止めて、

「昭和52年か……」

と呟いた。


「昭和52年がどうかしましたか? 奥田さんが言ってた遺骨収集と慰霊式の年ですよね?」

西田の呟きに様子をうかがっていた北村が、間を置いてから言った。

「ああ、あれだあれ! 墓標、墓標、生田原の墓標だ! そうか、あれがこれだったんだ!」

北村の問いにも答えず10秒ほど黙っていた西田だったが、突然そう声を張り上げた。

「な、なんなんですか、ボヒョウってのは?」

北村が怪しむように聞いてきたが、

「説明すると面倒だぞ」

と冗談で睨み付けるように言う西田。が、すぐに遠軽署独自の「幽霊」の追跡捜索の際に、たまたま見つけた慰霊碑であり墓標が、おそらくこの慰霊式で出来たものであるという話をしてやると納得したようだ。


「係長自身が、この話を知る前に実際に証拠を見つけていたってことになりますね」

「そうそう。デジャブみたいなもんだったんだなあれは」

事件に直接関係しているわけでもないことだが、合点がいったというか、腑に落ちたというか、何故か清々しい気持ちに西田はなっていた。捜査が思うように進んでいない上に、打開できるかと思った新情報も期待を裏切ったにも関わらず、それ以上にこれまでの捜査で得た話がつながったことが、ある意味喜びだった。一通り「墓標」や遠軽署単独捜索時の逸話について話し終えると、再び西田はコピーをじっくり見返した。この時点で既に「どうでもよくなった」はずの資料ではあったが、何故かじっくり見入ってしまったのは、単に他の捜査員達が帰還するまでの単なる暇つぶしに過ぎなかったのか、そうではなかったのか……。


※※※※※※※


 やがて午後5時過ぎになると、捜査員達が続々と本部に戻ってきた。どの捜査員達も顔に疲労と焦りが見えた。誰も上手く行っていない様子がありありと見えた。午後6時過ぎに捜査会議が始まり、本日の捜査報告を一組ずつしていくが、芳しい成果を挙げた捜査コンビは一組も居なかった。それを受けて、倉野事件主任官はローラー作戦があと数日で終わるため、残りを全力で当たることを指示し、加えてNシステムの試験運用による、吉見の遺体発見日時も含む通過車両のデータがあったという新しい捜査情報を説明した。これには他の捜査員達もちょっと色めき立った。一方で、

「場所が留辺蘂と北見の境界ということですが、現場は留辺蘂を越えて生田原ですから、場所的には遠いので特定は困難ではないですかね?」

という当然の疑問が他の捜査員達からも出た。


「その通りだ。そこを通って現場に行ったという確証も全くない。ただ、北見市内や網走方面から現場に向かうとなると、通っている確率が高いのもまた事実だ。通っているだろう時間帯もある程度絞れる。今の状況のままでは、ローラー作戦だけで容疑者をリストアップすることは厳しい。最後の賭けになるかもしれないが、やってみる価値はあると思う」

倉野は先程の西田達との討論の結論を明快に答えた。横で聞いている副本部長の槇田遠軽署長も納得しているようだ。

「それでだ、君たちがローラー作戦の際に、関係車両と思われる中で、タイヤ痕が似ている、或いは一致しているだろうものを、ナンバーチェックと同時に採取してくれているはずだが、あれはどうなってる?」

「主任官、それなら随時北見方面本部の鑑識に送ってます。原本も今はあっちに預けてありますので」

と遠軽署鑑識係長の山下が返答した。

「そうか、あっちで調べて貰ってるのか。わかった。それならリストアップできた車両とこっちが持って行った情報でもし符合するものがあれば、すぐに北見方面本部内でタイヤ痕ごとチェックできるな」

と倉野は満足そうに言った。多少の希望が出て来たので、会議が始まる前よりは捜査員達の表情は明るくなっているように西田には感じたが、直接の部下の小村、吉村、澤田、黒須、大場の5名はなんだか浮かない様子に見え、疲れもあるのだろうと心配になった。まだ経験もそれほどない若手が大半だ。今は西田の配下ではなく、捜査本部の配下であり、組んでいるのも北見方面本部などの部外先輩刑事である。身体的な疲労だけではなく、気苦労もあるだろう。だが、この経験はこれ以降の刑事人生の糧になるはずだ。

「もうしばらくの我慢だ」

と心の中で呟く西田であった。


 そうこうしているうちに槇田副本部長の訓辞で捜査会議は終わり、刑事達はざわざわと会議室を出た。西田は主任の竹下と他の5名及び組んでいる北村を呼び止め、夕食と飲みに誘うことにした。普段なら、西田が奢る時は自分の行きつけの焼き鳥屋に連れて行くのだが、この日は吉村のたっての希望で、彼が事件について2つのヒントを得てきた、例の「大将」がやっている小料理居酒屋に出かけることになった。ただ、北村は車で北見から通ってきているため、彼だけは飲めないのが気の毒だ。


 吉村の先導で一行は店に徒歩で向かうと、町の小さな歓楽街ではなくちょっと外れた場所にあった。遠軽に来て3ヶ月程度の西田にとっては、馴染みのない場所なのも仕方なかった。大場と黒須は一緒に来たことが何度かあるらしい。


「いらっしゃい! おっ! よっちゃんに大馬鹿に黒べえじゃねえか。ここんとこ来なかったけど、珍しく捜査で忙しかったみたいだな。あはははは」

「小料理居酒屋 湧泉」と記された暖簾をくぐると、刈り込まれた頭にねじりはちまきをした50代半ばぐらいに見える、それでいながら風体に似合わない鼻筋の通った端正な顔立ちをした男性の、威勢の良い声と笑い声が響いた。吉村、大庭、黒須の3人が、それぞれこの店では「よっちゃん」「大馬鹿」「黒べえ」と呼ばれていることを知って、竹下が笑いをこらえている。

「大将ご無沙汰。冗談抜きで色々忙しくてさあ! 今日は、噂の西田係長が奢ってくれるって言うんで、ストレス解消にみんな連れてきたから、いつものように美味いもん食わせてあげてよ」

吉村が笑顔で大将に返した。

「噂の新任上司の奢りかい? そりゃ良かったなよっちゃん。美味いもんなら任せとけ! さあさあ、そこに座って!」

言われるままに隅の二卓に席をとって座ると、西田は店内を見回した。かなり年季の入った店のようで、壁などは油のシミで薄茶色になっていたが、それ以外は小綺麗にしているのが窺え、悪い感じはしなかった。壁にかかっている、達筆な手書きのお品書きを見る限り、かなりリーズナブルな店のようで、自分を含め総勢8名の食事代について財布の中身の心配をする必要は全く無さそうだ。


「大将、今日のお奨めは?」

吉村が「取り敢えず」で出されたビールを口にしながら言った。

「そうだなあ……、さっき佐呂間にいる従兄弟から送ってきた北海シマエビの刺身なんかどうだべ?」

「北海シマエビって言ったら、根室の方の野付半島じゃないんですか?」

竹下がやんわりと疑問を呈したが、西田も同じ疑問を持っていた。

「あんまり有名じゃないんだが、サロマ湖でも7月から8月まで漁してんだよ! 野付産に負けないぐらい美味い! その上うちは従兄弟が漁師してて、漁協で役員もやってるもんで、普通なら浜茹でしてる奴を鮮度の良いまま調達して生で持ってきてもらってるから、特においしいよ!」

サロマ湖でも北海シマエビが獲れるということは、西田も初めて知ったことだった。実際出された刺身は、以前食べた野付半島のそれに負けない味だった。その後も続々と大将自慢の海の幸、山の幸の料理が出され、酒以上に料理に舌鼓を打つ8人。飲めない北村も十分満足しているようで西田も助かった。


 しかし、さすがに時間も経ってそれなりに酒が入ってくると、徐々に捜査でのストレスについて愚痴も出てくるようになった。西田と北村の組、竹下以外は、相手が方面本部の「上」の刑事と組んでいるので、警察という典型的上意下達の組織とは言え、アットホームな要素もある遠軽署の刑事同士よりギスギスした関係性になるのは仕方ない。まして殺人事件の捜査であるから、方面本部組は緊張感も当然普段より高い。また、捜査が思うように進まない部分も多いので、そういう意味での焦燥感もある。そういう部分が遠軽組の若手刑事にはプレッシャーになっているのだろう。西田も、

「気持ちはわかるが我慢してくれ」

と言わざるを得なかった。方面本部応援組でありながら、「下」の立場で西田と組んでいる北村も不満はあるのだろうが、さすがに相棒の西田が目の前にいる以上、文句を言える環境にはなかったようで、その点も西田は少々気の毒に思った。竹下は唯一、他所轄署よそのしょかつからの応援である向坂と組んでいたが、特に不満はないと語った。向坂の経験を聞いて勉強になることの方が多いようだ。


 そのままグダグダ皆で言い合っていると午後9時近くになり、北見に帰宅する必要のある北村は、西田に奢って貰った礼を言うと店を出た。酒に弱い大場は既に酔いつぶれ気味であり、明日の捜査のことも考え、10時には散会しないといけないと西田は思い始めていた。


 一方、店も常連が続々と帰宅し、7人以外の客がいなくなった。大将も料理を造る頻度が減り暇になったせいか、愚痴の言い合いが終わってから部下同士のたわいもない話に移り、それに適当に相づちを打っている西田に話しかけてきた。

「係長の西田さんだっけ? 遠軽にも慣れたかい?」

「おかげさんでかなり馴れましたよ。結婚してからしばらく振りの独身貴族気分を味わってます」

「単身赴任なのかい? そりゃ色々大変だべさ? 特に食事なんかはさ。うちは野菜なんかの料理も結構あるから、うちに来て食べたら栄養バランスもとれるよ」

大将のセールストークの上手さに

「今日はうまいもんを食べさせてもらったので、今度から来れる時は来ますよ。まあ当分は捜査で忙しいと思うけど……」

と返す西田。そして、

「ああ、それから今回の事件では、大将のところから出た情報で結構助かってますよ。あれがなかったら、捜査もここまで来てないはず」

と付け加えた。

「そうかい? だったらいいんだけどね。話をチラッと横から聞いている分には、今回は殺人事件だから捜査も大変みたいだな」

と大将は言った。

「まあ、自分も刑事人生でこれまで4回、今回で5回しか殺人の捜査経験ないんでわかったようなことは言いたくはないですけど」

そう前置くと、

「すぐに解決するものはするけど、一度ドツボの嵌るとなかなか抜け出せないんですわ。で今回がそのドツボになるかもしれない……」

と返した。

「ふーん。俺は料理しか出来ねえから、刑事さん方の苦労はわかんねえんで、何にも気の利いたことは言えねえな」

大将はそう言うと、頭のねじりはちまきを取ってカウンターに置きながら、カウンターにあった椅子を引き出してテーブルの脇に座った。


「ところで、大将はこの店出して長いんですかね?」

西田の正面で、黙って会話を聞いていた竹下が頃合いを計ったように、話に割って入ってきた。

「主任の竹下さんだっけ? そうだな、昭和41年にこの店出したから、ええっと」

「昭和41年は1966年ですから、今年で28年ですね」

頭の回転の速い竹下が助け船を出した。

「おお、そうか! 再来年でもう30年か。あっという間だったような長かったような」

感慨深げに大将は言った。そして、

「中学出てから網走の小料理屋で10年修行して、そこから佐呂間の旅館の板場に入って金を貯め、ようやく一国一城の主になれた。小さい店だが俺にとっては人生そのものだ。わかるべや? 俺の気持ちが刑事さんにも」

と言いながら、大将はカウンターにあった日本酒の瓶を取ると、

「当然俺の奢りだから飲んでくれ」

と言って卓上の西田と竹下の猪口にトクトクと注いだ。西田と竹下は大将に向かってそれぞれ軽く礼をすると一気にそれを飲み干した。今度は西田が猪口を振って大将に差し出し、そこに酒を注ぎ返しながら、

「大将は元々遠軽の人なの?」

と西田が聞くと、

「いや生まれは遠軽らしいが、小さい時まで育ったのは湧別ゆうべつだ。それでこの店の『湧泉』ってのは、俺の名前の『いずみ』と育った湧別の『湧』をくつけて、『泉が湧くように商売が繁盛する』って願いを込めて付けたんだ。あ、そんなに繁盛してないと思ってるんだべ? まあその通りだ。ははははは」

と言って豪快に笑ったが、すぐに真顔になって身の上話を続けた。それにしても、大将の名前が、この年代には珍しい、やや女性っぽい「泉」であることは意外だった。


「オヤジが戦時中に事故で死んだりして、国民学校の途中からお袋の実家がある遠軽に再び移ってきたんだわ……。オヤジとお袋はオヤジが遠軽で働いていた頃出会ったけど、それ以降の死別するまでの生活の大半は湧別だった……。オヤジの兄弟、まあ俺の伯父さん達は『こっちにいたら』と言ってくれたらしいけどよ。戦中、戦後とお袋が頑張って育ててくれた。まあその伯父さん達や親族が漁師だったり、実家が農業やってたりしたんで、食い物にはあんまり困らなかったが、実家には金もなかったから、ガキの頃は金銭面で生活は色々大変だったんだわ……。まあ一番大変なのはお袋だったのは間違いないけどよ……」

と、しみじみ語った。


 実家とは言え、貧乏なところに「出戻り」の形で帰れば、子供ながら、当時は必要のない気苦労もしたのだろうと、西田は思いやった。

「事故ですか、そいつは大変だ。漁師なんかやってるとそういう大変な部分がありますよね」

竹下が言う。

「いや、うちの親父の実家は漁師一家だけどよ、親父は漁師じゃないんだ。だから海難じゃないんだよ」

大将は即座に否定してみせた。言われてみれば、遠軽に海はないから、漁師なら遠軽にいたことなどはないだろう。

「戦時中だけど、交通事故?」

西田も予想が外れたので聞き返した。

「あの時代だもの。湧別に交通事故が起こるほど車なんて走ってねえべや? 爆発だよ爆発事故!」

大将の口から出た言葉は、想定外の言葉だった。

「爆発事故?戦時中だから爆弾絡みかな?」

竹下が言った。

「当たらずとも遠からずだ。機雷だ……。勿論あの時分はガキだったから、機雷と爆弾の区別なんて付いてなかったけどよ」

大将はそう言い捨てると、手酌で酒を猪口に注いだ。

「機雷ねえ……。まさに戦時中って感じの話だな」

竹下は自分の猪口に視線を落としたまま言った

「西田さんも竹下さんも、湧別の機雷事故って聞いたこと無いかい?」

「いや、恥ずかしながら初めて聞いたよ」

西田は首を捻ってそう返した。


※※※※※※※


 湧別機雷事故とは、1942年(昭和17年)、現・湧別町・当時・下湧別しもゆうべつ村において起きた、漂着機雷の処理時に発生した爆発による事故である。106名が即死。怪我が原因のその後の死者も含めると、延べ112名が死亡。また、負傷者も同数の112名とい う、今では地元でも知る人が少なくなってしまったが、かなり大きな被害を引き起こした爆発事故である。


 経緯は、その年の5月に、村内の海岸に相次いで2個の機雷が漂着したことに始まる。機雷がどの国のものかについては諸説あり、未だに特定は出来ていない。当然村は大騒ぎになり、村内の駐在所から管轄署である、当時の遠軽警察署に連絡が入った。遠軽署ではこの連絡を受けて、安全な場所での処理、戦意高揚も兼ねて浜での爆破処理をすることを決定。


 そして運命の5月26日を迎える。2個の機雷は前日までに浜に並べられていた。爆破処理が行われることは周辺市町村にも伝わっており、千人以上の見物客が押しかける騒ぎとなった。そして昼前に、誘爆の危険性を考慮し、1つの機雷をもう一方から離す作業をすることになった。だが皮肉なことに、その作業中に突然機雷が爆発。浜はバラバラになった遺体や鮮血で地獄絵図となったのである。


 この事故により一般の見学者は勿論、作業に関わっていた、あるいは監視していた警防団(現在の消防団に該当)や遠軽警察署員も多数亡くなった。陣頭指揮を取っていた当時の遠軽警察署長の千葉氏も殉職。行政面に置いても大きな被害となった。


 参考資料リンク

http://itokhotsk.iobb.net/ganbo/tyousi/tian/tian.htm

(第2節遠軽警察署 参照)

http://www.phoenix-c.or.jp/~ryousi/sub124.htm#2

(ページ下部 悲惨!機雷爆発事故 参照)

http://www.phoenix-c.or.jp/~ryousi/sub167.htm#6

(ページ下部 浮遊機雷爆発の大惨事 参照)


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「地元の人じゃないと知らないのは仕方ないか……。あん時は俺も国民学校の教師に連れられて見学に行ったんだが、危うく巻き込まれるところだったんだわ。それで『助かった』と思って家に帰ったら、まさかオヤジが巻き込まれてるとは思わなかった。爆発だから遺体もまともなもんじゃなかったらしくてな……。木っ端微塵になった人なんかは、警防団の法被はっぴの切れ端なんかしか残らなかったとか……。うちのお袋も葬儀が終わってもしばらく呆然としてたわ……。結局100人ぐらい亡くなってたから、友達の親兄弟にも多数犠牲者がでて、しばらく町から笑いが消えたって話だ。そう言えば、みんなの遠軽署の当時の署長さんも死んでたな……」

飲み干した猪口に再び酒を追加する大将。

「当時のうちの署長も巻き込まれてるんですか?」

竹下も驚いたようだ。酔いつぶれていた大場はともかく、いつの間にか小村、吉村、澤田、黒須も自分達の話を止めて、こちらの話に耳を傾けていた。酔って少々目つきが座り始めてはいたが、真剣な話になっていたのを察知したらしく、妙に神妙な顔つきになっていた。大将はそれに気付いたか、

「すっかり辛気くさい話になって悪かったな。お詫びにサービスで酒の肴とビール一本追加しよう。肴はイカのぽっぽ焼きでいいべか?」

と言うと、席を立って厨房に戻ろうとしたが、その前に

「おっと、忘れるところだった……」

と呟き、入り口の暖簾を下ろした。そして、その後は西田達と肴で一杯やりながら世間話をした。午後十時も過ぎると、足下がふらつく大場を吉村に任せて散会し、西田も明日に備えて急ぎ足でアパートに戻った。


※※※※※※※


 翌日からのローラー作戦は、北見地区の残りと遠軽署所轄である生田原以北の購読リストを洗うというラストスパートに入っていた。さすがに北見の零細新聞社だけに、所轄内の購読者は、遠軽、生田原、佐呂間、湧別、上湧別(合併により現在は湧別町)、丸瀬布(合併により現在は遠軽町)に、それなりに多かった遠軽を除くとそれぞれ数軒だけだった。昨日の「湧泉」も勿論リストに入っていた。所轄内の聞き込みは丸1日あれば済むだろう。


 遠軽署のメンバーが参加している組は「土地鑑(勘)」があるということで、全組、所轄管轄内の聞き込みに回った。西田と北村は湧別、と上湧別、佐呂間を回ることになった。3町も担当になったが、聞き込み件数は全部で十軒と七つの店舗・会社と、二人で十分足りるものだった。


 まず上湧別の個人宅三軒を回り、その後湧別町の1軒と1社・1店舗を回った。そして午後12時を過ぎたので、取り敢えずコンビニを見つけて昼食の弁当を購入。初夏の日射しの中、車の中で食べるのも暑苦しいということで、海岸に車を駐め外で食べることにした。その浜は「ポント浜」と呼ばれているようだった。二人は護岸に腰掛けて弁当を食べた。心地よい海風が頬を軽く撫でるように吹く。


「いやあ気持ちいいですね。清涼感みたいなのを感じます」

北村が両手を挙げて上半身を伸ばしながら言った。

「もう7月だからな。これから盆にかけてドンドン夏らしくなるぞ」

西田は缶のお茶を飲みながら答えた。北村はしばらく海を見ていたがふいに、

「さっきから思ってるんですけど、あれなんですかね?」

と西田に尋ねた。西田もここに来てから実はかなり前から気になっていたが、二人から100m程離れた場所になにやら低い塔のような構造物が見えていた。

「なんだろうな、ちょっと行ってみるか」

食べ終わった弁当をコンビニのビニールにまとめると、二人はその構造物に向かって歩を進めた。

「なんかのオブジェとか、芸術作品みたいに思ってましたけど、違うみたいです」

小走りして先に着いていた北村が西田に言いかけたところで、石碑を凝視したまま黙った。

「どうした?」

「西田係長、これなんか事故が昔あったみたいですね。ちょっと読んでみてください」

北村が指している石碑を西田が言われるままに読むと、そこには「機雷殉難の塔」の文字と共に、昨日、大将が話していたのと同じ概要が刻まれていた。

(参考資料

https://plus.google.com/photos/101418962731859284958/albums/5066189537522549617)


碑文を読み終えた西田は、

「あの話は間違いなくこれだ! こんな場所で破裂したんだな。それにしても話を聞いた直後にこれと出会うとは、何てタイミングの良さなんだろうな」

と一人呟き納得していた。しかしすぐに、横にいる北村の不可解そうな顔を見て思い出した。

「そうか、大将の話を聞く前に帰ったんだったな」

確かに北村は大将と西田達の会話を聞いてはいなかったので、ピンと来ないのも仕方なかった。西田は大将の父親がこの事故で亡くなったということを、たまたま北村の帰宅後、彼から聞いたと説明した。北村もそれを聞き、

「また随分タイミングが合いましたね」

と言いながら塔を上から下までじっくり眺めていた。その様子を見ていた西田は、視点を移し、周囲を見渡してみた。相変わらず風は吹いているが、海はいでいた。この風光明媚で静かな浜が血で染まったとは、今の光景からは想像できないでいた。オホーツクブルーの海の色もまた、尚更対照的な血の色を思わせないことに成功していたかもしれない。


「この塔と碑は一昨年、爆発事故50年を契機に建てられたんですねえ。今年で52年目ですか。まさに昭和は遠くなりにけりって奴ですか……」

北村の最後の言葉は、西田より年下の人間が到底口にするような言葉ではなく、ともすると上滑りするような類のものだったが、この時ばかりは特段違和感なく耳に入ってきたのは、西田が感慨に耽っていたからかもしれない。二人は数分その場にたたずんでいたが、残りの聞き込みをする必要もあり、塔に向かって一礼すると、その場を後にして車に戻った。


 その後湧別の残り3軒と2店舗、佐呂間での3軒と2社・1店舗での聞き込みを、相手の好意的な態度もあり順調に終えた。特段怪しむべき情報もなく、タイヤも個人の1件について、似たようなものがあったので採取しただけだった。ある程度予想はしていたので、特に失望はなかったが、この作戦がなんら進展なく終わると、現時点ではNシステム絡み以外の新しい捜査手法が思いつかず、それすら失敗すれば捜査が再び袋小路に入るだけに、次の一手をどうするかで頭が一杯になりつつある西田であった。せめてもの救いは、今日1日オホーツク沿岸の美しい風景を見る時間が多かったことで、多少癒された点だろうか。


※※※※※※※


 2人が夕方、捜査本部に戻ると、いよいよ明日で作戦工程が全て完了するだけに、捜査本部も殺伐とした雰囲気を出していた。他の捜査員もまた、今日も成果を出せなかったことは、詳しい情報を聞かずともよく西田と北村に伝わってきた。

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