荒野に響く少女たちの歌声 -Amazing grace-


 ◆


 ジェニファー・F・キングスフィールドは、少女達の横から様子を眺めていた。


♪Amazing grace――素晴らしき恩寵♪


 まず、ネイが息を吸い込み、眼を瞑りながら吟じ始めた。ネイの歌いだしに合点いったのか、ポワカも明るい表情を浮かべ――。


♪♪How sweet the sound――甘美なる響き♪♪


 ポワカ、リサ、ジーン、マリアの四人が、互いの歌声を紡ぎ合わせ始めた。


♪♪That saved a wretch like me――罪深い私を救ってくれた♪♪


 そして、五人のエヴァンジェリンズたちの歌声が、魂の荒野に響きだした。


♪♪I once was lost but now I am found――迷える私は、貴方に導きの元に♪♪


 彼女達の事情も複雑なはず――それでも、今はただ、一つの目的のためだけに、五人は心を束ね――安らかな笑顔を浮かべて、歌声を重ねている。


♪♪Was blind, but now I see――盲目だった私は、今は貴方を感じています♪♪


 そこで五人は手を離し、各々青年の体の近くに跪いた。


♪'Twas grace that taught my heart to fear――恐れがあることを教えてくれた♪


 ジーン・マクダウェルが、青年の足元で祈りを捧げると、他のエヴァンジェリンズたちの体が淡く光り始めた。


♪And grace my fears relieved――そして苦難から解放してくれた♪


 マリア・ロングコーストが青年の腹の辺りに手を翳すと、傷だらけの青年の体の傷が癒え始めた。


♪How precious did that grace appear――かくも素晴らしき恩寵♪


 ポワカ・ブラウンが青年の胸に手を翳すと、彼の胸が黄金色の光を発した。


♪The hour I first believed――私が信じたとき、貴方の愛が現れました♪


 リサ・K・ヘブンズステアが青年の左手を取ると、遥か彼方の魂の集合体が暖かな光を発し始めた。


 そして――ネイ・S・コグバーンが青年の右手を取って、独唱を始める。


♪Through many dangers, toils and snares――数多の困難を乗り越えて♪


 少女が青年の手を強く握る。彼の魂と大いなる意志とが共鳴し始めたが――少女の祈りはまだ神様に完全には届いていないようだった。


♪ I have already come――私は、ついに貴方の元に辿り着きました♪


 ネイを除いた四人は、少女と青年から少し離れ――。


♪'Tis grace has brought me safe thus far――貴方の恩恵が、彼方の場所まで私を導き♪


 少女は青年の首の後ろに両腕を回し、瞑ったままの彼の顔を、慈愛に満ちた表情で引き寄せた。


♪And grace will lead us home――だからきっと貴方の愛は、私達をあるべき場所へと導いてくださる♪


 そして、少女と青年の唇が重なり合い――荒野の遥か先に浮かぶ魂の坩堝るつぼが、先ほどと比べてなお一層、優しく、暖かく光りだした。


♪♪Amazing grace how sweet the sound♪♪

♪♪That saved a wretch like me♪♪

♪♪I once was lost but now I am found♪♪

♪♪Was blind, but now I see♪♪

 

 四人のエヴァンジェリンズは、機械仕掛けの大樹の向こうに輝く大いなる意志、優しい西日に向かって歌い続ける。魂の荒野が暖かく照らし出され、祝福された子供達の歌声が響き渡り――その幻想的で雄大な情景に、女はまるで、自らの魂も、罪の穢れから解き放たれたような、そんな錯覚すら覚えた。


 ◆


 暗くて静かな闇の中で、青年の魂は彷徨い続けていた。何も見えないし、何も感じない、何も聞こえない――それでも、青年の魂は、深い深い暗闇の底で、まだ何かを手繰り寄せようと必死になっていた。


(……消えたくない)


 これは、自らで選び取った道だったはず。先ほど消えかけた時には、約束を違える恐怖のほうが上だったのだが――しかし、それでも今青年の魂に去来するのは、果てしない生への渇望だった。


(消えたくない……消えたくない……!)


 本当は、昨日の夜――目が覚めた時、自らの傍らで眠っている少女を見た時、青年はこう思った。自分が消えたら、俺のことは忘れてくれと――今の少女ならば、誰とだって絆を繋ぐことができる。もう、自分の役目は終わったのだと、心の弱かった少女の手を引いて、ここまで来れたのだから。

 それでも、青年はそれを言うことが出来なかった。理由は二点あり、一つは単純に、そんなことを言ったって、少女が納得しないのは目に見えていたこと。自分のことを忘れてくれなんて、所詮消え行く者が残す、ナルシズムでしかないと思ったから。もう一つはもっと単純で、少女が誰か、他の男と一緒になることが、青年にはどうしても許せそうに無かったからだった。


 そう、ネイのことは、自分の手で幸せにしたい。これからだってずっと一緒にいたい――とんでもない独善だということは分かっている。魂の荒野を抜けたときに、自分は生を諦めなくてはならなかったはずなのに、それなのに――。


(消えたくない、消えたくない、消えたくない!!)


 この感情は、悲しみでも、怒りでもない。絶望でもない――ただ、ただ生きたい。


(俺は、ネイと一緒に、明日に往くんだ……もう、手を引いていく必要はないかもしれない。でも、だからこそ……今度は単純に、一緒に手を繋いで、明日へ……!)


 そう、ダンバーとだって約束した。彼のことを、ずっとずっと、語り継いでいくと――だから、ここで果てるわけにはいかない、そうだネッド・アークライト、お前にはまだまだやらなきゃならない仕事がたくさんあるんだ――ここで消えるわけにはいかないだろう――青年の魂は、とにもかくにももがき続けた。手や足、そんなものがあるのかどうかすら、もはや分からない。きっと、すでに自分の魂は、砂のような一粒のような小ささになっており、四肢など存在せぬ、ただただ生に固執する、愚かしい何かへと墜落してしまっているのだろう。


 そう、ここは奈落の底。地獄の業火すらも、存在という認識の前には生ぬるいかもしれない。ここには、本当に、本当に何も無い――魂の荒野すら、まだ風景があった。ここは、それすらも無い――今までの中で、一番の孤独、世界でたった一人、全てを許す存在からすら見放された自分は、もはや消え往く定めに逆らうことも出来ずない。


(……俺は、あの子と………………)


 自我が完全に消えかける寸前まで、青年は少女のことを想い続け――。
















 


♪Amazing grace♪


 青年の魂は深淵の底で、確かに世界で一番大切な人の歌声を聞いた。何も音の無かった空間に、少女の優しい歌声が響き渡り――。


♪♪How sweet the sound♪♪


 すぐに歌声が幾重にも重なり、もはや何も見えなかったはずの世界に、一筋の糸が舞い降りてきた。


♪♪That saved a wretch like me♪♪


 それは消え往くものが今わの際に感じる、贖罪の安堵ではなく――。


♪♪I once was lost but now I am found♪♪


 自分のように一度は裏切って、見放されたものでも――。


♪♪Was blind, but now I see♪♪


 確かに自分を許すものの存在を、青年は確かに感じていた。


♪'Twas grace that taught my heart to fear♪


 ジーンの歌声が聞こえたとき、青年の魂は、確かに力を取り戻した。


♪And grace my fears relieved♪


 マリアの歌声が聞こえたとき、青年は手足が少し力を取り戻すのを感じた。


♪How precious did that grace appear♪


 ポワカの歌声が聞こえたとき、青年の視界は確かに拓け、真っ暗だった世界が輝きに包まれ始めるのが視えた。


♪The hour I first believed♪


 リサの歌声が聞こえたとき、青年が造っていた大いなる意志との壁が、確かに壊されるのを感じた。


♪Through many dangers, toils and snares♪


 再び少女の――ネイの歌声が聞こえたとき、青年は確かに、少女の魂の暖かさを感じることが出来た。


♪ I have already come♪


 そして、魂が徐々に修復されてくるのを感じる――青年は、少女の能力を通じて、自らの魂が確かに大いなる意志に繋がれ直されたのを感じた。


♪'Tis grace has brought me safe thus far♪


(そうだな……随分と遠くまで来たな……)


♪And grace will lead us home♪


(あぁ……一緒に帰ろう、ネイ……)


 根無し草の二人はどこへ帰るのか――いいや、それだって、これから自分達で見つけていけばいい。君と二人でなら、どこだって――そう思った瞬間、青年はかつて逆らった大いなる意志の引力を再び感じ始め、自分の肉体と魂とが、確かにリンクするのを感じた。それは同時に、自分の口の中に、たどたどしくも、暖かい何かが絡まってきているのを感じること同義だった。

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