名実 繋がった表の「名」と裏の「実」

再び北見へ

第92話 名実1 (1~2)

 札幌の自宅マンションの居間で、西田は年賀状に目を通していた。妻の由香が、朝食べたおせち料理の他に、スモークサーモンを追加して、夫の酒の肴にしようとして動き回っているのを横目に、懐かしい名前が出て来たのを確認した。


「お、沢井課長……。相変わらず元気そうだな。しかし、もうそういう年になったか、課長も……」

裏面に印刷された写真には、警察を退職し、故郷の芽室めむろ町に戻って、帯広周辺の警察官相手の保険の外交をしているという沢井が、ゲートボールに興じている姿が写っていた。


 沢井は、遠軽署の刑事課長を経た後、97年の春から、滝川署の刑事課長を3年務め上げた時点で早期退職していた。中規模所轄の課長職は、小規模所轄である遠軽署の後の異動という点を考慮すれば、まあまあの出世と言えた。


 そして、「隠居」先の故郷・芽室町は、何を隠そうゲートボール発祥の地だという予備知識は西田にもあった。それにしても、老人のスポーツというイメージのあるゲートボールと沢井が、西田にはしっくりと結びつかなかったのだ。


「もう明けて2002年だもんなあ」

そう呟いた通り、この日は2002年の元日だった。それにしても、前年の2001年は、西田のみならず世間的にも、印象的である大きな出来事が2つ起きていた。


 まず春先に、与党・民友党の総裁選においてそれが起こっていた。非主流派の中の派閥「志徹会」の中で、更に非主流と言える「高松 壮太郎」が、「徹底再構築」を標榜。政治不信の世論の圧倒的支持を受け、なし崩し的に総裁選に勝利し、民友党総裁に就任したことがあった。当然そのまま、日本国家の総理大臣の地位に就くことになった。


 民友党の中の力学ではなく、世論頼みという新たな軸による総裁・首相就任は、かなり大きなニュースとなり、一般ニュースのみならず、ワイドショーなども巻き込んで、一種のセンセーションとなっていた。


 そして、もう一つの大きな出来事が、9月11日に発生していた。ニューヨークの世界貿易センタービルを崩壊させた、イスラム過激派による連続航空機テロだった。4ヶ月弱程経った今も、崩壊する2つのタワーの映像は、西田の脳裏に深く刻まれていた。


 尚、年末には、九州の南西海域で、北朝鮮の工作船と見られる不審船と海上保安庁の巡視船が交戦する事件も発生。最後は不審船が自爆して自沈。最後まで落ち着かない年でもあった。


 勿論、それらのことは、単なる個人的な印象論だけでなく、多くの日本人は勿論、警察組織にも大きな影響を及ぼしていた。特に「911」直後には、地味ではあるが、警戒態勢がしばらく道警の警官の間ですら敷かれていた。21世紀の開始年にある意味ふさわしい、日本や世界にとって激動の1年だったのである。


※※※※※※※


 さて、95年末で、北見での捜査から外されてこれまでの間、西田はと言えば、それまでとは違い、実はトントン拍子に出世をしていた。


 というのも、直接の事件解決ではなかったが、本橋の事件での、本来埋められていた場所から移動していた佐田実の遺体発見が、かなり重要な犯行の裏付けとなっていたことで、道警の人事的にはかなり評価を稼いでいたからだった。


 もっとも西田だけでなく、遠軽署・刑事課・強行犯係全体にも高い評価が与えられていたのは、沢井を筆頭に他のメンバーのその後の処遇を見れば、ほぼ明らかだった。


 西田は昇進試験にも合格して、階級が警部補から警部になったこともあり、遠軽に97年3月まで居た後、すぐに道南は八雲署の刑事・生活課長としてまず迎えられた。2年後の99年には、いきなり千歳署の刑事課長にランクアップし、01年からは新設された札幌厚別署の捜査一課長として赴任していた。


 千歳署勤務からは、札幌の家族と共に暮らしていたが、40キロ超の長距離通勤はかなり辛かった。だが、札幌厚別署への転勤で、「刑事としては」ゆったりとする生活を送ることが出来ていた。もっとも、遠軽署や八雲署時代と比較すれば、圧倒的に事件が多かったので、その点は過酷だったと言えたかもしれない。


 ただ、既に西田は、この年の3月末には、再び単身赴任で北見方面本部の捜査一課・課長補佐として赴任することが内々に決まっていた。家族と別れるという意味では、気の重い側面はあったが、自分の意志も反映されて赴任する以上、気持ちが入っていたことも当然だった。


 そして、そういう流れになったのは、実は、北見方面本部で捜査一課長を6年前までしていた倉野からの、前年11月末にあった一本の電話が始まりだった。


 倉野は、明けてこの年の02年の2月を以って、道警本部・警務部長として定年退職する予定だった。しかし、その総仕上げとして、人事担当部署のトップらしく、西田に時効(作者注・当然今は時効はありません)が迫っている「佐田実殺害事件」の再捜査と、北村が殺害された、北見共立病院銃撃事件を併せて、専従捜査に当たらせる提案をしてきたのだった。


 倉野としては、佐田実殺害事件の全容解明が出来たかは、到底疑問であり、且つ7年前の事件での不完全燃焼な捜査と、西田達を擁護しきれなかったことを改めて悔いていた。この提案は、その「やり直し」をさせたかったことと、謝罪の意味があったらしい。


 電話での会話で、その点を強調して西田に詫びていた。更に銃撃事件において、事件後初めて大きな「動き」がその年(01年)の春先から出て来たことも、それを強く後押ししていた。


 ※※※※※※※


 西田達が捜査から外れた、北見共立病院銃撃殺害事件は、結局大島へと結びつくどころか、銃撃犯すら検挙出来ないまま、発生から1年後に捜査本部を縮小し、2000年には、「本格的」な専従捜査員すら皆無になるという有り様で、実質迷宮入りしていた。


 また、佐田実殺害で起訴された「殺し屋」本橋は、検察側の主張を全て認めていたため、既に死刑が確定しているということも影響したか、殺人事件としては異例のスピード裁判を受けていた。


 そして96年の1月下旬には、無期懲役判決(既に確定判決を受けていた、一連の殺人事件の最後の事件より前に犯した殺人だったため、併合罪として本来一括審理されるはずだったことにより、裁判としては、形式上前の判決の影響を受ける)を受け、本人も検察も控訴しなかったため、2月上旬には判決が確定。その後、元の大阪拘置所へと移送され、1年後の97年10月に、法務大臣の署名により、既に確定していた死刑判決を元に死刑が執行されていた。死刑確定から死刑までの期間がそう無かったのは、営利目的での殺害依頼の実行という悪質度を重く見られたかららしい。


 ただ、西田と吉村は、それだけが原因ではないと考えていた。96年の年末から、箱崎(現・梅田)派の「橋爪 富雄」を首相とする内閣が誕生し、第2次橋爪内閣改造で法務大臣に死刑積極的賛成派の「室伏 章次あきつぐ」が就任していたことがまず1つ。


 そして、この内閣改造で、航空機購入にともなう汚職事件として知られる「ロッドマン事件」で有罪が確定したことのある「才野さいの 久蔵きゅうぞう」が、総務庁(当時)長官として内閣入りしたことに世論が反発。結果として内閣支持率が急落したという2つ目の原因が、1つ目と合体して大きく影響したと見たのだ。


 つまり、箱崎派の大島に配慮し、早々に本橋を始末しようと画策した上、更に内閣支持率が一気に低下し、倒閣が早まる危険性が出て来たことから、改造内閣組閣から1か月で死刑執行となったという考えだ。この点については、電話で竹下と話した際にも、竹下から完全な同意を得ていた。


 但し、当然だが、これはあくまで推測である上、仮に事実だったとしても、どうあがいても表沙汰に出来るようなことにはならないだろうと思われた。勿論、大島達が自白でもすれば話は別だが……。


 一方、死刑の際の本橋の様子は、マスコミの報道によれば、大物犯罪者らしく、取り乱すこともない静かな執行だったという。警察内部から伝わってきた情報でも、ほぼそれと同様の情報だったので、間違いなくそのような最期を迎えていたのだろう。


 執行後は本人の希望により、医療の発展に貢献するための、「献体」に供せられることになっていた。最期は、これまで出来なかった人の役に立って死にたいという、たっての願いからだったようだ。おそらく、その思い自体に偽りはなかっただろう。


 同時に、佐田実の殺害が誰からの依頼だったか(裁判上は、本人が「指示者」だと言いはった伊坂大吉が依頼人という扱いに終始していたが)は、墓場まで持って行ってしまった形だ。男らしいと言えばらしいが、本当の意味で反省することなく死んだクズと言えば、またそれも事実だろうと西田は思っていた。


 そして、肝心の大島海路は相も変わらず、与党の大物国会議員として君臨していた。昔ほどの威光も権力も無くなってはいたが、重鎮議員として旭日章の叙勲も受けて、尚意気軒昂というところを見せていた。


 しかし、さすがに今年で87歳と言う高齢から見て、今期限りで引退するべきという世論が地元選挙区でも大勢を占めており、さすがに次はないと見られている。箱崎は既に引退して死亡していたので、箱崎派は後継の梅田が率いる梅田派へと変貌していた。大島は、その梅田派のアドバイザー的な立場に収まっていたわけだ。


 そしてもう1人、竹下から桑野欣也の進学先の調査を依頼され、西田達が捜査から外れた後も、自称「趣味と執念」と言い張り、独自に調査していた高垣真一の存在も忘れてはいけないだろう。昭和三陸大津波と戦争による混乱を挟んでいたこと、そして、何より同じ世代の年齢が80近辺ということで、普通に戦死以外の寿命などの問題により、その調査はかなり難航していた。


 実際、幾つかの沿岸地域にあった旧制中学は、津波で校舎ごと流されるなどして、当時の卒業生名簿なども流出してしまっていたのだ。該当しそうな対象年齢の当時の在校生などを、OB会などのツテで何とか探し出し、桑野について知っているか聞くなどしていたらしい。


 そんな地道な作業を、本来のジャーナリスト活動・ライター業の合間に、高垣は断続的に地道にしてくれていた。そして、とうとう97年の夏に、桑野と旧制釜石二中(作者注・小説上の架空設定。釜石中学は存在しました)で後輩だった記憶がしっかりあるという、現在岩手県の宮古市在住の天井あまいという老人をやっとのことで探し出すことに成功していた。


 その天井から、桑野欣也は仙台の旧制二高(現在の東北大学の前身)に、5年制の旧制中学を成績優秀のため、昭和7(1932)年の春、4年修了で飛び級(作者注・旧学制では、尋常小学校と旧制中学での優秀な生徒は飛び級が認められていました。ただ、尋常小学校を飛び級する人は、ほとんど皆無だったようです)で入学していたと言う証言を得ていた。この話は、これまでの桑野欣也評とピッタリ一致していた。


 そして、昭和8(1933)年の昭和三陸大津波により、天井の当時の宮古の実家も大きな被害を受けるなどして、人のことなど構っていることが出来ず、完全な音信不通になったようだ。天井も何とか中学の卒業までは出来たが、その先の進学は経済的に厳しく諦めたと語った(作者注・被災等関係なく、当時の旧制中学の授業料はかなり高く、現実問題として、経済的に払えなくなって退学する生徒が多かったというのが史実です。当時の旧制中学の大半では、中途退学者が卒業生より多いという事態は、割とよくあった事例のようです。当然、学力不足や健康の問題等も含めたものですが)。


 ただ、桑野の実家が、津波で大きな被害を受けた田老であることは、天井も承知しており、当時も心配はしていたとのこと。一方、今の大島海路が桑野欣也であった可能性について、指紋の件からないだろうと思いつつ念のため、ぼかしながらも確認すると、「全く面影がないわけではないが、同一人物ということはあり得ないだろう」と鼻で笑われたそうだ。


 しかし、その後の足取りを調べ始めたものの、旧制二高は、敗戦間近の昭和20年7月の仙台空襲により校舎が焼け(作者注・これは史実通りで、仙台市北六番丁にあった旧制二高校舎は空襲で焼失しました)てしまったこともあって、卒業生などの名簿はすべて失われていた。


 また、当時の桑野を知る可能性のあった在校生なども、こちらもOB会を通じて色々調べたものの、なかなか出てこなかった。やはり戦争による戦死、寿命が影響した可能性が高かった。ただOB会の理事からは、「ひょっとすると卒業していないのではないか?」という意見もあったらしい。事実、その点については、高垣も断定する材料を持っていなかった。


 因みに、おそらくは「偽」の桑野である後の大島海路は、東京の小柴や義母・多田桜などに、「経済的な問題で旧制中学までしか行けなかった」という身の上話を当時していたそうだ。その点は、もし桑野の旧制高校中退(あくまで現時点では「可能性」であるが)を大島自身が知っていたのであれば、それが事実だろうとも言えた。


 また、単に桑野に成り済ます意味での「旧制中学までしか行けなかった」という発言ではなく、大学まで行ける学力自体が、大島自体にあった点を考慮すれば、実際に、大島海路自身が旧制中学まで行っていた経験に基づく発言である可能性もあった。更に、その両者が共に事実だったことも、あり得ない話ではなかった。


 一方、その報告を高垣から受けたと西田に連絡してきた竹下は、皮肉にも既に警察を96年の春には退職しており、捜査にその情報が活かされることはなかった。もっとも、高垣も既に竹下が退職していたことは知っていたので、あくまで報われないことをわかった上での、自称通りの「執念」の調査だったのだろう。

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