第105話 名実14 (32~33)
出張所を後にして、何とか14時前の釜石行きの列車に滑りこむことに成功した西田と吉村。もしこれを逃すと、本数の少ないローカル線で、夕方まで足止めを食らうことになり、危ないところだった。勿論、それは遠軽でも同じことだったが……。乗客も少ない車中ということもあり、周囲を気にせず自然と捜査の話になった。
「桑野欣也の母トキコの実家も、同様に網元だった話は驚きでした。しかし、おそらく姉妹であろうトキコとマチコ、片方のマチコはそのまま小野寺家に残り、婿を取ったんですから、そちらが家督を継いだということなんですかね?」
「その認識で良いじゃないかな? さっきもらった謄本の写しには、マチコは明治26年生まれとあった。確かトキコの方は、謄本では明治28年生まれだったはず。他に兄弟姉妹がいたかどうかはともかく、マチコがトキコより姉で家を継ぎ、トキコは同じ網元の桑野家へと嫁いだ。こういう認識でいいと思う」
西田はそう言うと、写しをもう一度確認した。
「そして、マチコの方の息子が道利。大正7年の7月生まれ。これが桑野欣也のおそらく従兄弟にあたるわけだが、昭和17年の5月に亡くなってるな」
「戦死ですかね?」
「当時の年齢として、西暦で言うと……、1918年生まれの1942年死亡だから……24歳か。可能性は十分にあるな」
西田がそう頷くと、
「大島海路の実体の方は、戦争に行かなかったことは間違いなさそうですが、桑野欣也自体はどうだったんでしょうね……。桑野と大島が別人だという前提であれば、おそらく戦争には行ったんじゃないかと、年齢から考えても」
と、吉村が従兄弟の桑野に言及した。
「桑野も年齢的には戦争に行っていて全く不思議はないし、その可能性は高いだろうなあ」
「そして、桑野は戦後、小樽の佐田家に伊坂と共に現れたわけですから、戦争を生き抜いたってことになりますね。道利が戦死したとすれば、同じ従兄弟でも明暗がくっきりと別れちゃってます。運命ってのは、ホント個人の意思じゃどうしようもないところがあります……」
吉村はやけに実感がこもった言い方をした。
※※※※※※※
本日のこれからの予定では、宮古にいる天井老人の家を訪問し、旧制二高の寮の集合写真を見せて確認し、そのまま宮古で宿泊するつもりだった。翌日は、桑野の故郷である田老町(現・宮古市田老地区)を訪ねてから帰路につく予定だった。
2人は釜石で、南リアス線からJR山田線へと乗り換え宮古駅に着いた。そこから市内の天井宅まではタクシーに乗り、10分程で到着した。
天井は85歳ということで、若干足腰が弱っている様子があり、杖を室内でもついていたものの、頭の方は全く問題ないようだった。妻との二人暮らしだが、言葉遣いは、西田達相手ということもあるのだろうが標準語だった。聞けば、旧制釜石二中を卒業後、一度釜石の製鉄所で事務員として就職した後、召集を受けたものの、運良く終戦を迎えた。復員してから一念発起し、働きながら地元の定時制高校を卒業し、東京の私立大学の夜間部を卒業。横浜で商社に勤務し、定年を機に帰郷したそうだ。そのせいで、基本的に標準語にも慣れていたようだ。妻も埼玉の出身ということで、こちらも言葉は標準語だった。また大変物腰の柔らかい、西田ら警察官とは相反するタイプの人物であった。
西田と吉村は、写真を確認して貰う前に、まず天井による桑野欣也という人物の当時の話を聞くことにした。
「我々が持っている情報では、大変頭が良くて人望もある人物だったという話がありますが、実際のところ、天井さんから見てどのような方だったんでしょうか?」
西田の質問に、
「刑事さんの仰るとおりですよ。高垣さんからも聞いてるでしょうが、旧制中学が5年制のところを4年で飛び級卒業して、仙台の旧二高に行ったぐらいですから、二中でもトップクラスだったことは間違いない。私と桑野先輩は同じ水泳部で一緒でした。頭脳明晰というだけでなく、大変面倒見の良い先輩でしたよ。今で言うと175センチ以上はある背丈で、体格も当時としてはかなりの恵体だったと思います。水泳も漁師の息子だからかなりの泳力でした。県内大会でも、トップと言う程ではないにせよ、かなり上位だった記憶があるなあ」
と答えた。
「文武両道、人格も良いとなると完璧ですね」
「まあそうなるのかな。ただ、当時としては、不良生徒だった側面もあったかもしれません」
吉村の感想に、気になる言葉で返したので、西田はそこに突っ込んだ。
「今までのお話と不良というのが結びつかないんですが、一体どういうことですか?」
「今となっては別に問題でもなんでもないんだが、当時としては思想的に危険だった……、いや危険と言っても過激派ではなかったが、社会主義思想みたいなものに惹かれていたようなところがありましてね……」
天井はしばらくタバコを燻らせると、ゆっくりと煙を吐いた
「なるほど。治安維持法なんかもありましたから、危険思想と見なされてもおかしくはない」
「だから先輩もおおっぴらに公言はしてなかったし、目をつけられないように気を付けていたように思いますよ。そっち系統の本を英語やドイツ語の原語で、下宿なんかで隠れて読み漁ってたようです。元が優秀だったし、網元の実家からもそれなりに援助は受けてたようだから。ご本人が言うには、零細網元という話だったけれども、それでも網元は網元。地元の小作、貧農や小舟1
「え? 旧制とは言え、中学生でドイツ語の本を読みこなすだけの語学力があったんですか!?」
驚いた吉村が確認するも、
「一応当時の旧制中学は、正規の授業で英語の他にフランス語やドイツ語もやってたんですよ。特に釜石二中は、外国語教育の質の高さでこの岩手じゃ有名でね。一般的には、より有名な釜石一中、宮古中じゃなくて、二中に来るのはそういう目的の生徒も多かったんですよ」
と事も無げに答えた。事実として、旧制中学のカリキュラムでは、その3言語が普通に取り入れられていたようだ。そういう連中の中で、更にトップクラスの学力なのだから、いくら片田舎の旧制中学とは言え、確かにインテリ中のインテリなのは間違いない。
「しかし、当時そんな恵まれた状況の人間が、社会主義や共産主義に目覚めるもんですかねえ……」
西田は理解できないという風な言い方をしたが、それに対し、
「それは失礼だが、見方が少し浅いですな。それなりに裕福で優秀であるからこそ、周りの困窮した人間を見ると、罪悪感を抱き、社会の矛盾を考えざるを得なくなることもあるんです。まして優しい人であればこそ……。特に東北北部は、当時日本でも特に貧しい地域だった上に、世界恐慌や大飢饉に見舞われたら尚更でしょうな……。ウチも
天井は、そう一言一言を噛みしめるように言った。昔を知る地元の人間故、そして体験してきた本人そのもの故の重い言葉だった。2人もそれを黙って聞いていた。
※※※※※※※
因みに余談であるが、当時の旧制中学の全体の入学者のうち、全国的に3分の1弱は、おそらく学費を払えずに中途退学していたというから驚きである。しかし、当時の政府の「見方」は非常に冷淡であった。以下、1929年12月10日の読売新聞記事中における、当時の文部省役人の言葉である(作者注・ウィキペディアよりの抜粋のため、本当に当時の読売の記事にあったかは確認しておりません)。
「半途退学者の中にはその他の事由によるというのが約3分の1近くを占めている。この中には落第して原級に留まっている者も多少含まれているが、然しこの大多数は一定の方針もなく只漫然と入学した者で、父兄にその責任がある。もし世の父兄の考えがもっと着実になって、出鱈目な入学に目覚め、半途退学者の数を減らすことが出来たなら、今日の試験地獄は著しく緩和されるであろう」
まさに今日の「新自由主義」の源流となる、「官僚という上位階層」による自己責任論に基づく考えと、遥か時代を超え共通しているところが興味深い。しかし、そのような時代故に、社会の身近な貧困等の問題を意識して成長したインテリ層も、反面少数だが居たのだろう。
またそれの1つの実例として以下の事例を挙げておく。
日本において、旧社会党から選出された総理大臣は、片山哲、村山富市の2名であるが、社会党出身という枠組みで捉えると実は3名になる。その新たに加わる名前が、「鈴木善幸」であることを知る人は、今や少ない。当然のことながら、鈴木は自由民主党の総裁として第70代内閣総理大臣の地位に就いたが、戦後初めて国会議員になった当初は、当時の社会党の議員であった。その後自民党の前身である民主自由党に入り、1955年の保守合同(民主自由党と日本民主党による保守政権の合併。いわゆる「55年体制」の1つの動き)により自民党議員となった経緯があった。
鈴木は、岩手県の三陸沿岸にある山田町(JR山田線の名前の由来でもある)の網元の家の出で、水産学校から今の東京海洋大学(旧東京水産大学と東京商船大学の合併により誕生)の前身である「水産講習所」を卒業し、漁協などを経て国会議員になっていた。
戦前の水産講習所時代に、弁論大会において「網元制度の前近代性」を問題視する演説を行う(それによりいわゆる「アカ」扱いを受けたこともあったようだ)など、網元出身故の階級社会的な問題認識が非常に強かったと推測されている。それが戦後社会党から立候補したことにもつながっていると思われる。また、首相就任後もハト派路線で、対米・安保同盟関係において問題発言を行い、対米関係が一時悪化するなど、やや自民党の従来型の保守政治家としては異質な存在であった(但し、当時の保守本流と言われた、鈴木も所属した宏池会は、基本的に対米従属型ではあるが、吉田茂以来のハト派色が強い派閥でもあった。よって派閥全体としてみれば、それほど鈴木が異質な主張をしていたというわけでもなかった。事実、後の首相である、戦時中の官僚で反戦主義者だった宮沢喜一も、鈴木内閣に入閣していたこともあったが、鈴木を擁護するような発言をしていた)ことも、こういう戦前からの思想背景が原因としてあった可能性が高い。
※※※※※※※
「それで、桑野欣也が、仙台の旧制二高へと進学した後は、疎遠になったということでしたが?」
吉村が、黙っている西田に代わり話題を転換した。
「そういうことになるかな……。実家も田老だから、中学のある釜石とはかなり離れていたし。ただ、夏休みだったか、桑野先輩が水泳部の様子を見に来た時に、顔を合わせて話した記憶がありますよ。元気そうでしたね。高校は面白いか聞いたら、熱心に進学を進めてくれたように思います。目が輝いていたと思います」
「その時が、1932年の夏、つまり昭和……」
西田がそう口ごもると、
「昭和7年の8月ですね。ここの換算は面倒だから」
と、笑顔で面倒な西暦と元号の変換を代わってくれた。
「どうもすみません。それで、その昭和7年以来、桑野氏を見ることはなかったということでよろしいですか?」
「そう、それが最後だったと思いますよ。何せ実家が田老で、破滅的な状態だったようだから、ひょっとしたら地元に戻っていて被災したんじゃないかと考えたこともありましたよ。しかし、何せ、津波依然から東北は飢饉が続いていて、こちらも生きるのに精一杯でね……。残念ながらあれ以来そのままということですよ」
高齢の老人は、当時を思い出したか、しばし目を閉じた。
「津波の後、確実かどうかはともかく、地元・田老での目撃情報があったようですし、色々なことから勘案すると、巻き込まれたということはないと考えています。実家は壊滅し、田老に居た親族はおそらく全員死んだと思われますが……。ただ、その後1941年、昭和16年までの足取りはよくわからないんです。戸籍上はまだ生存しています」
「あ、その後の生存情報があるとは、高垣さんから聞いてはいましたが、昭和16年まではわかってるんですか? 何か、民友党の大島海路だったかの写真を取り出して、『この人に面影が似たような人じゃなかったか?』とか、わけのわからないことを言われたんですが……」
吉村の発言に対しての反応から、核心部分については、高垣本人から聞いていた通り、余り詳しいことは言わなかったと確認出来た。警察に対して、余り捜査情報を撒き散らかさないようにという、彼なりの配慮があったのかもしれない。直接会っている時には、そういう遠慮の類は感じさせない人物だったが……。
「そうです。北海道は北見の近くの生田原というところで、砂金掘りに従事していたと、こちらでは確認しています」
「砂金……掘りですか? またどうしてそんなことをしていたんだろう……。二高を津波の影響などで退学していたとしても、あの人なら代用教員の口ぐらい幾らでもあったろうに……」
天井は、西田の言ったことがさっぱりわからないという感じで首を何度も捻っていた。
「やっぱり信じられませんか? 当時は大恐慌なんかも重なって大変だったようですが?」
その様子を見た西田がそう尋ねると、
「あれだけのレベルの人ですから、そういう時代とは言え、本気になれば経済的に困窮していても、色々働き口はあったはず……」
と言いかけて、
「……でも、よくよく考えれみれば、そういったことはあり得なくもないかもなあ……」
と述懐した。
「それはどういうことですか?」
「西田さん、さっきの話にも繋がってくるんですよ。社会主義だの共産主義だの。つまり、社会的な上位層こそ、底辺にあえぐ人達と共に歩まなくてならないというようなことを、桑野さんが何度か当時口にしていたように、記憶が確かなら思うんですよ。ひょっとしたらその意識の下で、そういう世界に、わざわざ自分から飛び込んだのかもしれない。あくまで自分の勘ぐり過ぎかもしれないが」
「なるほど。社会主義運動の一種の『実践』としてですか……」
2人は老人の推理に一定の理解を示した。
「取り敢えず、桑野欣也氏の人となり、当時の様子については、お話を伺ってある程度わかりましたし、我々の捜査情報と重なる部分が多いと確認できました。それでですね、高垣さんからも、今回事前にお話を聞いているとは思いますが……」
そう言うと、吉村に4枚の写真を取り出させた。昭和7年から昭和10年までの4月の聡明寮の入寮者の集合写真である。本来なら、昭和7年分だけでも良いかと思ったが、念のため4枚持ってきていた。
「この写真の中に、桑野欣也氏が写り込んでいないか、確認していただきたいんです」
「あ、これですか……。確かに話は聞いてますよ。えっとちょっと待ってくださいよ……、メガネを」
天井は、吉村に差し出された写真を見ながらそう言うと、老眼鏡を探した。
「あ、あったあった……。さて、じゃあ拝見させていただこうかな」
再び座卓の前に座ると、4枚の写真を確認しはじめた。その間8分程だったが、西田達は黙って見ている他なかったこともあり、やけに長い時間に感じた。吉村はチラチラと腕時計を数度確認しているのがわかった。
「残念ながらどこにも桑野さんは見えないですね」
天井は写真から顔をゆっくりと上げると、2人にそう断言した。
「間違いありませんか?」
結論が変わらないとわかってはいたが、やはり確認しておかざるを得ない。
「西田さん間違いない。この中には桑野先輩は居ないですよ」
「わかりました。そうですか……。そうそう上手くいくとは思ってもいなかったですが、正直な話残念です」
西田は、確認後はすぐに引き下がり、吉村に写真を手渡して仕舞わせた。
「後、もし良ければ、この筆跡が桑野氏のものかわかりますか?」
西田はそう言うと、自らのポケットから、証文に書かれていた、桑野欣也の名前の部分のコピーを取り出し、座卓の上に置いた。
「これが桑野先輩の自筆かどうかということで?」
「ええ」
「いや、申し訳ないが、さすがにどんな字を書いていたかまでの記憶ははっきりとはない。ただ、割と字は上手かったような気がするが、この字にはそういうモノは感じないなあ。むしろ下手な感じすらしますよ」
天井は苦笑したが、筆跡からの「鑑定」については、案の定「はっきりしない」というところだった。西田は元々期待はしていなかったこともあり、すぐにそれをポケットに戻した。
「ところで、高垣さんからも余りはっきりした回答は得られてないんだが、桑野先輩はなにか警察沙汰になるようなことをしていたんですか? まあ、そもそも時効が絡んでくるような話にしか思えなくて、今更警察が探る意味もわからないんだが……」
西田が仕舞ったポケットから手を抜くのと同時に、天井が当然抱くであろう疑問をぶつけてきた。これだけ昔のことを、北海道の警察が執拗に聞いてくるのだから、何かあったかと思うのは自然なことだ。
「これだけ協力していただいたわけですから、捜査情報とは言え、ある程度お話させていただくのは当然ですので……」
西田はそう前置きすると、
「この桑野氏の戦前のはっきりしない足取りが、現在捜査中のある重大事件の本質へと、
と伝えた。
「つまり、やはり何かの容疑者ということではない?」
「それは何とも言えません。ひょっとしたら被疑者かもしれませんが、現状むしろ被害者であると考えています。これ以上は勘弁してください」
「ある程度」と言いながら、かなりボカした発言になったように西田は思っていたが、これをわかり易く説明しようとすれば、「ある程度」では済まないことも事実だ。我慢してもらうしかない。
「正直ピンとは来ないが、確かに遠路はるばるこれだけのためにやってこられたんだ、何か大きな事件に関係しているんでしょう。ただこれだけは言える。あの人は大きな悪事をやらかすような人ではないと思いますよ。根っこからの善人です!」
天井は老眼鏡を座卓に物音させずにゆっくりと置くと、一方で、2人にはピシャっとはっきりとした口調で断言した。
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