ずる賢い狼と可憐な小うさぎの、顛末 3

  * * * *



 わたしがこの砦で働き始めたのは、父が第五師団に所属しているからという、完全なる縁故採用だった。

 もともと辺鄙な土地で、魔物の危険もある砦に住み込みで働きたいという人間はそう多くない。万年人手不足の砦には特に採用試験らしいものもなかった。

 わたしの家系には軍人が多く、根っからの軍人気質の父は、どうやらわたしの結婚相手にも軍人がいいのではと思っているようだった。

 もちろん、仕事先に結婚相手を探しに行くつもりなんてわたしにはない。

 とはいえわたしも男性への苦手意識をどうにかできたらとは考えていたので、砦で働かないかという父の勧めは渡りに船だったのだ。


 けれど、十七歳のわたしは今以上に男性が苦手で、今以上に対処の仕方もわかっていなかった。

 砦で働き始めてすぐのこと、軍人らしく筋肉隆々の男性に目をつけられてしまった。

 きっとその人に、そこまで悪気はなかった。新しく入った子を少しからかってやろう、程度の気持ちだったのだと思う。

 無体を働かれることはなかった。ただ、気づけば壁際に追いつめられていた。

 わたしを真上から見下ろす男性の眼差しは鋭く。巨体は分厚い壁のように目の前に立ちはだかっていて、恐ろしくて声を出すことができなかった。

 涙がこぼれ落ちる一瞬前、わたしを救い出してくれたのが、マラカイルさんだった。


『そーんな怖い顔してたら熊だって逃げ出すよ。小うさぎにちょっかい出したいならせめて花でも用意すれば?』


 あ、うさぎに花だと食べられちゃうか。

 なんて冗談まで添えるマラカイルさんに、緊迫した空気が一気に霧散した。

 男性は興をそがれたように、小さく会釈だけしてその場を去った。


『大丈夫? あいつも悪い奴じゃないんだけど、まああんなデカブツ怖いよね』


 身体も声も震えて、うまくお礼も言えないわたしに、マラカイルさんは元気づけるように明るく笑ってみせた。


『オレはミルト、ミルト・ヒュー・マラカイル。隊長直属部隊の小隊長。ここじゃ一応上のほうの立場だから、何か困ったことがあったら気軽に言ってね』


 名前を聞いて、貴族だということに驚いた。こんなに気安く優しい貴族もいるのだと。

 一番低い位とはいえ、貴族は貴族だ。軍に属しているということは嫡男ではないのだろうけれど。

 貴族に対して悪い印象があったわけではないが、漠然と偉い人という感覚があったので、いい意味で予想を裏切られた。


『ここは狼の巣窟だからさ、ラピラズリみたいな子にはきついかもしれないけど、できるとこまでがんばってみてよ』


 雇われたばかりのわたしのことを、正確に把握してくれていた。

 そのときのマラカイルさんは、本当に優しかった。

 鮮やかなミントグリーンの瞳は労りにあふれていたように見えたし、やわらかそうな茶色の髪は窓から差し込む陽の光でキラキラと輝いて見えた。

 苦手な男の人なのに、まったく怖くなかった。

 父の期待を、ほんの少しだけ思い出してしまうくらいには、わたしの心は浮き立っていた。


 だから、同室のエルミアに、どうお礼をしたらいいか相談して。

 後日、厨房を借りて作ったお菓子を持っていき、今度はちゃんと感謝の言葉を告げることができた。

 わたしはそれだけで満足だった。それ以上の何かを望んだつもりはなかった。

 なのにマラカイルさんは、わらったのだ。


『ハニーナは単純だね』と。


 初めて呼ばれた名前よりも、人を小馬鹿にするような表情に衝撃を受けた。

 優しい人だと、思っていたから。


『オレが君を助けたのは、入ったばかりの君に辞められたら困るから。たったあれだけのことでそんなはちみつみたいに甘そうな顔してたら、あっというまにペロッといただかれちゃうよ』


 はちみつみたい、なんて言われてもまったく自覚はなかった。

 自分がどんな顔をしていたのか、自分でもわからなかった。

 そんなつもりはなかったはずなのに、その指摘はこれ以上ないほどわたしの羞恥心を煽った。

 心の奥底の、浅ましい自分を、見透かされたように思えた。


『わかってないみたいだから教えてあげるけど、オレだって狼の一員だよ。気をつけてね、腹を空かせた狼に“待て”は通用しないから』


 数日前に違う人にそうされたように、壁に追いつめられた。

 あのときの男性ほど体格がいいわけでも、怖い顔をしているわけでもないのに、勝手に身体は震えた。

 今度は、わたしを助けてくれる人はどこにもいない。

 彼は、おとこのひとだ。そして、狼だ。

 小娘の淡い憧れを砕くことなんて、彼にとってはなんということもない。

 きれいなミントグリーンの瞳が、今はとても、冷たく見えた。



  * * * *



「……きらい。きらいっ」


 息を切らしながら部屋まで戻って、完全に一人きりになってから、吐き捨てるように口にする。

 唇を噛みしめて、今にもこぼれ落ちそうな涙をどうにか我慢する。

 あのときからわかっていたことだ。マラカイルさんが意地悪なことなんて。

 泣かない。泣きたくない。

 彼のためになんて、意地でも泣いてやるもんか。

 ……だから、使用人頭さんに泣きつくことだってしない。


 負けたくない、と思う。

 彼のほうが何枚も上手で、勝ち目なんてないことはわたしが一番わかっている。

 でも、あんな人に屈したくない。

 もしわたしが世話係から外れたら、彼はきっと、『そら見たことか』という顔をするだろうから。

 それだけは、絶対に許しがたい屈辱だ。


『ハニーナちゃんって、ふわふわかわいいタイプに見えるけど、実は堅実でしっかり者で、案外負けず嫌いですよね』


 以前、休憩時間の雑談中に、サクラさんにそんなことを言われたことがある。

 隣でうんうんとエルミアもうなずいていたということは、どうやら彼女の言うとおりのようだ。

 自分のことほど意外と知らないもの、ということだろうか。


『たぶん、そういうところが、小隊長さんが悪ノリしちゃう理由かもしれないんですけど……』


 困ったなぁ、とばかりにサクラさんは腕を組んで首をひねった。

 サクラさんも、エルミアも、マラカイルさんは本気だと思っている。

 本気で、わたしのことが好きなのではないかと。

 でも……他でもないわたしだから、わかることもある。


 マラカイルさんはとても頭のいい人だ。だから、彼が本気でわたしに恋をしているなら、話は簡単だ。

 頭のいい彼が、単純な小娘の思考パターンを読めないわけがない。彼は、やろうと思えばいとも簡単にわたしの心を奪うことができる。

 そうしない、ということは……本気ではないからなのだと思う。

 とはいえ、なぜ気まぐれに近づいてくるのか、そこまではわたしにもわからない。

 マラカイルさんは巧みに本心を笑みで隠してしまう。わたしなんかに読みとらせてはくれない。


「……戻らないと」


 トレイを抱えながら、わたしは小さくつぶやく。

 たとえ嫌な仕事だとしても、与えられた仕事を放棄していいわけがない。

 使用人頭さんに配置換えを頼まない、と決めた以上、やり通さないといけない。

 思わず逃げ込んでしまった相部屋から出て、私は深く息を吐く。


 マラカイルさんが触れて、つねった頬を、そっと指先で撫でる。

 まだ少し熱を持っているような気がする。

 本当に、何を考えているのかわからないひと。

 苦手で、それ以上に、きらい。



 きらいだけど……怖い、とは思えないのは、いったいなぜなのだろうか。

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