第52話 翼の助言
結菜にとって、ごく平凡な日常の学校生活が続く。
この高校に入る前は必死になって受験勉強をしたものだが、今になって思えば何であんなに必死なって勉強をする必要があったんだろうと思えるほど学校の授業は退屈だ。
たいして興味の無い授業を受けて勉強をし、休み時間には美久や友達と話す。そんな特筆することもないごく普通の日常を送っていく。
翼が結菜に連絡を入れてきたのは、そんな退屈な日の昼休みの時だった。
「もしもし、翼です。今お電話の方はよろしいでしょうか」
「はい、今ちょうど手が空いていますので」
久しぶりに聞くお嬢様の声に結菜は緊張して手を震えさせてしまう。
「ちょっと待っててください。ここ賑やかなので」
「そのようですわね」
翼の声には笑みがある。教室の喧騒は当然電話の向こうにいる翼の耳にも届いているはずだ。
結菜は恥ずかしく思いながら人目を避けて廊下に出て、静かな階段脇へと移動した。
「もしもし、もういいですよ」
「では、こちらの準備は出来たので、今日の夕方の六時にそちらのお宅に伺うということでよろしいでしょうか」
「はい、構いません」
「では、失礼いたします」
電話が切れて緊張も切れた結菜は解放されて長い息を吐いた。
その時間なら両親はまだ仕事から帰ってきていないし、兄は大学の寮に泊まっててそもそも家にはいない。
会うのに不都合は無かったのでOKすることにしたのだった。
結菜は帰宅して時計の針が回るのを待っていた。
あれからずっとそわそわしていた。やがて約束の時間がやってきた。
待ちわびたピンポンが鳴ったので玄関に出てドアを開けると、そこに大会の日以来目にするこの町一番のお嬢様が立っていた。
一度家に帰っていたのだろう。彼女は大人びたお洒落な私服を着ていた。
「待たせましたわね」
「いえ、そんなことは」
翼のことを怖い相手だと、どうやって勝てばいいか分からないと思ったことは何度もあるが、今日の彼女はとても明るくて優しいお姉さんに見えた。
思えば大会の頃は彼女と戦うことばかりに気が行っていてあまり気を向ける余裕がなかったかもしれない。これが本来の彼女の姿なのだろう。
結菜は今頃になってお嬢様学校の生徒達があれほど翼を慕っていた理由に思い至っていた。
まさに理想の姉の姿を前にするようなオーラに、兄はいても姉はいない結菜は少し照れと気まずさを感じてしまう。
「どうぞ」
翼をリビングに案内しようとして、結菜は今更ながらに掃除しておけば良かったとか狭い家だと言われたらどうしようとか思ったが、翼はそんなことを気にするそぶりは見せなかった。
「お邪魔しますわね」
彼女らしい上品な口ぶりで言って、綺麗に靴を揃えて礼儀正しく家に上がる。
さすがお嬢様の頂点と呼ばれているだけあって実に華のある動作だった。
結菜はドキドキしてしまう。兄や家族がいなくて本当に良かったと思った。
結菜は頑張って気を落ち着けるよう努力して、居間のテーブルの所に翼を招いた。
「どうぞお座布団です。どうぞお座りになってくださいませませ」
つい緊張して変な敬語になってしまうのを翼は軽い苦笑で流してくれる。
「ありがとう」
葵や姫子とこのテーブルを囲んで相談したのが随分と昔のように感じた。
結菜が黙って座っていると、翼が話を切り出してきた。
「そう緊張されなくてもいいんですのよ。わたくしも初めて友達の家に行った時はいろいろと失礼をやってしまったものですけどね」
「翼さんはこのような家に来ることって、よくあるんですか?」
結菜にはぴんと来ない。
訊ねると翼は気前よく答えてくれた。
「渚とは小学以来の友人でしてね。あなたの学校の生徒会長の白鶴渚さんのことですが。あの頃はもう本当に世間知らずでね。つい犬小屋とか言ってしまって」
「そうですか」
自分の家がそう呼ばれなくて本当に良かったと思う。
「それから空き地に行って喧嘩もしてしまって……」
「喧嘩……ですか……」
生徒会長同士の喧嘩。それはどんな物だったのか。今の翼や渚の姿からは想像することも出来なかった。
「あの頃はお互いに子供だったのですわ。でも、安心してください。わたくしも学習しましたからね」
結菜はその話をもう少し聞きたかったが、翼はそれ以上その話は続けなかった。
持ってきていた大きめの鞄を膝元に近づけて開く。
その手を止めて顔を上げて訊ねてきた。
「今日はご両親は?」
「まだ仕事に行っています。あと一時間ぐらいは帰ってこないと思いますけど」
「ご立派なご両親なのですわね」
結菜は照れてしまう。立派だと言われたのは初めてのことだった。
「では、仕事疲れのご両親に気を使わせるわけにもいきませんし、帰ってこられる前に手短に済ませましょうか」
翼は鞄から資料を出して、テーブルの上に置いた。
それは彼女の几帳面さを感じさせる綺麗なファイルに綴じられたプリントだった。
原本ではなく印刷してきた物のようだった。
「結菜さんは過去に現れた伝説の勇者についてどの程度知っていますか?」
「いえ、何も」
結菜は何も知らなかった。本当に伝説の勇者なんてものが実在したとも思っていなかった。
その答えは翼の想定内のようだった。
「でしょうね。学校の歴史の授業では習わないことですものね」
「勇者って実在したんでしょうか……?」
慎重になって訊く結菜に対する翼の返答は力強かった。
「ええ、探せばそれらしい痕跡や資料はいろいろと見つかりますのよ。わたくしの家には勇者を導きその旅を見届けた賢者の残した文献もありますし」
「へえ」
それは驚きだ。今度学校の図書室でも探してみようと思った。
思っていると、翼が資料を手に持って立ち上がって近づいてきた。
憧れの年上のお姉さんのオーラを感じさせる彼女が近づいてくるのに、結菜は思わず緊張して身構えてしまった。
翼は優しく微笑んで気にせず、肩が触れ合うほど近くのすぐ隣に座ってテーブルの上に資料を広げた。
「では、結菜さんにはこれから過去の勇者のことをお話しますわね」
「は……はい」
すぐ間近で囁く翼の声に、結菜は緊張して身を震わせてしまう。
翼はほぐすように優しく言った。
「そう緊張されなくてもいいんですのよ。難しい話はしませんから」
「わ……分かりました」
結菜が緊張しているのはこれからの話に対してではなく、すぐ間近にいる翼に対してなのだが。翼は気が付いていない様子だった。
結菜は意識を誤魔化そうとテーブルの上に広げられた資料の方に目を向ける。
そこには天馬を駆って竜と戦う勇者の姿があった。
翼は語る。勇者の物語を。
「人々が今ほどの繁栄を築くよりも昔のことです。この世界は幻想の住人達と呼ばれる存在によって支配されていました。世界各地を支配する彼らの中で、この町を支配していた者の名が竜王ドレアノス。人々は邪悪なその竜の支配に苦しめられていました。しかし、希望はありました。人々の中から後に勇者と呼ばれる者達が立ち上がったのです」
「へえ」
翼の引き込まれるような語りに結菜は緊張していたことも忘れて魅了されてしまった。
結菜が聞いていることを横目で確認し、翼は話を続けた。
「賢者に導かれ、勇者達は長い旅をしました。そして、苦しい戦いの末についに邪悪の竜を打ち倒し、この町を救ったのです。こうして、この町の輝かしい歴史は始まりました」
物語を語り終え、翼は結菜に話しかけた。
「言わばこの町の今の発展があるのは勇者のお陰とも言えますわね」
「そうなんだ」
結菜は翼の話に驚いていた。だが、驚いてばかりもいられない。
もし、今の話が本当なら結菜も大変なことになるからだ。
長い旅や苦しい戦いなんて自分には出来そうにない。
どんな無理難題を言われても。美久が言っていたことを思い出す。
「それで結菜さんに勇者としてやっていただきたいことですけど」
そら来た。結菜は覚悟を決めて身構える。翼はどんな無理難題を言ってくるつもりなのだろうか。どんな言葉が来ても跳ね返すつもりで。
そんな結菜の態度に、翼はおかしそうに笑った。
「そう構えなくても結構ですわよ。何も厳しい修行をしろとか竜を倒せとか言うわけではありませんから。この時代に竜はもういませんしね」
結菜は肩の力を抜いた。
だが、続く言葉を聞いて肩に力を入れ直した。
「でも、これはある意味ではとても厳しい試練となるかもしれませんわね」
翼は何を言うつもりなのか。結菜は緊張に目を回しそうになってしまう。
結菜は様々な無理難題を想像してしまうが、翼が言ってきたのは全く予想外のことだった。
「学校生活を楽しんでください」
「え……?」
結菜は思わず目をパチクリとさせてしまう。そんなことでいいのだろうか。
翼は冗談を言っている風ではなかった。微笑んで続きを言う。
「簡単と思われるかもしれませんが、これが結構難しいことなんですのよ。気を抜くと一年なんてあっという間に過ぎていってしまいますからね。何も出来ないまま時が過ぎていた、なんていうことも決してありえない話ではないんですのよ」
「……」
そう言われてもまだ入学して一学期も終わっていない結菜にはこれからのことなんて途方もなく大きく感じてしまう。
真っ白に広げられた大きな画用紙を前にする気分だった。
気の遠くなりそうな結菜だったが、次の翼の言葉で現実へと引き戻された。
「当面の目標としては来月に迫ったテストで良い点を取ることでしょうか」
「うげ」
嫌なところを突かれたと思った。
前のテストではあまり良い点を取れなかったのだ。中学の頃はそれなりに良い成績を取れていた結菜だったが、高校の授業は中学の頃とは比べ物にならないほど難しく、成績も下から数えた方が早いほどに落ちていた。
結菜は緊張しながら訊ねた。
「翼さんはわたしの学校の予定のこととか知っているんですか?」
その質問に翼は自慢そうに答えた。
「あなたの学校の生徒会長はわたくしの親友なんですのよ」
そう言われればそうだった。
翼と渚は親友同士で、大会の時も二人にしか通用しないような会話をよく交わしていた。
とんでもないところに目があったもんだった。
もしかしたら成績のことまで知られているのかもしれない。訊ねる勇気はなかったが。
代わりにテストのことについて言った。
「でも、テスト難しくて。前も赤点ギリギリだったし……」
絶望の思いに沈みそうになる結菜だったが、翼は気にしていない様子だった。
実に何でもないことのように言う。
「では、そんな結菜さんにテストの必勝法を伝授しましょうか」
「そんな方法があるんですか!?」
結菜は思わず翼の顔に食い入っていた。翼は驚きつつ宥めた。
「そう食い入らなくても」
「教えてください! わたしにとっては死活問題なんです!」
「では、お教えしましょう。よく聞くのですよ」
「はい!」
期待に目を輝かせる結菜に翼は質問をする。
「結菜さんはいつもどんな勉強をしていらっしゃいますか?」
「それは少しでも良い点数を取るために一つでも単語を覚えたり、一つでも問題を解いたり……」
「そんなことでは駄目ですわね」
「え!?」
驚く結菜に翼は人差し指を立てて諭した。
その瞳には純星の鷹、お嬢様の頂点と呼ばれる者の力強さがあった。
「勝負の鉄則とは勝つ気で挑むことです。少しでも覚えようとか良い点を取ろうではないのです。勝つ気で挑むのです!」
「え……」
「意外と思われるかもしれませんが、心構えというのは記憶や何よりも力を引き出す重要なことなんですのよ。覚えておきなさい」
「はい」
「それともう一つ」
「もう一つ!?」
必勝法がもう一つあると聞いて結菜は腰を浮かせかけた。
翼は少し気圧されているようだった。
「もう二つですわね。時には落ち着いて物事に対処することも必要です。リラックスして平常心を意識しなさい」
「平常心……」
結菜は呼吸を落ち着けてリラックスして浮かせかけた腰を下ろした。
結菜が落ち着いたのを確認し、翼は話を続けた。
「結菜さんの周りには同じ目的を持ってテストに挑もうとする心強い同志達がいます。周囲によく目配りし、みんなで力を合わせてテストに挑むのです」
「みんなで力を合わせて……」
「結菜さんは一人でテストに苦しめられ、受けさせられているわけではないんですのよ。頑張りなさい」
「はい!」
結菜の元気な返事を聞いて、翼は鞄に資料をしまって立ち上がった。
「では、今日のところはそろそろお暇することにいたしますわね。あまり遅くなって仕事疲れのご両親に余計な気遣いをさせるわけにもいきませんから。わたくしで良ければいつでも相談に乗りますし、渚にも話を通しておきますから、何かあったら連絡してください。電話番号は前に電話した物の履歴がありますわね」
「はい、翼さん」
結菜の携帯には翼の携帯に直通の電話番号があった。
予期せずそれを手に入れてしまったことに結菜は謎の感動を覚えてしまう。
「では、ごきげんよう」
そうして、翼は一礼して去っていった。
「ああ、翼さんの番号を手に入れてしまったよう」
誰もいなくなった部屋で結菜は嬉しさに転がりまわってしまった。
こんな姿を見られなくて本当に良かったと思った。
「大鷹翼は何を言ってきたんですか?」
次の日に登校すると、さっそく美久がそのことで食いついてきた。
「翼さんに買ってもらった本……」
結菜はあれから前に翼に買ってもらったもののやっぱりよく分からなくて放置してた猿でも分かる自転車を読みふけっていたが、美久の質問に気が付いて答えることにした。
学校生活を楽しむことが翼に与えられたミッションだからだ。それには心構えが必要だと教えられた。
失敗するわけにはいかない。
「うん、テストの必勝法を教えてもらった」
「「「テストの必勝法!?」」」
その言葉に反応したのは美久だけではなかった。周囲のクラスメイト達が反応していた。
元より勇者と大鷹翼の関係することで聞き耳を立てていたのだろう。
彼らはすぐに結菜の机の周りに集まってきた。結菜はいきなり出来た人垣に困惑した。
人垣は次々と訊ねてくる。
「いったい何を教えてもらったの?」
「あのお嬢様学校で生徒会長をしている大鷹翼の言う事だ。きっと凄い勉強法があるに違いない!」
「わたし達にも教えてよ!」
「えっと……」
別に隠すことでもない。結菜は話すことにした。
話終わってクラスメイト達はそれぞれに考えることがあるようだった。
「みんなで力を合わせてか……平均点が上がるな……」
「でも、他のクラスの奴らに目に物を見せてやることは出来る」
「赤点と追試と補修はもうご免よ」
「よし! それならこれからみんなで勉強だ! 勝つ気で挑むぞ!」
「「おう!!」」
周囲が何やら盛り上がり、自分の席についたまま様子を伺っていた麻希は困った子供を見るような目で結菜を見ていた。
「翼にまんまと乗せられているうちはまだ自立は無理そうね」
「うおう、何か盛り上がってんなあ」
入ってきた先生はいつもと違う熱気にびっくりしていた。
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