第206話・憧れ×やり取り
散り散りになったように白い雲が見える空。スッキリとした晴れ模様とは言えないけど、太陽の陽射しはそれなりに降り注いでいる。いい感じの陽気に涼しげな風が時折吹いてくることを考えれば、外へお出かけするには十分な空模様と言えるだろう。
まひろの自宅を初めて訪れてから1週間後、ゴールデンウイークを目前に控えた4月最後の日曜日。俺はまひろとの約束どおり、最寄り駅近くにある時計搭の下へと来ていた。
約束した13時まではあと30分以上もあるが、前日の夜から落ち着かない気分を抱えていた俺は早めに家を出てしまった。
まひろと約束をしてからだいぶ経つのに、なぜ“昨日の夜から”落ち着かないのかと言うと、それはなんとも単純な理由で、まひろが女の子だということをすっかり失念していたからだ。
男性だと思っていた相手が本当は女性だったと判明してからまだ1ヶ月程度。その相手を今まで10年以上男性だと思って過ごしていたのだから、その
それはまひろへの話し方や接し方、考え方だったりと、色々な場面でその弊害は出る。これはもう、状況に慣れてしまうまでは仕方のないことだろう。
そうは言っても日曜日のお昼下がりに女の子と待ち合わせなんて、なんだかデート的な感じでドキドキするじゃないか。しかもその相手があのまひろとなると、その緊張感は半端ではない。
そのことに昨日の夜になってようやく気づき、落ち着かない気分を膨らませていたと言うわけだ。
「ふうっ……」
更に緊張感が高まっていく中、時計搭の壁に背を預けてまひろがやって来るのを待つ。
今日はまひろから“相談がある”とのことでやって来たわけだが、どれだけ考えてもいったいどんな相談事なのかは正直想像がつかない。そのことが俺の中の緊張感を2倍にも3倍にも高めていく。
「止めだ止めだ」
頭を軽く左右に振って空を仰ぎ見る。
考え込んでいても仕方がない内容なのは分かるので、別のことを考えよう。慌てなくてもまひろの相談事は30分後には判明するのだから。
てことで別のことを考えて気を紛らわせようと思ったわけだが、特にこれと言って考えるような内容が思いつかない。
「うーん……おっ、そうだ。まひろが着て来る服装でも予想してみるか」
なんとも単純だが、気を紛らわせる時間潰しとしては最適な内容ではないだろうか。というわけで、早速まひろがどんな服装で来るかを考え始める。
とはいえ、女性としてのまひろの私服姿は水族館で真実を話してくれた時の一度しか見たことがない。先週の休日にまひろの家を訪れた時もなぜか学生服だったし、正直予想するにもその材料が足りない。
男性に
そう思ってまひるちゃんが着ていた服装を思い出してみると結構そのバリエーションは多いように感じるが、基本的にスカートの着用率が高く、女の子というとこを強く意識させる可愛らしい服装が多かったように感じる。
個人的には
「――待たせてごめんなさい。龍之介くん」
妄想に
その声に再び緊張が高まりながらも、短く息を吐いてから気合を入れ直してまひろが居る方向を振り向く。
「いや、大して待ってないから大丈夫。おっ?」
「あ、あの……やっぱり変かな?」
まひろの服装に別におかしなところはない。いつもどおりよく似合っていると思う。
しかしなぜその服をチョイスして来たのだろうという疑問は湧いてくる。
「ああいや、別に変なことはないけど……でも、なんで学生服を?」
「えっと……今まで女生徒用の学生服を着る機会がなかったから、なんだか嬉しくてつい……」
まひろは恥ずかしそうに顔を俯かせた。自分でも学生服を着て来たことに対して変だという思いはあったのだろう。
だけどまひろの気持ちは解るような気はする。俺も中学高校と進学した時に新しい制服を買った時には、嬉しくて何度も入学前に着ていた覚えがあるからな。
それにまひろは今までの間ずっと女生徒の制服を着ることができなかったわけだから、その気持ちは俺が感じていたものよりも更に強いのだと思う。そう考えれば以前まひろの家を訪ねた時に制服姿だったことにも納得できる。
「そっか、俺は全然気にしないから大丈夫だよ」
「うん……ありがとう」
小さくにこやかに微笑むまひろの表情はそれはもう可愛らしく、キュッと抱き締めたくなる衝動が出てくる。
しかし女性であるまひろをこんな公衆の面前で抱き締めるわけにはいかない。もしもそんなことをすれば間違いなくまひろから嫌われ、周りの人から即警察へと通報される事態になるだろう。
まあ例え2人っきりだったとしても、そんなことはしないけどな。そんな度胸なんて初めっから持ち合わせていないのだから。
「ところで相談てなんなの? この場で話せること?」
「あ、えっと……それじゃあ私について来てもらっていいかな?」
「分かった」
てくてくと商店街がある方へ歩き始めるまひろの歩調に合わせて隣に並び、どこへ向かうのだろうかと周囲を見回しながらついて行く――。
「目的の場所って、ここ?」
「う、うん……ここ」
商店街の中にある携帯ショップの前で立ち止まったまひろは、恥ずかしげに顔を俯かせてからそそくさと店の中へ入って行く。
「ほ、ほら、龍之介くんも早く来て下さい」
「あ、ああ」
自動ドアを抜けた先で恥ずかしげに小さく手招きをするまひろ。
そんな可愛らしい姿に釣られるようにして入店すると、まひろはさっそく最新モデルの携帯が展示されている場所へと向かった。
「これ、色が可愛いね!」
ライトブルーの携帯を手に持つと、まひろは物珍しそうにしながらテンション高く色々な部分見回す。
「まあいい色だとは思うけど……ところでまひろさん、俺に相談てなんなんだ?」
「あっ、そうだったね」
携帯を前にして相談の件を失念していたのか、まひろははっとした様子で持っていた携帯を元の場所に戻すと、俺の側へと近寄ってから小さく声を発した。
「あのね……私も携帯を持ちたいから、どれがいいのか一緒に選んでほしいの……駄目かな?」
「もしかして、それが俺にしたかった相談事?」
「うん……」
もじもじしながら遠慮がちに小さな声でそう言うまひろ。
相談事と言うからいったいどんな内容かと思っていたけど、この内容は本当に意外で意表を突かれた。
「まあ、一緒に携帯を選ぶのはいいんだけど、なんでみんなに内緒にするの?」
「だって……みんな携帯とか持ってるのが当たり前みたいだし、私だけ持ってないなんて恥ずかしくて言えなかったから……」
なるほど。それが理由で俺だけにこのことを相談したかったってわけか。
別にそんなこと気にしなくてもいいのに――とは思うものの、それは携帯を普通に持っている俺がそう思うだけで、携帯を持っていないまひろにとってはそうではないのだろう。
それにしても、まひろが忘れているようだからあえて言おうとは思わないけど、少なくとも茜に杏子はまひろが携帯を持っていないことを知っているはずだ。なにせ中学生二年生の時に4人で遊んでいる最中、携帯の話題をした時に持っているかどうかを聞いたことがあり、その時にまひろははっきりと『持っていない』と答えているのだから。
「分かったよ。一緒に合う携帯を探そう」
「ありがとう、龍之介くん」
「うん。とりあえずざっと店内を見て回って、好きなデザインの携帯を選ぶといいよ」
「ありがとう、そうするね」
まひろは嬉しそうに表情を
携帯を初めて買い与えてもらったのは、中学生になって間もなくのことだった。
あの時は本当に嬉しくて、しばらくの間はずっと暇さえあれば携帯を
あれこれと携帯を手に取って見ているまひろを横目で見つつ、俺も気になる携帯を手に取る。
「おっ、これいいな」
シックでシンプルなデザインの黒のスマホを手に取り、脇に置いてある説明書へと視線を移す。
「ほー、これ、電池容量が結構あるな……」
現在使っているスマホは中学生の時に初めて買ってもらった物だから、そろそろ色々な部分にガタがきているというか、やはり古臭さは感じるようになっていた。
なにより問題なのは電池の減りがもの凄く早くて、アプリゲームでもしようものなら1時間と連続で使えない始末。そろそろ買い替え時かなとは思っていたので、タイミングとしてはちょうど良かったのかもしれない――。
「龍之介くん、とりあえず候補を三つまで絞ったよ」
「どれどれ――」
携帯ショップへ訪れてから約20分後、候補の携帯を手に持ったまひろがそれを見せてきた。
「なるほど……まひろはガラケーとスマホのどちらがいいの?」
「がらけー?」
そう言いながら小首を傾げるまひろ。
一般的にはガラケーと言えばスマホが登場する前の携帯――という認識だと思うが、今まで携帯を持ったことがないまひろには分からない単語なのだろう。
「あー、ガラケーって言うのはガラパゴス携帯の略で、まひろが右手に持ってるスマホが販売される以前からあった携帯のことだと思ってくれればいいよ」
「そうなんだね。具体的にはどんな違いがあるの?」
「そうだなあ……俺もそんなに詳しいわけじゃないけど、ガラケーは携帯電話、スマホは通信に特化したツール携帯って感じかな」
「スマホは携帯電話じゃないの?」
「いや、スマホもちゃんとした携帯電話なんだけど、どちらかと言うとさっき言ったように通信に特化してるから、電話って一面が酷く薄い感じなんだ。イメージ的には電話機能のついた小さなノートパソコンを持ち歩いてる――って感じかな。だからインターネットなんかを使用主軸にするならスマホって感じになるのかな」
「使い勝手はどっちがいいのかな?」
「そうだな、俺はガラケーは使ったことはないけど、スマホはタッチパネル操作だからボタン式のガラケーよりは使いやすいイメージがあるかな。まあ、どちらも慣れだとは思うけどさ」
「そっか……じゃあどちらにしようかなあ……」
ガラケーとスマホを交互に見ながら真剣な様子で悩むまひろ。初めてのことなのだから、このように悩む時間も必要だろう。
そんな一生懸命に悩んでいる様子のまひろを見ていると、ふと俺が手に持っているスマホを見て小首を傾げながら口を開いた。
「あれっ? 龍之介くんも携帯を見てたの?」
「ん? ああこれ? 結構好きなデザインだったし、持ってるスマホも古いからそろそろ機種変更しようと思ってたんだよ。だからこれを予約しておこうと思ってね」
「そうなんだ。ねえ、私にも見せてもらっていいかな?」
「いいよ。はい」
手に持っていた携帯を近くの展示棚にそっと置いたまひろは、俺が手渡したスマホを観察するようにまじまじと見回す。
俺が手渡したスマホは、先ほど見ていた黒のスマホ。スマホとしてのスペックはそこそこ高いし、なにより電池容量が一番多いのが決め手だった。まあ、色とデザインも気に入ってたけどな。
「龍之介くんはこれに買いかえるんだよね?」
「ああ。今日は無理だけど、本体を取り置きしてもらってから後日機種変更に来るよ」
「そっか……うん、私決めたよ。龍之介くんと同じ物にする」
「えっ!? なんで!?」
まひろの口から飛び出した言葉はあまりにも意外過ぎ、思わずそう口にした。
だってまひろが候補として持って来た携帯は、ライトブルー、ワインレッド、ライトイエローのカラーリングで、どれも少し丸みを帯びた小さくてコンパクトな感じのデザイン。
それに対して俺が選んだ携帯のカラーは黒で他のスマホに比べて多少大きめ。とてもまひろが選んだような可愛らしいフォルムやカラーとは程遠い。だからまひろがわざわざ俺が買おうとしているスマホを選んだ理由が分からなかった。
「龍之介くんがこれにするなら、私も同じ物にしておいたら色々と教えてもらえるかなと思って。駄目かな?」
「いや、別に駄目ってことはないけど……。色とかデザインとか好みもあるだろうし、わざわざ俺の欲しい機種に合わせなくてもちゃんと使い方は教えるぜ?」
「それなら大丈夫。別に色もデザインも嫌いじゃないし、それに――」
「それに?」
「ううん、なんでもない。それじゃあ龍之介くん、私はこれに決めたから、契約後に色々と使い方を教えてくれないかな?」
「あ、うん。分かったよ」
「ありがとう」
まひろは嬉しそうにそう言うと、持って来ていた他の携帯を元の場所に戻してから携帯の契約に向かう。それから一緒に契約内容の説明を聞きながら確認をし、携帯の契約を進めた。
ちなみにまひろはこの日のためにちゃんと契約に必要な書類をアナスタシアさんに言って揃えていたため、契約はなんのトラブルもなくスムーズに終わった――。
「――てな感じで、メールを打つ時には今見せたように操作して文章を打つんだよ。分かった?」
「うん、よく分かった」
無事に携帯の契約が済んだあと、俺はまひろと一緒にワクワクバーガーへ来てから基本的なスマホの操作を教えていた。
もちろん新機種だから俺も使い方を熟知しているわけではないので、まひろと一緒に取り扱い説明書を見ながらの作業になったけどな。
「とりあえず今まで教えたのが基本的な使い方だから、あとは自分で色々と
「うん、ありがとう。それと……一つお願いがあるんだけどいいかな?」
「なに?」
「電話番号は知ってるけど、龍之介くんのメールアドレスは知らないから教えてくれないかな?」
なんとも照れくさそうにそんなことを聞いてくるまひろが可愛くてたまらない。やっぱり男装してた時に何度か抱き締めておけばよかったな……。
「ああ、そういえばそうだった。俺もまひろの電話番号とアドレスを知りたいし、今の内に交換しておこう」
そんな今更な後悔を存分に感じつつ、まひろとのアドレス交換などを進める。
「ええっと……」
俺が表示させたメールアドレスの画面を一生懸命に見ながら、それを手打ちしていくまひろ。
今ではそんなことをする必要すらない便利な機能もあるのだけど、文字を打つ練習の一貫としてあえてそれをやらせている。そして時折『あっ、間違えちゃった』などと言いながら真剣に文字を打ち込んでいるまひろの表情に癒しを感じつつ、お互いに必要な情報の交換を終わらせた。
「――ありがとう、龍之介くん。これでいつでもお話したりメールしたりできるんだね」
「あ、ああ、そうだな」
本当に嬉しそうな満面の笑顔でそう言われると、嬉しく感じると同時に気恥ずかしさも感じる。でもまあ、まひろがこんなに喜んでくれたんだから本当に良かったと思う。
それからもうしばらくの間ワクワクバーガーで談笑をしたあと、満足げな表情をしたまひろと駅前で別れて自宅へと戻った。
× × × ×
「ん?」
まひろの携帯選びにつき合った日の夜。机に向かって制作研究部で使うシナリオの
誰からだろうと思ってすぐにメールの画面を開くと、そこには今日登録したばかりの涼風まひろの名前が表示されていた。さっそく使い方を覚えて色々と試してるんだなと思いながらメール画面を開くと、そこには件名に“初めてのメールです”――本文には“今日はありがとうございます。これからもよろしくお願いします”――と短く文章が書かれていた。
その短文がなんとも初心者らしくて可愛らしく、思わず表情が緩まる。俺はまひろのメールに対して即座に返答の文章を書いて送信した。すると時間こそかかるものの、しっかりと返答の文章が返ってくる。
そこからまひろとのメールのやり取りが始まったわけだが、本当に他愛のないことばかりをやり取りしていた。それはテレビの話や学園でのこと、スマホの使い方の質問など、本当にささいなことだ。
まひろからすれば、携帯を初めて手にして興奮しているような状態なんだと思う。俺も携帯を手にしてしばらくの間は、むやみやたらに友達にメールを送っていたから気持ちは分かる。
だからしっかりとまひろにつき合ってあげようと思った。なにせまひろが初めてその携帯に登録してくれたのは、他ならぬ俺なのだから。
そんなことを思いつつまひろとのメールのやり取りを続け、そのやり取りはその日の深夜遅くまで続くこととなった。
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