第57話・ドキドキ×美月さん
外では涼しげな風がそよそよと吹いて、暑くもなく寒くもなく今が一番過ごしやすい感じだ。これから梅雨へ入り不快指数の高まる夏がやって来るかと思うと非常に嫌になる。
正直、夏はあまり好きじゃない。暑いし虫は多くなるし、蒸し暑いし宿題はたんまり出るし、くそ暑いし蝉はうるさいし、めちゃ暑いし汗は止まんなくなるし超暑いからな。それくらい夏が嫌いなわけだ。
だいたい夏における良いところなんて、長期の休日があるとくらいだしな。ああ、それともう一つだけ夏の良いところがあった。女性が薄着に――ゲフンゲフン。
そんな事を考えつつ、俺は美月さんと共にスーパーへの道のりを歩く。
「さあ、色々と見て回りましょう」
15分程歩いた所にあるスーパーへ辿り着くと、美月さんは手際よく出入口に置かれているカートの上にカゴを乗せて店内へと入って行く。
「夕食はどうしましょうか?」
「んー、とりあえずはぐるりと店内を回ってみない?」
「分かりました。そうしましょう」
その言葉に微笑みながら頷く美月さん。いつもの事ではあるけど、美月さんは相手の意見を最大限に尊重して行動をしてくれる。本当にいい人だ。
とりあえず店内を時計回りにゆっくりと見て行く事にし、俺がカートを押して行きながら食材を見て回っていた。
「美味しそうな野菜が沢山並んでますね」
「そうだね。サラダ盛りを作るのもいいかも」
「あ、いいですね。それじゃあいくつかカゴに入れておきましょう」
美月さんは手馴れた様子でレタスやパプリカなどの野菜を手に持ち、丁寧にカゴへと入れていく。そういう手馴れた様子を見ていると、普段からしっかりと料理を作っている事が分かる。
「さあ、行きましょう」
ある程度の野菜をカゴに入れ終えると、美月さんはカートの手押し部分を掴んでいる俺の手の上にそっと自分の手を重ねてきた。
その至って自然な美月さんの行動に、俺は不覚にもドキドキしてしまった。
「どうかしましたか? 顔が真っ赤ですよ?」
「なっ、何でもないよっ!? さあ行こう!」
俺は自分の手の上に重なった美月さんの手が自然に離れるようにと、急いでカートを動かして前へと進んだ。
――あー、緊張した……美月さんてたまにこういった事を自然にやってくるからドキッとするんだよな。
彼女はああいった事をあざとくやる人ではないから、まず間違い無く自然にしている行動なんだと思う。
それにしても、本物の天然系女子ってのは恐ろしいもんだ。こうやって極めて自然に男を勘違いさせていくんだから。思わず辛い過去を思い出してしまいそうになる。
俺の一歩後ろからついて来る美月さんの存在を感じながら、お肉とお魚のコーナーへと足を進めて行く。
そして二人で向かった先のお肉お魚コーナーには、今日も相変らず美味しそうな品が所狭しと並んでいた。このスーパーの生鮮品の品揃えと品質は、周辺にあるスーパーの中でも群を抜いている。
「あっ、今日はマグロが安いな」
実は俺、マグロが海産物の中でも特に好きで、回転寿司なんかに行くとマグロの握りだけを延々と食べているくらいの好物だ。特に赤身が美味い。
俺は夕飯のおかずにマグロの刺身でも出そうと、赤身のブロックが入ったパックを手に取る。
「美月さん、これカゴに入れておくね――って、あれっ?」
後ろを振り向くと、さっきまで居たはずの美月さんの姿がどこにもなかった。おかしいなと思いながら辺りを見回すと、何とお肉コーナーの一角にある試食コーナーのおばちゃんの所に美月さんが居るのが見えた。
――何でだろう。ここへ来ると必ずあの一角に居る試食のおばちゃんに俺の連れは捕まってるんだよな……。
ふうっと息を吐き出しながら美月さんが居る場所へと向かう。
「美月さん」
「あっ、龍之介さん。これ、とっても美味しいですよ」
新商品と書かれたウインナーを美味しそうに食べている美月さんは、にこにこと俺を見ながら小さなテーブルの上に置かれている試食用ウインナーを爪楊枝で刺す。
「はい、龍之介さんもどうぞ」
美月さんは左手をウインナーを持つ右手の下に添え、丁寧に俺の口元へウインナーを差し出してきた。
その様子を近くに居る試食のおばちゃんが微笑ましそうに見ているのが気になってしまう。
「う、うん。ありがとう」
恥ずかしさを感じながらも美月さんの行動を素直に受け入れ、差し出されたウインナーを口に入れて噛み切り咀嚼する。
「どうですか? 美味しいでしょう?」
「あ、うん。そうだね」
俺は咀嚼したウインナーを飲み込んでからにこっと笑顔を浮かべてそう答えた。
しかし美月さんにあーんをされたのが想像以上に効いたのと、隣でその様子を見ているおばちゃんが気になり、正直、味がどうかなんてよく分からなかった。
とりあえず美月さんはこのウインナーを気に入ったらしいので、商品が入った袋を二つおばちゃんから受け取ってカゴへと入れる。
その際におばちゃんが『可愛らしい彼女さんね』と言ってきたのが妙に気恥ずかしかったが、一応ありがとうございますとは言っておいた。だけど彼女でもないのにそう答えた自分がちょっと嫌になった。
でも傍から見ると、俺と美月さんの関係は彼氏彼女に見えるという事なのだろう。それはそれでちょっと嬉しいと思ってしまう。
「どうかしました?」
「ん? いや、何でもないよ。さあ、次を見て回ろう」
そして食材選びを再開した俺と美月さんは、のんびりとしたペースで店内を歩き回っていた。
「そういえば、こちらに来て龍之介さんと出会ったのはここが初めてでしたね」
「あっ、覚えててくれたんだね」
「もちろんです。私にとってとても大切な出会いだったんですから。だから忘れたりしません。絶対に」
美月さんの涼やかな笑顔を見ていると、彼女はその言葉通りにあの時の出会いを忘れたりはしないんだろうと思えた。それは素直に嬉しく思う。
「あの時の美月さん、カレーの具材を選ぶのに相当迷ってたもんね」
「そうでしたね。あの時に龍之介さんが声をかけてくれなかったら、きっととんでもないカレーができてたんでしょうね」
「そうかもしれないね」
美月さんと顔を見合わせてくすくすと笑いあう。ほんの数ヶ月前に出会った見知らぬ他人の美月さんと、今はこうして仲良くしている。
もしあの時に美月さんに声をかけなかったら、俺は美月さんとこうして仲良くなれたんだろうか。人生にもしもは無いけど、それでもつい考えてしまう。選ばなかった選択肢のその先を。
「そうだ! せっかくだから今日はカレーにしよっか」
「いいですね。そうしましょう」
夕食のメインメニューは決定した。後は美月さんと一緒にメニューに合わせて食材をカゴに入れて行くだけ。
「こうして一緒に買い物をしていると、まるで家族みたいですよね」
「えっ?」
美月さんは食材を見ながらそんな言葉を口にした。そしてその言葉を発した後も、こちらを向く事無く食材を手に取ってはじっくりと吟味をしている。
その言葉にどれ程の意味があるのかは分からないけど、それでも俺を動揺させるには十分な内容だった。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます