第204話・初めて×訪問

 薄紅色の花を咲かせていた桜もすっかり散って、葉桜の若葉が顔を見せ始めた4月後半のお昼前。俺は妹の杏子と一緒にまひろから渡された地図を見て、自宅の最寄り駅から3駅離れた場所にあるまひろの家へと向かっていた。


「――ここで……いいんだよな?」

「お兄ちゃんが貰った地図が正しければここだね」


 手にした紙に書いてある地図を隣に居る杏子に見せながら、俺は目の前にある現実を見て憧れと驚きを交えた溜息を吐き出す。

 こうしてまひろの家を訪ねるのは初めてだけど、目に映る大きな洋風のお屋敷を見た俺は、そのあまりにも現実離れした大きなお屋敷を前にし、マヌケに口を半開きにした状態であちこちを見回していた。


「これ、本当にまひろの家なのかな?」

「地図の位置と住所はここで間違ってないと思うし、多分ここだと思うよ?」

「だとしたら、まひろってとんでもなくお嬢様だったんだな……」


 土地の広さがどれくらいあるのかは分からないけど、高さが約3メートル、横幅が約10メートルほどはあるだろうかという大きな柵門さくもんからお屋敷までの距離は、ぱっと見ただけでも100メートルほどはありそうだ。


「お兄ちゃん、呆気に取られてないでチャイム押さないと」

「あ、ああ、そうだな」


 杏子の言葉に辺りを見回すのを止め、大きな柵門の右にある門柱に取りつけられた呼び出しボタンを押す。


「――はい。どちら様でしょうか?」


 呼び鈴を鳴らしてからしばらくすると、インターフォンからまひろとは違う涼やかで品のある声が聞こえてきた。


「あっ、あの、自分はまひろさんの友達で鳴沢龍之介って言います」

「あなたが龍之介さんですか。まひろからいつもお話を聞いてます。今門を開けますね」


 そう言われた次の瞬間、大きな柵門が真ん中から左右にゆっくりと分かれながら開いていく。


「さあ、どうぞお入り下さい。私は今から玄関先に向かいますので、ご遠慮なく扉を開けて中へとお入り下さい」

「ありがとうございます。杏子、行くぞ」

「うん」


 手土産として持って来たケーキの箱の持ち手部分をしっかりと握り直し、大きなお屋敷へ向けて足を進めて行く。

 綺麗に整えられた木々、そこはかとなく高級感を醸し出している彫刻品。そんな庭内はこれまた現実離れした美しさを感じさせ、俺の目を大きく見開かせる。


「――いらっしゃいませ」


 お屋敷までの長い道を歩いて玄関を開き中へ入ると、そこには見目麗みめうるわしい長身で金髪の青い瞳をした女性が立っていた。

 その優しげな表情と顔立ちはどこかまひろに通じるものがあり、俺は一目でその人物がまひろの母親だと分かった。


「は、初めまして! 僕は鳴沢龍之介と言います。こっちは妹の杏子です」

「初めまして。妹の鳴沢杏子です」


 杏子がペコリとお辞儀をしたのを見てから、俺も同じく頭を下げて挨拶をする。


「初めまして。私はまひろの母親で、“アナスタシア”と申します。以後お見知りおきを」

「こ、こちらこそ、よろしくお願いします」


 優雅に、それでいて上品にペコリと頭を下げるアナスタシアさん。

 初めてお会いしたからというのもあるけど、それ以上にあまりにも美しい人が目の前に居ることで俺は異常なほど緊張をしていた。世の中に美人ってのはたくさん居るとは思うけど、これほどまでに洗練された美人はかつて見たことがない。

 ここまでの美人が世の中に存在するのかと思いつつも、あのまひろの母親なのだから美人で当たり前か――などと妙に納得してしまう部分もある。


「さあ、こんなところではなんですから、どうぞお上がり下さい」


 アナスタシアさんはそう言うと、床に置いてあるとてもふかふかで気持ち良さそうなスリッパを右手全体を使って上品に指し示した。


「ありがとうございます。お邪魔します」

「お邪魔します」


 緊張しながらも靴を脱いでスリッパを履き、脱いだ靴を揃えて玄関の隅へと並べる。

 それが終わるとアナスタシアさんは『こちらへどうぞ』と言って屋敷の中にある一室へと俺たちを通してくれた。


「――お口に合うか分かりませんが、是非召し上がって下さい」


 20畳ほどはあるだろうかという広い部屋に通されたあと、お茶を用意するために出て行ったアナスタシアさんが10分ほどしてから戻って来ると、座り心地抜群のソファーの前にある透明なテーブルの上に、紅茶と綺麗な色のジャムのような物が入った小さな深皿とスプーンを並べ始めた。


「あの、これはなんですか?」

「これはジャムです。こちらからラズベリー、ストロベリー、ローズで、一番右端の物は蜂蜜です」


 杏子の問いかけに対し、丁寧に手を添えながら器を持ち上げて答えてくれるアナスタシアさん。

 紅茶と一緒に出てきたからなんとなくジャムだろうなとは思っていたけど、実際にロシア人であるアナスタシアさんが持って来ると本格的に感じるから不思議だ。

 ちなみにアナスタシアさんがロシア人だというのは、まひろから以前に聞いている。名前は聞いてなかったけどな。


「それじゃあこれがロシアンティーなんですね。飲むのは初めてですけど、確かお好みのジャムを紅茶に入れて飲むんですよね?」

「確かにそう仰られる方は多いのですが、ロシアでは紅茶に直接ジャムを入れて飲む人はほぼ居ません」

「えっ!? そうなんですか?」


 その言葉に思わず声が出た。杏子の発言に答えてくれたアナスタシアさんの言葉はとても意外で、単純に驚きを隠せなかった。

 なぜなら俺の中でも、杏子の言うようにロシアンティーとはお好みのジャムを入れて飲む物だと思っていたからだ。


「どこでロシアンティーがジャムを直接入れて飲む――ということになったのかは分かりませんが、本来ロシアンティーはスプーンでお好みのジャムを口に含んでから紅茶を飲む――というのが普通なんです」

「へえー、そうだったんですね。初めて知りました」


 自分が正しいと、常識だと思っていた知識が覆る瞬間というのは多々ある。それは歴史の流れの中でも見られることで、一般的によく知られていることを例に出すとしたら、天動説と地動説が有名ではないだろうか。

 大雑把に言えば太陽や他の天体が地球を中心に回っているか、太陽を中心に回っているかという違いだが、2世紀から15世紀頃までは地球を中心に太陽や天体が回っている天動説が世間での常識であり正しい認識だった。

 しかし16世紀頃には天動説に異を唱える地動説が出現し、17世紀頃に望遠鏡が世に出てからは天動説の矛盾が証明され、今の地動説が世間の常識と正しい認識に成り代わったという歴史がある。

 こんな出来事を思うと、今ある知識をドヤ顔で披露するのはもしかしたら恥ずかしいことなのかもしれないけど、それは人間が日々色々な物に対して真実を追い求めているからであり、決して恥ずかしいことではない。要は変化に敏感になり、その変化を受け入れられるかどうかが重要なんだ。


「それじゃあ、早速いただきます」


 目の前にあるジャムが入った皿を見ながら、まずはどれを口に含んでみようかと考えるが、本場のロシアンティーの飲み方に挑戦するのは初めてだし、どれを最初にしようかと迷ってしまう。


「もしどれを選ぼうか迷っているのでしたら、私はローズをお勧めします。薔薇の香りが鼻に抜けてとても美味しいですよ」

「あ、そうなんですね。それじゃあローズをいただきます」


 ローズのジャムが入った小さな深皿に添えられたスプーンを手に持ち、それを適量と思われるくらいにすくってから口の中へと運び含み、続けて紅茶を口にする。


「おお……」


 ローズジャムが紅茶の温度で溶け、口いっぱいに薔薇の味を広げると共にそのかぐわしい匂いを鼻へと伝わらせる。これは想像していたよりも美味しい。


「いかがですか?」

「はい、とっても美味しいです! 薔薇の味がふわーっと口全体に広がって、それと同時に鼻に抜けてくる香りが凄くいいです」

「お気に召していただいたようで良かったです」

「はい! 杏子、お前も飲んでみろよ」

「うん」


 その言葉に従い、杏子も同じくローズジャムを口に含んでから紅茶を口にする。


「本当だ! 凄く美味しい!」

「良かったです。今からお茶請けも持って来ますので、ゆっくりとご堪能下さい」


 それからアナスタシアさんがお茶請ちゃうけを持って戻って来るまでの間、俺と杏子はそれぞれのジャムを口に含んで紅茶を飲みながら、初めてのロシアンティー体験を楽しんでいた。

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