第236話 クマの一撃・・・その2

わたしは自分が女子高生であるという感覚をもはや持てずにいる。それほどまでにここ最近の複雑怪奇現象は度を過ぎて頻発していると思う。


2年生になってから、お兄ちゃんとの交信、横山の猿たち、真世まよちゃんのマンションでの首なし亡者、金ピカのお地蔵さん、『ヤスミノービル』を発動した黒猫さん。

そして極め付けが近本という『悪鬼神』の登場だったわけだけれども、その近本に関わるかもしれないということで今度はクマときた。


わたしの今の目の前の状況に至るまでの経緯はこうだ。


朝早くからお師匠の車でこの里山の麓に来た。

ご神木の前で神様にぬかずいて塩でお清めをし、お酒やお餅をお供えして山の鎮守、悪鬼神退散を祈願するためだ。

山菜採りでよく山に入っているという地元の『寺田さん』というおじいさんに先導され、お師匠とわたしと3人でご神木のエリアを目指した。熊よけの鈴はつけなかった。

なぜなら、くだんのクマはニュースにならなかった猟師の片足を喰らい、人間の肉の味を覚えたらしいからだ。鈴の音はかえってクマを呼び寄せる道具となる。わたしたちはできるだけ無音で歩いた。

そして後100メートルほどでご神木という山の中腹まで来た時、そいつが雑木の中からザザッと現れたのだ。わたしたちとの距離、20メートル。


「お師匠・・・」

「うろたえるな」


先頭の寺田さんはクマの出没そのものには驚かない。ただ、別のことに驚いている。


「こりゃあ、ツキノワグマじゃない・・・なんでヒグマがこんな地方に」


詳しくないわたしにもそれが分かった。

ツキノワグマにはなんとなく童謡の歌詞のようなイメージを持っていた。

けれども目の前に現れ、四つん這いでごふっ、ごふっという低い息をしているそいつは長閑さのかけらもなく凶悪な風貌で絶望感しかわたしに与えない。


はっきり言って、もう死ぬのか、とわたしは思った。


「できるだけ平然とした顔をするんだ」


寺田さんはそんなわたしの感情を無視するようにごく実務的に指示する。お師匠もわたしもそれに従った。

寺田さんがクマの顔あたりを見たまま少しずつ後ずさりする。最後尾のわたしもその動きに合わせて後退する。


クマは様子を見たり警戒しているという風ではない。クマの方こそ平然として近づいてくる。四つん這いだが人間が普通に歩くのと同じぐらいのスピードで接近する。それがのし、のし、という感じの小走りのスピードになる。寺田さんが、


「うおっ、うおっ!」


と手を上げて自分を大きく見せてクマを威嚇するのに習い、わたしたちもそうした。けれどもクマは突進をやめない。


「ダメだ。捕食する態勢に入ってる!」


捕食? 生物の授業でのリアリティのない単語が切実に突き刺さる。

寺田さんの表情からも冷静さが消えた。ついに最後の指示となった。


「いいか。さっき教えた通りだ。射程に入ったら俺がスプレーを噴射させる。それでもダメならうつ伏せになって急所を守るんだ!」


その後は祈れ、と、寺田さんは本職の坊主と見習い坊主にレクチャーしてくれたのだった。

一人分で満腹すれば全滅は避けられる、と。


「この畜生めが!」


数メートルに近づいたクマに寺田さんは怒鳴りつける。

同時にクマ撃退スプレーをそいつの鼻っ柱めがけて噴射させた。


ごうっ! という轟音を立てて寺田さんは全量を噴出させる。


ごほぉ!


と一声クマは叫んだが、そのまま突進をやめなかった。


「あ、お師匠!」

「バカ、戻れ!」


先頭の寺田さんに突進するクマに向かってお師匠が飛び出した。

真後ろから見るお師匠とクマの姿が重なる。クマが立ち上がろうとする動作を見せたその瞬間だった。


くおぉーん!


という今までに聞いたことのない周波数の音が鼓膜に痛みを与える。反射的に耳を押さえざるを得なかった。


その音がクマの苦悶の声だったことを理解したのは、クマが逃げ出して見えなくなり、お師匠の手に血のついた刃物が握られているのを見てからだった。


「咲蓮寺さん、あんたそれ・・・」

懐刀ふところがたなですよ」


一般的に懐刀は女子の護身武器と思われているが、男に常備する武器であったそうだ。お師匠も先代が亡くなる直前に身辺整理の時点で託されたそうだ。


「鼻を潰しました。手足の手負いならより凶暴になって危険でしょうが、嗅覚ががれればしばらく人は襲えんでしょう」

「しかし・・・よくもまあ真っ直ぐ突っ込んでいけたもんだ」

「全員助かるにはこうするのが合理的だと思っただけですよ」

「仏に仕えるあんたから『合理的』なんて言葉を聞くとは思わんかったな」


お師匠はにやっと笑って寺田さんに説法した。


「寺田さん。仏のお考えは常に『合理的』ですよ。ただ、千手せんて万手まんて億手おくても先を見た余りにも緻密な計算なので人間には到底理解できないだけです。仏の思考力に比べたらノーベル賞の学者の頭脳など浅はかな『打算』でしかありませんよ」


ただ、おそらくお師匠の行動はそれだけではできなかったはずだ。


『どうなっても構わない』というか、自分は詰まる所どうでもいいのだ、という境地なのだろうか。いずれにしてもわたしにはできない。


わがお師匠ながら、天晴れ、という言葉しか浮かばなかった。

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