6 笹塚宗一郎からのプレゼント
朝、僕は身支度を済ませる。
昨日の帰り際、彼女に今日はお店には寄らないようにと言われていたので、僕は朝の時間やることがなかった。
待ち遠しい。
ただひたすらに待ち遠しい。
家でじっとしているのも耐えられないので僕は家を出ることにした。
こないだ買った指輪を胸ポケットに忍ばせて、僕は意気揚々と家を出た。
玄関を出て、マンションから外に出るとそこには麗子さんが立っていた。
「たまにはカフェ未来以外の朝食も悪くないわね」
サンドイッチをほおばりながら、彼女はこちらに笑いかけてくる。
家を出てすぐに出会った彼女に、朝食を誘われた。
断る理由もないので僕は提案に乗り、近くのファーストフード店に来ていた。
「宗ちゃん。今日はちょっと聞いてほしいことがあって、家に向かっていたのだけれど……」
そう言う彼女はどことなく歯切れが悪い。
笑顔が妙に張り付いた感じがする。
どこかで、どこかでこの寂しげな笑顔を見た気がする。
「私の友達の話で、よくある甘酸っぱい恋の話なんだけどさ」
突然の切り出しに僕は少し驚いた。
「まぁ、友達の話よ?」
そう言うと彼女はごまかすように笑う。
アイスコーヒーを一口飲んでから、彼女は話を続けた。
「その子はね、女の子なんだけど、家が結構裕福で、お父さんは結構大きな会社の社長でね。物心が付いた時から、厳しい父親と母親、周りの目のために愛想笑いを浮かべるようになってたの。それで小学校、中学校と周りから常に評価されて育った。期待に応えなきゃって思って、一生懸命だったんだと思う」
麗子さんはその友達との思い出に浸っているようで、どこか遠くを見ながら話している。
「高校生になって、最初の登校日に、男の子二人に話しかけられた。一人は良く知っている人だった。お父さんの会社の部下の息子さん。もう一人は知らない人だった」
机に置かれたアイスコーヒーが、カランと音を立てる。
彼女はストローでグラスをかき混ぜていた。
「一番最初の出会いはそれだった。声をかけられたとき、あぁ、なんだまたか。って落胆した。家のこともあって、声をかけてくる人は多かった。でもみんな私を見ていなかった。本当の私を見ていなかった。後ろを見ていた。周りを見ていた。上辺をみていたの」
何かが僕の頭の中で音を出す。
お前はこの先を知っているんじゃないのか?
どこからともなくそんな声がする。
「でも違ったのよ。二人は私を見ていた」
「なぁ! お前声かけてみろよ! めちゃくちゃ美人だぜ!」
入学式でたまたま隣にいた男に妙に絡まれて参っていたら、まさか教室も一緒で、しかも後ろの席だったなんて正直出来過ぎていると思った。
斜め前にいる女の子に声をかけてみろとひたすらに言われていた。
「なんで、僕がそんなことしなきゃならんのだ」
後ろからせっつく声を僕はヒソヒソト返す。
そもそもこいつ声がでかいんだよ。
「人生当たって砕けろだろ! 声かけてみろって」
ため息交じりに返事を返す。
「砕けたらだめじゃねぇか」
豪快な男はお構いなしに話を続ける。
「お前が目で追ってたのは知ってたんだ! いいから声かけてみろって、チャンスじゃないか! 高校に上がったばっかで周りはみんな知らない人だらけ、声をかけるには絶好の機会だぜ?」
なら何で自分で声をかけないんだよ。
そもそもお前と知り合ったのも今日が初めてなんですよ? なれなれしすぎやしませんか?
「分かったよ。じゃぁ、じゃんけんな?」
言い出しっぺが負ける法則である。
僕はジャンケンに負けて、声をかけることにする。
腰まで伸びた黒髪がすごく似合う、すごくきれいな人だった。
近くまでいくと、その美人な顔立ちにドキドキする。
僕は軽くパニックを起こしていたようだ。
「あ、あの? 初めまして、C組の、笹塚宗一郎です」
「お前! バカ! C組ってここにいる奴は全員C組じゃないか!」
「あ、そっか。えっと、あ、笹塚です。その? こんにちは?」
自分でも何を言っているのかわからなくなっていた。
「こんにちは、千川です」
彼女はそれだけ言うと僕から視線を外す。
どことなく寂しそうな目をしていた。
「あの? 今日良かったら学校の帰りにちょっと付き合ってもらえませんか?」
何を言っているんだ? 自分でも不思議だった。
気が付いたら声が出ていた。
さっきまで隣ではしゃいでいた賢治も息をのんでいた。
「え? 私のことを知っていて声をかけているんじゃないの?」
彼女は目を丸くして、僕のほうを見ている。
え? 知っている? そんなに有名なの? 彼女は?
「え? 初めましてですよね?」
僕は何とも間の抜けた声を出してしまう。
彼女との最初の出会いはそれだった。
頭に、知りもしない映像が流れる。
何だろう? 何かがおかしい。
僕はいったいどうしてしまったのだろう?
「その子はそれがとてもうれしかった。初めて自分と向き合ってくれた人達ができたと持ったの。それからのその子の人生は変わっていった。初めて自分を手に入れたんだと思う。誰からも用意されていない。自分自身を手に入れたんだと思う」
目の前に座る麗子さんの声が、どこか遠くに感じられた。
僕はいったい何をしているんだろう?
「だから、許せなかった。自分の殻に閉じこもってしまった想い人が」
麗子さんは小さくため息をついてから、意を決した様にこっちを見据える。
「宗ちゃん、いつまでそうやって、いつまでそうやっているつもりなの?」
僕に諭すように話を続けた。
「高校の春、賢ちゃんと三人で行った水族館の時に、約束したのに。こないだの水族館の時もそう、どうしてそうなってしまったの?」
何かがずれている。
その確信的なものが何なのか僕にはわからない。
「賢治の死が原因なのだとしたら、まったく治ってなかったじゃない。それなのに、そんなの、……今まで、……どれだけ、待っていたと思っているの」
わからない。
わかろうとしていないのかもしれない。
「そうやって自分で決めた何かに縛られて、勝手に決めた何かにつぶされて。どうして戻ってしまったの? どうして今に生きようとしないの?」
頭の中を靄がかかったように、声がただ響いてくる。
「そうやって、何かから逃げるために、今度は未来ちゃんを、……彼女を利用して」
何の話をしているんだろう。
「貴方は最低よ。人に自分の妹の面影を追っているんだわ」
妹は、確かにいる。
「優しさを口実にして、自分を守るためと言い訳をして、自分の心が傷つくことから逃げる。最低なことをしているんだわ」
そのぬくもりが、ただただその温かさに触れていたくて。
「そうやって、自分の心に入る人を拒絶して、なのに人の心に入り込んで、自分の心を閉ざしたままに、人の心を動かして」
僕は僕がわからない。
「今度は、近しい人に、より、近しい人の面影を重ねるんだわ」
ただ、その先の言葉を聞きたくはなかった。
「私は、千川麗子! あなたの親友であり、貴方を思い続けてる人」
その先の言葉は、何かをはじけさせる気がして、
何かわからないけれど、僕の何かを壊す気がした。
「あなたのご両親も、貴方のことを常に考えてくれていた貴方の親友も、貴方が愛してやまなかった貴方の妹も」
「……死んだのよ」
「もうこの世にはいないの、いつまで縛り続ける気なの? いつまで閉ざし続ける気なの? いつまで探し続ける気なの? そんなの、誰も望んでいない」
ワカラナイ。
「マスターだって、私だって、未来ちゃんだって、会社の同僚だって、あなたのご両親だって」
ワカリタクナイ。
「賢ちゃんだって」
フレラレタクナイ。
「きっと、……それはきっと、優奈ちゃんでさえも」
キズツキタクナイ。
「そんな生き方を、望んでいるはずがないのよ」
シリタクナイ。
「……宗ちゃん、いや、笹塚宗一郎、貴方の心にいる人まで、あなた自身が亡くしてどうするのよ」
ミトメナイ。
「あなた自身があの人たちを亡くして、あの人たちはどこに生きるのよ」
ミトメタクナイ。
「それに、あなたはまだ生きているのよ」
妹は。
「宗ちゃん、あなたはまだ生きているの」
妹は確かに生きているんだ。
「私や未来ちゃんもまだ生きてるの」
優奈は、優奈は確かに。
「生きてる人まで、貴方の心から亡くさないで」
そんなこと、そんなことは。
「お願いだから、……亡くさないで」
そんな事実は。
「私や未来ちゃんと今を見て」
……
「宗ちゃん、今を、今を見てよ!」
僕は待ち合わせの時間に遅れてしまったらしい。
気が付くと麗子さんは席に座っていなかった。
気が付くとお昼を過ぎていた。
携帯電話が何回目かの着信を伝えていた。
時計を見て、靄のかかる頭で、遊園地に行かなければという考えが浮かぶ。
日もだいぶ傾いたころ、遊園地の入り口に彼女は立っていた。
「宗一郎さん、二時間も遅刻ですよ?」
ふてくされたように、頬を膨らませる彼女を見て、僕は安堵した。
あぁ、確かにいるじゃないか。
あぁ、いるじゃないか。
優奈。
「まぁ、良いです。それよりも観覧車に乗りませんか? 今の時間だと夕日がすごくきれいなんですよ?」
あぁ、優奈。
優奈はいるじゃないか。
観覧車に乗るために僕らは並んで待っている。
「宗一郎さん? 何かあったんですか?」
僕は首を横に振る。
何もなかった。
何もなかったんだ。
僕の見ている世界がみんなの見ている世界と何かが違ったとしても。
何もなかったんだ。
「あ、私たちの番ですよ。さぁ、乗りましょう!」
僕は手を引かれて一緒に観覧車に乗り込んだ。
向かい合って座る僕と彼女。
ゆっくりと、僕らを乗せた観覧車は動く。
だんだんと周りの景色が開けていく。
横に見えていた景色は段々と下に見えていき、街を一望できる。
「今日は……。いいえ、今日こそは、宗一郎さんに話さなければならないことがあります」
夕日に照らされた彼女は、頬が少し赤みをさしていた。
とてもうれしそうに、こちらに笑いかけている。
僕は再び安堵する。
この笑顔に、この笑顔に会いたかったんだ。
他は何もいらない。
いらないや。
何故だろうふいに彼女の顔がいつもと違う印象を覚える。
「あれ? ひょっとして、髪……」
僕は気が付くと声が出ていた。
「あ! わかりました? 実は少し髪を切ったんですよ。ほんの少しなんですけどね」
前髪が、ほんの少しだけ短くなっている。
あ? あれ? 髪型が?
違和感を感じた。
僕の何かのずれに対する違和感を感じた。
目に見えている何かが決定的に違う。
違う。
何かが違う。
「宗一郎さん! 髪を切るのは、女の決意の表れなんですよ?」
彼女は自分の前髪を少しいじりながら話す。
そんな仕草一つとっても何かが違っていた。
「ちょっとこれから話すことは、流石の私でも決意がいるなって、思ったりして」
違和感を感じながら彼女の話を待った。
観覧車はもうすぐ頂上に差し掛かる。
外の景色がすごくきれいだ。
遠くの小高い丘の上に、うっすらとピンク色の場所が見えた。
彼女はその方向を眺めながら話をしだした。
「もう少ししたら桜も満開になるから、今度はお花見行きたいね」
僕は静かに頷く。
観覧車から見える夕焼けが、幻想的な街並みを映し出している。
「夏には花火大会や、お祭りにも一緒に行きたいし、海にだって行きたい」
何を言っているんだ? いつだって行けるじゃないか?
そんな疑問が頭の中を駆け巡る。
「秋には紅葉を見にハイキング、また温泉旅行だって行きたい」
頭の中に違う声が響いているようだ。
彼女は何を言い出しているんだろう?
「それで、それで、年越しを一緒にして、初詣、に行って……」
彼女の顔がだんだんと、傾いていく。
「宗一郎さんにいっぱい愛してもらって、いっぱい思い出作って」
夕日の射しこむ観覧車の中は、外とはまた違う世界を作り出していた。
彼女の一言一言が頭の中に響いていく。
「子供ができて、孫ができて、ずっと一緒にいたい」
彼女の肩が震えている。
今僕は、何かと対峙している。
「やりたいことがいっぱい、…いっぱいあるんです」
ぽつり、ぽつりと彼女の膝の上に雫が落ちる。
その落ちる雫が、僕の頭の中を洗い流しているようだった。
「宗一郎さんと一緒に行きたいとこ、やりたいことが、いっぱいあるんです」
ぎゅっと握られた彼女の手が、スカートにしわを作る。
「だから、……だから、お願いだから、…あきらめないで」
顔を上げた彼女の頬には光る線ができていた。
「生きることを、お願いだから、あきらめないでください」
彼女はいつものように、笑顔を僕に向けている。
「私、分かったんですよ。本当に死ぬってどういうことか」
手の内側で頬を拭う。
「それは、大切な人の心からいなくなることなんです」
笑顔で、いつもの笑顔で、話を続ける。
「私は、宗一郎さんにいっぱい贈り物をもらいました」
目を細め、頬を拭って、拭って、話す。
「両親を亡くした私に、宗一郎さんはいっぱい優しさをくれました」
拭っても拭っても、後から後から、光の線を頬に作る。
「千川さんから聞きました。……それは宗一郎さんのやさしさだったけど、そうじゃなかったって。でも私には、……そうじゃなかったとしても、いっぱい、いっぱい、いっぱいもらったものがあるんです」
鼻をすすりながら、拭い続けるその頬が赤くなっている。
「中学の春に両親を亡くして、世界から色が消えて、音が消えて、言葉が消えて、光が消えて、何もなかった私に宗一郎さんはまず意味をくれました」
頭の中にかかった霧が徐々に薄くなっていくのを感じた。
「それは初めて会った時、出来た時に困るからという彼女の代役という意味でした」
あぁ、そうだ、初めて彼女を誘った。
「私は、それから、……その役が自分に見合うようになるためのおしゃれをいっぱい勉強しました」
どんどんかわいく成長していく彼女は、時折僕をどぎまぎさせた。
「……次に、私にくれたのは、音でした」
なぜ、忘れてしまっていたんだろう?
「それは毎朝だったり、ちょっとした夕方だったり、お腹がすいたお昼だったり、忙しい時の夜だったり、お店に来てドアを開けてくれる音でした」
目を閉じると、その風景が飛び込んでくる。
「私は、それから宗一郎さんが来てくれるお店で、お手伝いをするようになりました」
マスターの入れてくれるコーヒーをいつも僕に届けてくれた。
「……それにそれに、他にも言葉をくれました」
そうだった。
理由も、口実も、お願いも、何もかもすべて、気が付いたら忘れていて、それが日課のように当たり前になっていた。
「挨拶だったり、話だったり、大学での講義の事だったり、仕事での出来事だったり、いろいろな言葉をくれました」
そう、声が、違うんだ。
偽りの記憶に、亀裂が走る。
「私は、それから学校での楽しい思い出を宗一郎さんに話すため、一生懸命作りました」
僕の塗り固めた幻想が、音を立てて崩れだす。
なぜ認めたくなったんだろう。
「…それから、……それから、色をくれました」
あぁ、そう、彼女は、違う。
なぜわかろうとしなかったのだろう。
「それは、感情です。……私に色を付けてくれました。笑わせたり、悲しませたり、怒らせたり、あきれさせたり、喜ばせたり、心に色をくれました」
彼女は違うんだ。
いったい何をしていたんだろう。
「その色と一緒に、宗一郎さんは、……私に、光をくれました」
目を閉じれば瞼の裏に、いつもの喫茶店の風景が見える。
なぜとらわれてしまったんだろう。
「……それは、とても大きくて、まぶしくて、温かくて、安心させてくれる。笑顔を私にくれました」
彼女は泣きじゃくりながら話を続ける。
「……最後に宗一郎さんは、……宗一郎さんは、私に、影をくれました」
朝日にまどろんだカウンターに、僕の定位置がある。
「それは私がいて良い、……私の場所、底抜けに明るくていつも元気な飛田さん。すごくきれいで、でも怒るとすごく怖い千川さん。いつも私のことを考えて、私を一番に思ってくれるお父さん。居心地の良い仲間をくれました」
そう、君は、彼女じゃない。
「……そして、私に愛をくれた宗一郎さん。そんな、貴方だからこそ、私はあなたを助けたい」
わかっていた。
わかっていたんだ。
「きっと、……宗一郎さんは優しいから、自分からはそんなことできない、でも、……私なら、私ならできる」
そんなことはわかっていた。
「今まで、たくさん、たっくさんいただいたお礼をさせてください」
そんなことは知っていた。
「宗一郎さん、愛してます。これからもずっと、変わることなく、何が起きても、愛してます」
認めたくない、認めてしまうのが怖い、そんなくだらない理由だったんだ。
「宗一郎さんの心には、自分でも気が付かずに、いろいろなものが入っているんですよ?」
認めてしまったら、気が付いてしまうから。
「きっと、他の誰かじゃない、これが私の役目だったんです」
それがたまらなく怖くて、今も逃げていたんだ。
「宗一郎さんの心には、拒絶しても、拒絶しても、強く、その殻を壊してくれる人がいるんです」
彼女はもう……
「だから、私にできることをします」
目の前の、女の子は、全てを射抜く瞳で僕を見据える。
「私は、貴方の心を殺します」
あぁ、これは何だろう。
心が熱い、その熱い何かは頬を伝っていた。
「私には、お返しをできるものなんて何もないから」
きっとこの感情は、上辺でしか感じられなかったものとは違うんだ。
「宗一郎さん。……私は、……私は、私は貴方の妹じゃない! 私は、長沼未来、貴方から贈り物をたくさん受け取った人」
心から、純粋に、相手の心に送るものなんだ。
「あなたの恋人や、友人、親友、ましてや妹じゃない」
人の心に触れることを、人の心が自分の心に触れることを、拒んでしまっていた。
「……私たちは、私たちは、わた、…したちは、……ただの」
その報いを受ける時が来たのだ。
「ただの他人です」
心を閉ざした報いを受ける時が来たんだ。
「笹塚さんからは、確かに、いろいろなものを貰いました」
違う、もらっていたのは僕のほうだ。
「でもこれ以上はいただけません」
お返しは何もできていない。
「他人の私には、……これ以上のものはもらえません……それは、……そのポケットに入っている指輪は、私の物じゃない」
胸ポケットの重みが、今、本当の意味をなしていいた。
「代役の彼女に渡していい物じゃないはずです」
これは、偽りの贈り物だ。
「笹塚さん、私はあなたの彼女には、なれないんです」
僕にこそ、その資格がない。
「本物の想い人がいる以上、……私には、代役しか演じれないんです」
観覧車の扉が開かれると同時に女の子はドアを出た。
「今までありがとうございました。……お元気で」
「待ってくれ」
歩き出す目の前の女の子に、声をかける。
「頼む、待ってくれ、分かったんだ。全部、君の本当の愛情も、君の本当の笑顔も、君の本当の心も、全部」
女の子は立ち止まる。
こっちを振り返りはしなかった。
「……そうですか。分かってくれたのなら、……よかったです」
そう言ってまた歩き出そうとする。
「待ってくれ、未来」
歩き出した女の子は再び立ち止まる。
「分かったんだ。全部、嘘だった。偽りだった。自分の作った世界に浸っていたんだ」
振り返った女の子は、今まで見たことのない笑顔だった。
「あ、ああ、やっと、……あの時の、…あの時以上の優しい、宗一郎さんにやっと、……やっと会えた」
女の子は僕の胸に飛び込むと声にならない声を上げて泣きじゃくった。
「……お帰りなさい、……宗一郎さん」
「あぁ、ただいま、そして、始めまして未来さん」
未来さんと一緒に手をつないで、遊園地の出口まできた。
あたりはすっかり暗くなって、街灯がちらほらつき始めている。
「さてと、宗一郎さん、もう一人いるでしょ? 大切な人がもう一人」
未来さんはそういうと僕の後ろを指さす。
振り向くとそこには千川さんが立っていた。
驚いている僕の横を未来さんは通り過ぎて歩いていく。
「千川さん……、いえ、麗子さん、次はあなたの番ですよ」
僕と千川さんは街灯にぼんやりと照らされた公園のベンチに並んで座っている。
三月も終わりに近づいて、公園の桜はうっすらとピンク色の花を所々咲かせていた。
未来さんは僕らを残して、先に帰って行った。
「いつかの話じゃないですけど、麗子さんをこれ以上悲しませたら流石の私も怒りますよ?」
そんなことを僕に耳打ちしてから、屈託のない笑みを浮かべて帰って行った。
「宗ちゃん? もう大丈夫なの?」
千川さんは僕のほうを心配そうにのぞき込んでくる。
僕はドキリとして思わずベンチから飛び起きていた。
千川さんは心配そうに僕のことを目で追っている。
今朝のこともあってか、千川さんは何とも複雑な表情でこっちを見ていた。
あぁ、そうなんだ。
今まで気が付かなかった。
いや、正確には気が付こうとしなかった。
「千川さん、聞いていくれる?」
僕は意を決して、千川さんのほうに向き直る。
この気持ちに蓋をしていたんだ。
「千川さんに初めて会った時、賢治にいろいろ言われて声をかけたけど。そうじゃなかったんだ」
初めの出会いは賢治のおかげかも知れない。
でも僕が初めて彼女に会ったのは違う。
そう、それは、彼女の本当の顔に出会えた時だった。
「本当に出会えたと思った時は、千川さんのクッキーを食べた時」
彼女のクッキーは刺激的だった。
僕の言葉を聞いて、千川さんは若干引きつった笑顔を浮かべる。
「真っ黒いクッキーがすごくパサパサで、味も焦げてて、その、……ひどかった」
僕は一言一言、発するたびに胸の奥が熱を持っていくのを感じた。
あの時の表情を覚えている。
いつもの作った笑顔とは違って、本当に笑っていたあの表情を。
「でも、僕、あのクッキー食べた時、千川さんは泣くほどまずかった? って聞いてきたけど、そうじゃなくて……」
確かに僕はあのクッキーを食べた後、急に泣き出してしまったんだ。
わからないけれど、涙が後から後から流れてきた。
「あれを食べた時、胸の中が熱くなって、思わず涙が出たんだ」
クッキーは確かにまずかった。
でも、あったかい。
あの温かさのおかげだったのかもしれない。
「今考えても分らないけど、すごく胸が熱くなったんだ」
本心を言葉にするのは難しい。
僕は裏返った声で、彼女に話を続ける。
「両親を失って、最愛の妹を失って、人から初めて贈り物貰って、優しさに触れて、胸が熱くなって、きっとその熱いものが流れたんだと思う」
胸が熱い、思いのたけをぶつけるっていうのはこんなに難しいことだったんだと改めて実感する。
「あのクッキーの後から、僕は気が付いたら目で千川さんを追っていたんだと思う」
でも止まらない。
止めるつもりもないのだが、自然と言葉が後から後から続いていく。
「自慢の流れる黒髪が好きだった」
公園の中を柔らかな春の風が流れると、彼女の黒髪がそよそよと靡いている。
「高校の時、横にいる千川さんは考え事をすると髪を肩から横にかきあげる癖があったのも知ってる」
胸の鼓動が早くなっていくのを感じる。
「笑うとえくぼができるのが好きだった」
彼女は恥ずかしそうに顔を隠してうつむいていしまった。
「普段のカフェ未来での会話とか、賢治のバカな話の時とか、話を聞いてて笑顔がでるとえくぼができるのも知ってる」
そうだった。
いつも気が付けば目で追っていたんだ。
学生の時も、会社で時折見かけた時も。
「優しいところが好きだった」
あぁ、そうなんだ。
こんなにも人を心の中に感じていたんだ。
「負けず嫌いで、いつも賢治と張り合って、でも賢治が負けて悔しがると、申し訳なさそうな顔をしてるのも知ってる」
彼女の優しさに触れるたびに僕は自身で拒絶しようとしていたんだ。
そんなことはできないっていうのに。
勝手に自分は幸せになる資格がないと決め込んで、自分の心に蓋をしていたんだ。
「かわいいところも好きだった」
毅然として振る舞っている会社での態度や、社長令嬢として学生時代を過ごしてきた時とは大違いの彼女の本当の顔。
何気ないその仕草や、ちょっとした行動にいつも僕はドキドキさせられた。
「普段何気なくしてて、ふいにショックな時とか、拗ねた時に見せるその表情が素の表情なのも知ってる」
僕や、賢治、未来さんや、マスターと一緒にいる時の彼女の表情。
いつも優しく笑いかけてくれる彼女の笑顔。
「あぁ、そうなんだ。僕は前からずっと好きだったんだ」
納得がいく。
本当に好きだったんだ。
「僕はね、千川さん、きっと自分でも自覚してないくらい、千川さんのことを見てたんだと思う」
彼女の心に、触れていたい。
僕の心を支えてくれていた彼女に触れてみたい。
僕は小さく深呼吸して、彼女を見る。
彼女は俯いて、小さく震えていた。
「だから、今、正直に言うね」
「僕、笹塚宗一郎は千川麗子を愛してます」
「社長令嬢の千川麗子、高校からの親友千川麗子、今の関係の千川麗子」
「全部含めて麗子さんを愛してます」
「たった残り1日かもしれないけど、僕は今の今まで自分の気持ちに気が付かなかったけど」
不意に胸が苦しいと感じた。
何だろう?
目の前が若干白んできているような気がする。
「それでも、これだけは言いたい」
もうお別れなのか?
呼吸ができない。
まだあと一日、あと一日残っているはずだろう?
苦しい、目の前が真っ白になっていく。
言い切るんだ。
何としても、今まで言えなかったこの一言を。
「麗子さん、結婚してください」
胸が締め付けられるように苦しくなって、目の前が完全に真っ白になった。
体に力が入っているのかどうかもわからない。
遠のいていく意識の中で、彼女の声が僕の名前を呼んでいた。
あぁ、彼女の答えをせめて聞きたかったな。
遠のいていく意識の中で、僕はそんな事を考えていた。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます