第83話 明暗62 (251~252 向坂プラン)

 西田が黙ったまま「苦悶」の表情をしていたのを見ていた吉村は、状況を理解したか、

「まさか一致しなかったんですか?」

と確認してきた。電話をしたまま、ただ頷く仕草をしたのを見届けると、

「ここまで来てそれですか……」

と言ったきり絶句した。しかし、このまま呆然としていても仕方ないので、

「とにかく松沢の説明はよくわかった。沢井課長に替わってくれ……」

と松沢に精一杯絞りだすように言った。


「西田、残念だが、今回はそういうことだ」

課長は松沢から電話を替わるなりそう告げた。西田に言っているだけでなく、自分自身にも、何とか納得させようと努めているような、重々しい口ぶりだった。

「他の皆は大丈夫ですか?」

部下の様子を思いやった西田に、

「想像通りだよ……。さすがに……なあ」

と答えた。

「でもあれじゃないですか……。まだ高垣さんが送ってきた指紋が、本当に大島海路のモノかどうかはわからないわけですから」

「それはそうかもしれないが、信用したからこそ、こういう依頼をしたわけだろ? だとすれば、それは望み薄だと、自分で気付いてるんじゃないか?」

上司に図星を突かれた西田としては、それ以上言い訳を思いつかなかった。確かに、価値観は別にして、高垣の性格や信条を考えると、この依頼について言えば、ある程度信用して良いと確信していた。だからこそこの結末は痛い。


「とにかく、結果が出た以上は仕方ないですね……。ちょっと今は、何か具体的に考えられる状況じゃないんで……。後で遠軽に戻ってから……。あ、課長はもう帰宅してる頃か……」

「いや、俺も今日は西田達が戻るまで署に居るから、その時話そう」

「じゃあそういうことで」


 会話を終えると、どっと疲れが西田を襲った。さすがにこれまで積み上げてきた構図が崩れ去りかねない事態だけに、ショックが大きい。

「課長は何て?」

「遠軽に戻ってから話そうということになったが、今更何をどうしようって話だよなあ。何も考えられない」

「でも、高垣さんが送ってきたのが、大島のものとは限らんでしょ? 可能性は低いかもしれないですけど」

「そう言ったら、課長は、『その程度の信用性の人間に頼んだのか?』って返された。言われてみれば、信用出来ると思ったからこそだから、何も言い返せなかったよ」

「結局そうなっちゃいますよねえ……。課長は許可与えただけだから、『言わんこっちゃない』って意識があったのかも……。でも、そもそも証文の血判が、実は桑野のものじゃなかったとか言うことはあり得ないですかね?」

さっき松沢との会話でも出た、全てを根底からひっくり返すような吉村の発言だったが、

「あの血判の内、砂金の分配を受けるはずだった、伊坂、北条正人は本人分と一致してるのは確認出来てる。免出の息子の分はないからともかく、桑野がそこで別人の血判だったなんてことは、どうなんだろうな、あり得るのかな……。だったらまだ実は左手だったとか」

そう言いながら、西田は少し不機嫌になっていた。

「それもそうでしたね」

意気消沈したような吉村だったが、

「万が一、大島海路の指紋をちゃんと送ってきていたとすれば、話が本当にめちゃくちゃになって、どう考えりゃいいのか」

と改めて途方に暮れていた。

「全くその通りだ……。大島はこれまで佐田実の失踪から、捜査に大なり小なり圧力を掛けてきた。そして、本橋から葵一家と大島周辺の政治勢力の関係が浮かび上がり、どうも本橋は伊坂からではなく、大島を通じて佐田実の殺害依頼を受けていたらしいという流れになった。それに動機を解明する、北村の遺品のテープがあって、それを元にして、戸籍から大島が桑野だと確信し、竹下達がそれを具体的に補強する捜査を本州でしてくれた」

これまでの流れを羅列して述べる西田に、

「ところが今回の照合で、桑野と大島が別人の可能性が出てきたわけですよね」

と吉村が呼応した。


「問題はそこだ。確かに今の大島海路が、佐田実の殺害に大きく関与した上、北村や松島の射殺に関わったという話は、指紋の不一致とは無関係に独立してあり得るとしても、今度はそれまで明快に説明出来た動機が、かなり見えなくなってしまう。北村が取った松島の証言テープの信憑性が格段に落ちることにもなる。あの中で、伊坂は大島海路が証文の桑野欣也だったと明言してた。戸籍の変遷もそれを裏付けた。東京でも桑野が大島海路へと変貌していく過程も判明した。ところが、その桑野欣也が大島海路とは別者だとするなら、テープの中の伊坂の話は嘘になるし、そもそもが大島海路の元になった桑野欣也と、証文の桑野欣也は同姓同名の別人だということになりかねない。2人の桑野欣也による、複雑な絡み合いをどう説明していいのか、全く想像が付かない。同姓同名だとすれば、こんな偶然があり得るか!? 訳がわからない。これまで上手く描いてきた筋書きが、一本の筋にならなくなったんだからな」

目の前の吉村相手に、西田は感情的になっていたが、吉村もそれを気にする風ではなかった。それ以上に、事態が急激に悪化していることが気にかかっているようだ。


「指紋ですけど、大島海路が整形して変えたとか?」

ありがちな疑問を呈した。

「指紋は皮膚が再生する過程で、最終的に同じものになるから、生きている限りは整形しても意味が無いが、3つの指紋が直近のものなら、付け焼き刃にそういう可能性はなくもない。でも、問題はあの手形だ。あれは3年前のモノなんだろ。それを前提とする限り、継続的に常に変えた指紋と一致するように手術し続けている必要がある。常識的に考えれば、かなり厳しいはずだ」

「じゃあ、何かこう、指紋が付着するような形、油をちょっと塗るとかしておいて、無色透明な指サックのようなものをしているとか?」

「絶対ないとは言わないが、普段からそんなものを常時着用しているとは考えにくい」

西田は吉村の疑問をことごとく否定した。


 そして、しばらく立ち尽くしたままで思案に暮れる2人の前に、向坂がやってきた。

「どうだ? 結果出たか?」

そう尋ねたが、2人の落胆ぶりを見てすぐ、思うような結果が出なかったことを察したようで、

「え、ダメだったのか!? 一体どうなってんだ……」

と信じられないという素振りを隠さなかった。西田は一応、わかる限りの状況を向坂に説明した。向坂もまた、高垣の送ってきたものが大島海路のものとはまだわからないという発言をしたが、向坂自身の高垣への信用度は西田達に比較してみれば低かったにせよ、自分でもかなり都合の良い考え方であることは、内心わかっていたはずだ。

「圧力で捜査中止どころか、自分達で大島関与の疑惑を払拭することに一役買うなんて、とんだ皮肉ですよ」

西田はそう言うと力なく自嘲した。


※※※※※※※


 北見での勤務を終えて、ある意味「這々ほうほうてい」で遠軽に戻った西田と吉村は、自分達以上に力の抜けた同僚や部下の姿を目にすることになった。

「お疲れさん」

と声を掛けてきた沢井が、年長でありながら一番元気が良さそうだった。竹下はソファでのけぞるように何かを考えていた。大島の中心的関与を、最も声高に以前から主張していただけに、この結果は辛いものとなったはずだ。

「皆やられてるな……」

周囲の状況を確認しながら自分の席に着いた西田に、

「山下と松沢から、さっき精査した結果でもやはり別人ということだ。まあ指紋の種類自体が違っちゃ、覆るはずもないよな……」

と沢井が報告を入れた。西田はそれには一言も答えず、

「これから先どうしましょうか? 結果的には、自分達で捜査の幕引きをしたという始末になっちゃいましたけど……」

と聞くと、

「その高垣とか言うのに、もう一度ちゃんと指紋の入手過程について確認してみたらどうだ?」

と指示された。


「課長に言われてみりゃそれもそうだ。こっちで色々詮索したところで意味がない」

そう口にすると、自分を奮い立たせるように、すぐさま高垣に電話を掛けた。執筆活動に入っているはずで、電話に出てくれるか心配だったが、すぐに相手は出た。

「西田ですが?」

「はいはい、荷物着いただろ? それでどうだった? 照合したか?」

高垣の口調からは、当然一致しただろうという前提の下で聞いてきたようだった。

「いや、非常に言いにくいんですが……、残念ながら一致しませんでした」

そう言い終えてから、高垣が反応するまで数秒あっただろうか、そしていきなり、

「どうなってんだよ!」

と食って掛かるような台詞を口にした。勿論、西田に何か文句があるというより、思いもしない理不尽な結末に、そう言うしか無かったのだろう。


「高垣さんもそうかもしれませんが、こっちも一体何がどうなってるのか……。一応ですが、提供してもらった3つの指紋には、1人分の共通した指紋が採取できましたんで、おそらく高垣さんが送ってくれた中に、大島の指紋はちゃんとあったとは思うんですが……」

「こっちも一応言わせてもらうが、かなり信用できる人達から、目的隠して入手してるからな。特に手形が一番わかり易いと思うけど。何なら手形にあった、大島海路名義のサインの筆跡鑑定をしてみたらどうだ?」

高垣は、西田が言おうとしていた「提供されたブツの信憑性」についての確認を、先回りして回答していた。

「やっぱりそうですか」

「しかし、一致しなかったってのはどうも腑に落ちないなあ。あんたらの話は十分整合性があったし、指紋以外の状況証拠からは、桑野欣也が今の大島海路こと田所靖になっているとしか思えないんだが……」

「正直、アテが完全にハズレて途方に暮れてます」

西田は率直に思いを吐露した。


「わかった。一応こっちも提供者に再確認してみるよ。でもなあ、3者とも別人からの入手ルートでありながら、やっぱり一致している指紋があったとなると、それが大島海路なのは間違いないと思うぞ! ちょっと時間を要するかもしれないが、数日後また連絡させてもらう。西田さんの個人の携帯でいいのか?」

「それでいいです。お手数掛けます」

高垣の好意に甘えることにしたが、望み薄なことはわかりきっていた。


※※※※※※※


 12月4日月曜の午後、高垣からはやはり「問題なかった」との報告を、北見の捜査本部に居た西田は携帯電話で受けた。

「それで、一体どうなるんだこの後? 俺は捜査に関与してるわけじゃないが、かなり痛いんだろ?」

「ええまあ」

煮え切らない返事だったが、高垣も心中を察したか、

「まあ仕方ない。アテが外れちゃったんだから。とにかく、また何かあったら電話してくれ。助けられることがあれば……。しかし悔しいね、俺もイッチョ噛んだだけなのにそうだから、あんたらの気持ちはどんだけのもんか」

と聞き取るのに苦労する声量で言った。


「ともかく、今回は協力していただいてありがとうございました。残念ながら厳しいですね、この結果は」

西田が振り絞るように言うと、

「ところで、竹下から頼まれていた件、あれどうすればいいのかな? こうなると、調べても無駄じゃないの?」

と言い出した。

「ああ、桑野の進学先の件ですか……。そうですね、ちょっと無駄かもしれませんが、竹下の案件ですので、竹下に確認して下さい」

「そうかわかった。竹下には直で聞いとく。それはそうと、まだ終わったわけじゃないんだろ? 気を落とさず頑張れよ! 大島は絶対挙げろ!」

最後には、高垣らしい発言で締め、会話は終わった。


※※※※※※※


 人気のない小会議室で高垣の話を向坂に伝えると、向坂は西田に予想もしないことを言い始めた。

「西田。大島海路が今週末、9日の土曜になるが、こっちに来るのを知ってるか?」

「いや、初耳ですが?」

「そうか……それは別に構わないが、とにかく来るらしい。それで北見や網走の地元の支援者と夜は温根湯温泉に宿泊するようなんだ。確認してみたが、名簿に伊坂政光の名前はなかったようだけど」


 基本的に一般的な国会議員は、週末に選挙区のある地元入りすることが多いのだろうが、大島海路クラスになると1月に1度帰るか程度で、大体が地元のベテラン秘書などに支援者回りや会合出席は任せていることが多いと言う。


「温根湯温泉ですか。もう師走ですから、忘年会的な意味でもあるんでしょうか?」

西田は向坂の発言の意図を計りかねていたので、真意をちょっとずつ探るような言い方になった。

「そんな感じかもしれんな。まあそれはどうでもいいことだ。それでその情報は、俺がウチの所轄(北見署)の警備課から得たんだ。大島の警護に数名当たるらしい」

「そんな遊びの時ですら、首相じゃなくても付くんですね、SP」

西田としては「税金の無駄」と思えたので、そういう発言になったが、向坂は気にせず続ける。

「うちの警備課からは、SPみたいな身辺警護と言うほどのもんじゃなく、あくまで周辺警護程度のもんらしい。ただ、北見方面本部の警備課からはSPクラスの対応要員が付くようだな」

「そうなんですか」

未だに向坂が何を考えているかはわからなかった。

「泊まるのは、西田と北村が前、常紋トンネル調査会のことで聞き込みに行った、ホテル松竹梅だとさ」

「ああ、松重さんのところの。あそこは老舗ですからね。なるほど……」

「なあ西田……。残念ながら先日、桑野と大島海路の指紋は一致しなかったわけだが……。もし俺たちが描いたシナリオがまだ正しいとすればだ……。可能性としては、送られてきた指紋がそもそも大島海路のモノではなかったという場合か、証文の指紋がそもそも桑野のものではなかった場合だな?」

「そりゃそうですが、可能性としては極めて低いのは、向坂さんもわかってるでしょ?」

「勿論だ」

「じゃあ、それはもう諦めるべきでは?」

「お前としてはそれで納得出来るのか? あらゆる状況証拠は桑野と大島が同一人物だということを示唆してる。これは誰も否定できないレベルでだ!」

熱を帯びた向坂の主張にも、西田は未だその真意を汲み取れないでいた。

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