第7話 みかんマン

みかんマン


バルの店長ヨッシーはその日も雑居ビルの1階から、小さな路地を渡って向いの飲食ビルの2階に出勤した。「人格の切り変わりは、路地を渡るようなもの。もう1人の自分の行動や記憶も、この路地のように自由に行き来できるイメージを持つこと」と教えてくれたのは小島さんだった。毎週月曜日の朝に会う小島さんの助言はいつも的確で無駄がなく、優しかった。今朝も会ったばかりだったが、めずらしく夜にもバルに現れた。扉を開けようとする目つきや足取りがあきらかに酔っ払いで、普段のスマートな身のこなしとは程遠い。小島さんがカウンターめがけて近づいて来ると、2本目のアフリカのワインボトルを空けていたイムラさんが「ほら、来たよ、もう1人の小島さん。」と呆れ気味に小声でつぶやく。その隣でいっしょに飲んでいるイムラさんの後輩(ユリエという名前らしい)が、「あの酔っ払い知り合いですか?」と遠慮なく口に出している。

「どうも」と上機嫌の小島さんが紙袋をひょいと掲げ、「今日は日帰り出張だったんでお土産買ってきたよ。あれ、どこに出張したんだっけな」と高田純次ばりのいい加減さでイムラさんの失笑を誘う。無地の白い紙袋から、おもむろに手のひらサイズの白い紙袋を取り出し、「はい、みかんマン」と、店長ヨッシーに渡した。イムラさんを挟んでユリエが「え?何?何?ミカンマン?」とすばやくツッコミを入れ、その声でヨッシーのありがとうの声がかき消されて声の余韻が残る。小島さんはユリエの顔を見て(お前だれだと)一瞬睨み、「みかん味の肉マンだよ。おいしいんだよこれが」と、イムラさんの前からユリエにみかんマンを渡した。「何それ〜、まずそう〜、そんな肉マンあるの?」とイムラさんがちょうだいと手を出す。小島さんが「まずそうって失礼な。せっかく肉マン好きのイムラちゃんに買ってきたのに」などと言いながらみかんマンを渡す。肉マン好きってどういうことよ、、とイムラさんと小島さんが話はじめたところでヨッシーが袋を開けて、みかんマンを食べようとした。あっけにとられたように「あ、普通にカレーマンですね」とカレー色のカレーマンの匂いを嗅いだ。ユリエもすばやく取り出して「私、カレーマン大好き!いただきます!」とだれよりも早く笑顔でカレーマンにかぶりついた。そこから先はグダグダである。どう見てもどう食べてもカレー味のカレーマンなのに、酔っ払いの小島さんがみかん味のみかんマンだと言い張り、初対面のユリエが「みかんマンってセンス無さすぎでしょ」と何の遠慮もなく言い返している。イムラさんが「初対面の人にそういう態度だからナオミちゃんに泣かされんのよ」とユリエをたしなめている。小島さんが「お前らー全員食うな、カレーマン出せ、口から出せ」、ユリエがすかさず「カレーマンって言っちゃってるし!」、イムラさん爆笑、小島さん「みかんマンって言ったし!」、ヨッシー「いや、小島さん今、たしかにカレーマンって言ってました」、ユリエ「実際カレーマンだしね!」、小島さん「みかんマンって言ったし、お前らいいから返せ〜!」とカウンターが異様な盛り上がりを見せているところに、バルの扉がカラン♪と鳴った。全員の視線が扉へ向いて一瞬の静寂、そこに現れたのはイワヨシさん。いつものごとくセクシーな美女を連れている。島耕作風のこの男、小島さんとは中学時代の同級生である。

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