3-38:戦いの最後
石橋と希愛は手を繋ぎ、走っていた。
石橋は傷を負った胸を押さえて、苦痛に苛まれながらも足は止めない。
腰に提げていた救急アンプルで止血は出来たものの、傷自体は治った訳ではない。出血は抑えられても痛みは取り除けない。モルヒネは虎嶋とエンノイアとの戦いで使い切ってしまった。
二人は五階に辿り着いた。
ここは四階までのフロアとは違い、社長室と役員用と思われる広い部屋がある作りとなっている。ここより上の階層はなく、屋上兼へリポートとなるが、残念ながらその扉は鎖で硬く閉ざされていた。
「ねえ、窓から逃げられないの?」
冷や汗を流して痛みに耐えている石橋を見て、希愛は尋ねる。
石橋は力なく首を振った。
「たとえ壁をつたって降りたとしてもだ、今の俺ではとても逃げ切れない。ここで奴を倒すしかない」
「そう……」
「刺し違えてでもお前は絶対に守る」
「ダメ。絶対に一緒に生きて帰らなきゃ」
じゃなきゃ兄ちゃんと結婚できないでしょ。
力強く希愛は言った。
「ああ、そうだな。でもどうする?」
「私、考えがあるの」
希愛の考えを聞き、にわかにぎょっとする石橋。
「本気か?」
「これでも兄ちゃんと一緒に戦ってきたんだよ。今更見くびらないでよ」
「……そうだったな。わかった。やってみよう」
石橋は希愛の事を、知らず知らずのうちに子供扱いしていたことを恥じた。
この子は命を懸けてここまで来ていたのだ。何より、一緒に戦っていたのに今更蚊帳の外に置いてしまうのも違うだろう。
決意に満ちた希愛の瞳が輝いた。
下駄の音がビルに甲高く響いている。
血の跡は五階への階段を登り切った辺りで無くなっていた。
「ふん、止血剤でも使ったか」
だが手傷を負って遠くまではいけないだろう。
よしんば窓から逃げたとて、あの傷なら追いかける事は造作も無かった。
となれば、このフロアの何処かに隠れているに違いない。
一部屋ずつ余裕をもって確かめていくか。
刀を軽く振るい、改めて両手で構えながら廊下を進んでいくと、目を疑うような光景があった。
社長室のドアが開いている。
その中で、希愛が一人で佇んでいた。
「何のつもりだ?」
誰が見てもあからさまな罠だとわかる。
どうすべきか。
わざわざ部屋に入らずに増援を呼んで来るまで待つのが確実だろう。
だが万が一、石橋も助けを呼んでいた場合はどうするか。
数で圧し潰す事は造作もないが、時間が掛かるのはあまり良くない。石橋の部下達は戦闘の練度が高く、負けはないにせよ部下の消耗も激しくなるだろう。
たかが一人のガキを確保するのにどれだけの犠牲を払ったのかと、いちゃもんをつけられるのはたまったものではない。たとえ組長とはいえ立場は盤石ではない。
下から突き上げてこようとする、欲の突っ張った連中は幾らでもいるのだ。
「ふん、その罠に乗ってやるとしようか」
柄山はゆっくりと希愛に近づいていく。
殺風景な社長室。机も椅子も調度品も何もない、コンクリート打ちっぱなしの素の部屋。
希愛は怖気づきもせず、真っすぐに柄山の目を見据えている。
「ようやく俺の所に来る気になったか」
「……」
「だんまりか。まあいいだろう。それにしても、お前の保護者はどこに行った? 尻尾を巻いて逃げたかな」
希愛の眉がわずかにぴくりと動いた。
「ま、そんなわけはねえわな」
日本最大の暴力団の組長に楯突こうと言う気概を持っている奴だ。でなければ最初から希愛を柄山に差し出すに決まっている。
柄山は出来るだけ優しく、希愛を抱きかかえようとしゃがんだ。
その時、微かに撃鉄の音が聞こえたような気がした。
すぐあとに、銃弾を発射した音が聞こえた。
「むん!」
柄山はとっさに音がした方向に刀を振り、銃弾を叩き斬った。
二つに分かれた弾は柄山には当たらずに逸れていき、壁に当たった。
殺気は感じなかった。音がした方向を見ると、拳銃のみが自動発射される簡単な機構と共に設置されていた。
続けざまに突進する音が聞こえる。社長室の入り口の方から。
「どうやら扉の影に隠れていた、と言う訳か」
突進する影は石橋であり、手にはナイフを持っていた。
ヤクザが標的を殺すには、体ごとぶち当たり、突き刺したらドスを捻れ。
人を殺る時はそうやれと教えて来たのを、石橋は忠実に守っている。
「そうだ、人を殺すってのはそうしなきゃ殺せんのだ」
刀を片手で振ったせいで、戻しには幾分時間が掛かる。その間に石橋は距離を詰めてくるだろう。密着した間合いでは刀は振るえない。
だが刀が振れないのならば柄で、拳で捌けばいいだけの話だ。
「俺を殺すにはまだ遠いがな!」
渾身のナイフの一撃を、半身翻して躱した。腹を掠めたナイフは着物を切り裂き、わずかに腹の皮を傷つけたが、命を奪るには程遠い。
翻しざまに柄で石橋の胸の傷を殴りつけると、顔が苦悶に歪む。
「惜しかったな」
柄山は刀を両手で持ち直し、上段に構えて振り下ろそうとする。
その時、柄山の腕を掴み引っ張る力を感じた。
「!?」
引っ張られた方向、背後を振り返る。
「ごめんね、おじいちゃん」
希愛が柄山の腕を掴んでいた。彼女の腕だけが化け物に変貌して。
その部分変身も長くは維持できない。
なけなしの力を使い果たし、ついには膝からくずおれてしまう。
だがその一瞬だけで十分だった。
しまったと石橋の方に振り向いた時にはもう遅かった。
深々と刃が柄山の胴に突き立てられ、口からはごぶりと血が吐き出される。
「まだ、まだだ!」
柄山が力を振り絞り、刀を振り下ろそうとする。
「おっらああああああああああ!」
突き立てたナイフを肩まで振り上げた。
柄山はのけぞり、後ろに倒れ込む。取り落とした刀がからん、という音を立てて床に転がった。
致命傷だった。
腹部に深々と刃物を突き立てられれば、長く生きていられるものではないだろう。
息は荒く、目の焦点も定まらない。
「まさか、その娘の力が残っていたとはな……」
「おじいちゃん、おじいちゃん!」
希愛は柄山の隣にしゃがみ込み、手を握っている。
目から大粒の涙をぽろぽろとこぼしながら。
「ははは、敵に涙を見せちゃあだめだぞ」
「それでもアンタは希愛の祖父には違いなかったからな。……親父」
「こんな俺をまだ親父と呼んでくれるのか」
「……ああ」
大きく息を吸い込み、柄山は言う。
「いい、人生だった」
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