3-14:暴走(後)

 男は一歩踏み込んできた。

 大振りの右フック。

 元から打撃や力比べで敵うとは思っていない。だから、相手の力を利用して組み伏せる事を選んだ。

 大振りとは言え、男のフックはすさまじいほどに速く、ボクサーの拳と遜色のない速度で石橋に襲い掛かる。

 紙一重で頬をかすめるフックをのけぞって躱し、勢いを生かして左腕で手首を、右腕で相手の二の腕のあたりを巻き込むように掴んだ。

 そのまま一本背負いの形に持っていき、思い切り投げ飛ばす。

 受け身を取れないように体を預ける形で体重をかけ、取った腕も極めて折るつもりで地面に叩きつけた――はずだった。

 男はひらりと腕を極められたまま着地し、逆に取った腕を腕力で強引に引き込んで石橋との距離を近づけようとした。


「!」


 咄嗟に石橋は腕を離し、引き込まれるのを防いだ。

 途中で骨の芯にまで響くような、嫌な音がした。腕を強引に外そうとしたせいで変な所に力が掛かり、男は肩を脱臼したらしい。

 だらんと垂れ下がった男の右腕。


「それじゃもう戦えないだろう? おとなしく帰るんだな」


 だが男は腕を一瞥し、石橋の言葉を聞いていないかのように左手で右腕を上下させている。まさか、関節をハメるつもりか。

 次の瞬間、ゴギンという鈍い音と共に男の肩が入る音がした。

 関節をハメる時は激痛がする。石橋もかつての仕事で脱臼を何度か経験しており、その痛みで悶絶した事もあった。しばらくはハメた関節を動かしたくないくらいに。というよりも、ハメた関節はしばらく安静にしていないと癖になる、と聞かされていた。無理に動かすと関節のみならずに周囲の筋肉や軟骨も損傷して、不安定になるからと。

 男はハメた腕の動作を確かめるように腕を回したり、肩を上下させている。

 石橋はかつて見た大昔の映画の敵役を思い出していた。

 感情の無いロボットが息をつかせる暇もなく追いかけてくるという筋書きの映画だったかと記憶しているが、この男はそれと似すぎている。体つきもそうだが、顔つきまでそっくりだ。まるでクローンかと見まがうばかりに。

 男は腕が問題なく動くことを確認すると、また構えを取った。

 先ほどよりももっと重心を低くして、手を開いている。

 この構えはレスリングのものに近い。という事は、タックルを仕掛けてくるか。

 高速タックルを喰らってアスファルトの上にでも転がされたら一巻の終わりだ。

 その前に、担ぎ上げられてボディスラムで硬い地面の上に背中や頭を叩きつけられるだけでも致命傷になりうる。プロレスでは単純な技とみなされがちだが、路上では単純な投げ技でも一撃必殺となる。

 ならば自分も一撃で決めるしかない。

 タックルに来るところを膝で合わせてカウンターを取る。

 石橋は決意し、相手が来るのを待ち構えた。

 じりじりと、お互いにすり足で距離を少しずつ縮めながら、どのタイミングで来るかを計っている。

 ある程度の間合いまで来た時。


 男は跳ねた。

 文字通り、跳躍した。男の身長よりも高く、石橋を軽々と飛び越えて。それはまるで体操選手のような身のこなしだった。


「何っ!?」


 完全に意識の外にあった行動を見せられて、少なからず動揺する石橋。

 男は石橋の背後に着地し、そのまま胴体を両手でロックする。

 そして木を引っこ抜くように、石橋を軽々と宙に持ち上げた。

 男の体はブリッジを描くように反った。その勢いでもって、石橋を後方に思い切り投げ飛ばす。


「投げっぱなしジャーマン!」


 放り投げられた石橋の向かう先は高層建築の壁。壁はあっという間に迫ってくるが、まだ諦めたわけではない。


「クソがっ!」


 何とか体勢を空中で整え、壁に足を付けられるように持っていく。

 壁に接地した瞬間に、衝撃を殺すように思い切り屈伸の姿勢を取った。

 そのおかげでいくらか衝撃は緩和できたものの、右足首にみしりという嫌な感触と音を覚えた。


「ぐっ」


鈍い痛みが徐々に足首に訪れ、同時に腫れあがり始めた。痛みは強さを増していく。


「……捻ったか、それとも折れたかな」


 脂汗が額に浮かび上がり、つうっと落ちる。

 何とか前を向こうと顔を上げると、突進する影が見えた。


「なっ」


 凄まじい衝撃と共に石橋は壁ごとぶち抜かれて、建物の中に吹き飛ばされた。

 中はまだテナント募集中の一室で、何もない殺風景なコンクリート打ちっぱなしの部屋。 

 体中に痛みが走る。

 どうにか上体を起こそうとした所で、顔面に拳がめり込み、壁に打ち付けられて後頭部を強かにぶつけた。

 視界が火花を飛ばし、グルグルと回転している。

 男は石橋の髪を掴み、もう片方の拳で無言で殴りつける。

 

 こいつは、やばい。


 今更石橋はそう思ったが、もう遅い。鼻血を出し、目も口も腫れて見る影もない。

 殴りつけた拳には血がべったりとついている。

 男は石橋の首根っこを両手で掴み、力を込め始める。筋肉が盛り上がり、縦横に走る血管が浮き上がる。

 こんなところで死ぬ。

 希愛は逃げただろうか。逃げて助けの一つでも呼べれば上出来だが、それまでに恐らく助かりはしないだろう。

 徐々に遠のいていく意識。目の前が真っ暗になる。


「やめて!」


 その時、男の手の力が緩んだ。声は建物の入り口の方から聞こえ、男は振り向く。


「な、んで来た……。隠れてろって言っただろうが」

「タカ兄ちゃんを置いてなんて行けない。私も戦う」


 希愛の手にはガラスの破片が握られていた。それで自分を助けるつもりなのか。

 健気な心に、しかし石橋は心臓が締め付けられる思いがした。

 小さな子供が、どうやってこんな大男相手に立ち向かうと言うんだ。無茶が過ぎる。

 気力を奮い立たせ、石橋は立ち上がった。

 足は震え、一歩先に進むのにだって時間が掛かる有様でとても立ち向かえる状態ではない。だが子供が勇気を奮い立たせていると言うのに、自分だけがへたり込んでいいのか?

 

「いいはずがねえだろっ……」


 一歩、また一歩と前に歩く石橋。

 だが男は石橋を一瞥もしない。まっすぐに標的である希愛に向かっていく。

 希愛の目前に仁王立ちする男。子どもでなくても威圧感を覚える程だと言うのに、希愛は毅然として立っている。

 

「タカ兄ちゃんを、いじめるな!」


 ガラスの破片を振り回す希愛の腕を掴む男。

 ぐっと少し力を込めるだけで希愛の顔が歪み、ガラスを落とした。

 次いで男は、ゆっくりとしゃがんで希愛の首を片手でつかんだ。


「くかっ かはっ」

「やめろ、やめろ!」


 その掴み方は柔らかく、小鳥を捕まえるかのように繊細に、しかし決して逃れられない程の力を込めている。

 殺すつもりはないようだが、どちらにしろ意識を奪って連れて行こうとしているのは間違いない。徐々に希愛が白目を剥き始め、口を大きく開けているのに呼吸ができないという苦しさで体が痙攣しはじめた。

 男はここで、初めてにんまりと笑いを浮かべた。

 猿が獲物を捕らえて食べるときのような笑顔。智慧のある生き物の残酷な笑み。

 思わず背筋を凍り付かせるような寒気を石橋は覚えた。


 白目を剥いた希愛は、やがて力が抜けて手足をだらんとさせた。

 完全に気絶した。

 ようやく石橋は男にまでたどり着き、背中を右拳で殴りつける。

 だが、その拳にはあまりにも力が無さ過ぎた。

 ダメージを受けすぎた体は力を発揮する事が出来ず、力ない拳は筋肉の壁を砕く事すら至らず、岩のような背中に押し返されるだけ。男は石橋の様子を見て、障害となりえないと確信したのか希愛を脇に抱えて歩き出した。

 

「待て、返せ。その子を、希愛を返せ。俺はようやく幸せになるんだ、幸せにしてやるんだ。でなきゃ死んだ妹、弟に顔向けが出来ねえ。その子を、返せ!」


 叫ぶ石橋。

 

 その時、希愛の体がわずかに震えた。

 

 見間違いかと思ったが、しかし更にもう一度、今度はより大きく希愛の体がびくんと跳ねた。

 男も驚き、思わず取り落としてしまう。

 落ちた希愛は、びくん、びくんと痙攣を繰り返している。


 死ぬのか。死んでしまうのか。


 石橋の脳裏にはその単語が浮かんだ。

 どうする、どうすればいい。


「きゅ、救急車か」


 石橋は懐からスマートフォンを取り出したその時、急に目の前が暗くなった。


「な、なんだ?」


 天気が急変したわけではない。

 影を落としている大きなものは希愛が倒れていた場所に居た。

 そこに居たのは、希愛ではなかった。

 様々な生物がひしめき合った集合体とでも言えばいいのだろうか。それ以外に上手い表現の仕方が見つからない。

 ライオンや象、キリン、蛇、蜘蛛やムカデ――などと言った種類を数えようとして、すぐに辞めた。キリがなさすぎる。それらはうず高く積み上がり階層をなし、天井にまで届こうという勢いだった。

 希愛はいない。見当たらない。どこへ行ったのか。気絶して動けるはずがないのに。

 ならば。もしそうだとすれば。

 石橋の驚きと同じく、男もそれを見あげて唖然としていた。


「な、んだ、これは」


 うじゅるうじゅると奇妙な音を立てて、めまぐるしく表れては消えていく獣たちの姿。

 犬が顔を覗かせたかと思えば、大きな蜥蜴らしき獣に食われて消え、かと思えば今度は鰐に横から食い破られて炭のように真っ黒な体の中にそれらは消えていく。

 一体何が起こっているのか、その場にいる二人にはわからなかった。


「希愛!」


 石橋は懸命に呼びかける。

 やがてその黒いモノは徐々に小さくなっていく。それでも石橋の三倍くらいの大きさはあった。姿が安定し、ようやく形どった姿は、ライオンの頭に山羊の胴体、そして毒蛇の尻尾を持った獣の姿だった。


「キマイラ……」


 男がぼそりと呟いた。

 キマイラ。

 ギリシア神話に登場する怪物で、テュポーンとエキドナの娘とか言われるもの。

 今の世の中において、確かに人と獣は雑じり合った。

 だがそれはせいぜい何か一つとであり、キマイラのように三つも四つも、などといったキメラ人はおよそ存在しない。かつてはいたと噂でささやかれてはいたが、あくまで噂は噂だ。

 しかし今目の前にいる存在は、明らかに多くの獣たちがひしめいていた。

 石橋ははっきりと目にしている。


 キマイラはまず大男に視線を向けた。

 ライオンの頭は男に対して唸り声を上げる。男はわずかに身を竦ませた。

 その一瞬の間に、キマイラは男に飛び掛かった。


「があっ」


 男の叫び声と共に、肉を切り裂く音が聞こえた。

 同時に鮮血が飛び散り、床や壁が赤い花が咲いたかのように彩られる。

 あれだけの筋肉の鎧に覆われていた男の肉体は、キマイラに袈裟懸けにされて胸から腰まで爪痕が大きく刻み込まれていた。獣の爪の威力は、しょせん人間など紙きれのように容易く斬ってしまうのだ。

 呆然と見ていた石橋は、ふと男の傍らにネックレスが転がっている事に気づいた。爪の一撃で引っかかってちぎれたのだろうか。

 そのネックレスは見覚えのある形をしていた。

 Y字型の変形十字架。例の教団のシンボルとなっているもの。


「教団の手先だったのか……」


 いよいよ奴らも本腰を入れて来たという事だろう。

 

 キマイラは倒れた男を見下ろしていた。瞳の色は黒曜石のように黒く輝き、まるで思考が読めない。

 男が動かない事を確信したのか、キマイラは石橋の方を向いた。

 ゆっくりを獲物を見定めるように歩を進めてくる。静かに、足音を立てず。


「俺がわからないのか、希愛」


 二歩、三歩、進んでくる。

 そして石橋の目前にまでキマイラは迫る。喉の奥から唸り声が響いてきた。

 俺もやられる、のか。

 石橋は拳を握り、キマイラの眼を見据えて叫んだ。


「俺だ、石橋だ。タカ兄ちゃんだよ。忘れたのか!」


 声を聴いて、びくりとキマイラの体は震えた。

 キマイラは石橋の眼を見て一声鳴くと、その姿を解いた。

 黒い糸がほどけて煙のように立ち上って消えていき、元の少女の姿に戻っていく。


「に、いちゃん」

「希愛!」


 化け物に変貌してしまったがために、希愛の服は破れ裸体を晒していた。

 酷く汗をかいており呼吸も荒く、顔色も蒼白で血の気が失せている。

 ひとまず今起きた出来事は脇に置き、石橋は羽織っていたジャケットを希愛に着せた。

 その後懐からスマートフォンを改めて取り出し、ある番号に急いで電話を掛ける。


「俺だ、石橋だ。今すぐここに来てくれ。住所はGPSでわかるだろ。ああ、急患頼む」

  

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