第181話・油断×切っ掛け

「それじゃあ、行ってきます」

「本当について行かなくて大丈夫?」

「うん、大丈夫。だからお母さんはお仕事頑張って」


 私は男の子っぽく見える長ズボンに上着を着て家を出た。

 小学校一年生のお祝いに買ってもらった赤のランドセルは、今私の背中にはない。今私の背中にあるのは、こちらに来てから買ってもらった黒の真新しいランドセル。

 少し前にこの町へと引っ越して来てから、今日が初めての小学校への登校日。本当は二年生の始まりに間に合わせたかったけど、それは両親の仕事の都合もあって間に合わなかった。

 でもそれは仕方ない。お父さんにもお母さんにも、今回は私のせいで大変な迷惑をかけてしまったのだから。


「大丈夫かな……」


 お母さんにはああ言ったものの、やっぱり心の中は不安でいっぱいだった。

 誰1人として知り合いなど居ない通学路。

 たくさんのカラフルなランドセルを背負った子たちが同じ小学校へと向かって行く様を見ながら、私の心は既に大きな不安に支配されつつあった。

 今度の学校ではみんなと仲良くやっていけるのか、友達はできるのか、なによりまた苛められたりはしないだろうかと。そんなことばかりを考えていた。

 なにせ私は前の学校で酷い苛めに遭い、こうして逃げるようにこの町へと転校して来たのだから。

 当初はなんで自分がいじめられるのかが分からなかった。特になにかをした訳でもない。いつの間にかそうなっていたとしか言いようがない。

 苛めの内容こそ様々だったけど、男子からの嫌がらせは特に多く、私は毎日のように泣かされていた。

 女子はそんな私に対して最初は同情的に見えていたけど、それも日が経つにつれて徐々に変わり、段々と私を無視するようになっていった。

 お母さんやお父さんにちゃんと相談していればまだ良かったのかもしれないけど、やっぱりお母さんやお父さんに心配をかけたくないという思いから、私はそれをずっと我慢していた。

 そしてそんな日々が1年近く続いたある日、とうとう私の心は壊れてしまった。

 すべてに耐え切れなくなった私は、その日泣きながらお母さんに今までのことを話した。

 私の話をせき止めることなく聞いてくれたお母さんは、最初に口を開いた時にこう言った。『気づいてあげられなくてごめんね』――と。

 そしてお母さんは、“もう学校へは行きたくない”――と言う私に向かい、優しげな笑顔を浮かべて別の道を勧めてくれた。それが知らない土地に引っ越してやり直すことだった。

 私はお母さんの提案に対してしばらく悩んだあと、転校する決断を下した。


「――緊張しちゃうなあ……」


 転校前に何度か訪れた小学校。私はその校門前に立ってドキドキと鳴る胸に手をやっていた。

 これから先、ここで楽しい生活を送れるのか……そんな不安でいっぱいの気持ちを抱えながら、私は職員室へと向かって行った――。




 職員室で待つ担任の先生の所へと向かったあと、私はこれから所属するクラスのみんなへと挨拶をすることになっていた。


「はーい! 今日はみんなに新しいお友達を紹介します!」


 担任の先生が元気に明るくそう言う声が廊下で待つ私の耳へ聞こえてくると、中からはクラスメイトの元気な声がたくさん聞こえてきた。

 それは私が聞き取れる限りではとても友好的な感じで、そのことだけでも少しは安心できる。


「ではさっそく紹介しますね。涼風まひろ君です」


 先生はそう言うと教室の扉を開け、私に中へと入って自己紹介するように言ってきた。

 私は今日の中で一番の緊張を感じながら教室へと入り、先生がいつも立っているであろう教壇へと立つ。


「あ、あの……わ、じゃなくて、僕は涼風まひろと言います。引っ越して来たばかりですが、よろしくお願いします」


 緊張でどうにかなってしまいそうな感覚の中、私は一生懸命に声を出して自己紹介をしてペコリと頭を下げた。

 するとクラス全体から歓迎の言葉と共に大きな拍手が聞こえてきた。それを聞いた私が下げていた頭を上げると、みんなにこやかな笑顔で私を見てくれているのが分かった。


「それじゃあまひろ君、後ろの空いてる席に座って」

「は、はい」


 ここでなら上手くやっていけるかもという思いを持ちながら、私は先生に言われた空席へと向かう。


「あの子って男の子なの? 全然そうは見えないね」

「でも男の子の服着てるし、先生も“まひろ君”って呼んでたから間違いないよ」


 指定された席へと向かう途中、2人の女子がそんな会話を交わしている声が私の耳に届いた。

 自分ではできる限り男の子にしか見えないようにしてきたつもりだったけど、やっぱりどこか女の子に見えてしまってるのかな……。

 私はクラスメイトのそんな言葉に動揺してしまい、席に着くと再び身を小さくして怯えるようにしてしまった。


「さあ、今日から新しいお友達も増えましたし、みんなで一緒に勉強と遊びに頑張りましょうね」

「「「「は――――い」」」」


 先生の言葉にクラスメイトたちが元気に返事をする中、私はその声に答えることができなかった。

 なぜなら今回は失敗しないようにと考える気持ちで心の中がいっぱいだったから。


× × × ×


 新しい学校に転校してから約1週間が経った。

 色々と緊張をしながらの学校生活を送っているけど、今のところは特にこれと言った問題もなく過ごせていたと思う。

 けれどそんな安心感が私を油断させたのか、私は本当に単純で些細なミスをしてしまい、不運にもそれを隣のクラスに居る、いわゆるガキ大将的な人に見られてしまっていた。


「なあ、お前なんで男なのに女子トイレから出てきたんだ?」

「えっ?」


 その日のお昼休み。私は突然やって来たその男子に、突然そんなことを言われた。


「えっ? じゃねえよ、お前男なんだろ? なのにさっき女子トイレから出て来てたじゃないか。いったいなにしてたんだよ」

「そ、それは……」


 その言葉を聞いて私は焦った。

 なるべく人目を避けてトイレに行くようにはしていたけど、まさかその様子を誰かに見られていたとは思わなかったから。


「お前、女っぽく見えるけど本当は変態なんじゃないのか?」


 そう言ってゲラゲラと笑う男子。その声は教室中に聞こえてしまうほど大きく、教室に居るクラスメイト全員が私の方へと注目しているのが分かった。

 そしてそんな男子の言葉を聞いたクラスメイトの面々が、ひそひそとなにやら話をしているのが見える。

 話の内容こそはっきりとは聞こえないけど、なんとなくどんなことを言っているのかは想像がつく。


「おい! なんでなにも答えないんだよ!」


 そう言ってその男子は声を荒げるけど、反論する術を持たない私はそのまま俯いて黙っていることしかできない。

 せっかく上手くやっていけそうな気がしていた矢先の出来事。自分自身の油断が原因とは言え、これはとても辛かった。

 きっとこれからはこの出来事をネタに苛められるんだと思うと、涙しか出てこない。


「あーあ、泣き始めちゃったよ。男のくせにさ。お前さ、本当は女なんじゃないのか?」

「そんなにトイレを間違えたのが珍しいの?」


 悔しさで涙を流し始めた私をさらにその男子がからかってきた時、突然そんな言葉が大きな声で教室内に響いた。


「えっ……」


 その言葉に私が顔を上げると、そこにはクラスメイトの1人が席から立ち上がってこちらを見ていた。


「な、なんだよお前、この変態をかばうのか?」

「別に庇うわけじゃないけど、トイレを間違えるくらいありえないことじゃないだろ? 俺だって前にお腹が痛くてトイレに駆け込んだら女子トイレだったこともあったし。それにおばちゃんなんて堂々と男子トイレに入って来たりするじゃないか」

「そ、それはそうだけど……でも――」

「もしもそれで涼風くんが変態だって言うなら、世の中の男子トイレを使用するおばちゃんはみんな変態ってことになるだろ? お前はそんなおばちゃんたちにも同じように変態って言えるのか?」

「うっ……」


 間髪入れずに男子を攻めていくクラスメイト。

 そのクラスメイトの物言いに、私をからかってきた男子は完全に勢いを失っていた。


「ちっ、ちょっとからかったくらいでむきになってんじゃねーよ! バーカ!」


 クラスメイトの攻めに優位を保てなくなったのを感じたのか、その男子はそんな捨て台詞を吐いてから教室を急いで出て行った。

 するとまるで何事もなかったかのように、クラスメイトたちは再び友達と話を始める。


「大丈夫だった? 涼風くん」

「う、うん。ありがとう、鳴沢くん」

「気にしなくていいよ。アイツいつも変な言いがかりをつけてくるんだからさ。たまにはガツンと言ってやる方がいいのさ」


 右の拳を握りこんでグイッと腕を曲げながら、爽やかにそんなことを言う鳴沢くん。

 この1週間でまだ一度も話したことはなかったけど、こんな私を助けてくれるなんて優しい人だなあと、そう思った。


「なあ涼風くん、良かったらこれから校庭でなにかして遊ばない?」

「う、うん!」

「よっしゃ! あっ、そうだ。ついでに俺の幼馴染の茜を誘ってもいいかな?」

「うん、いいよ」

「おーっし! それじゃあ行こう!」


 ギュッと握った私の手を引っ張りながら、元気に廊下へと出て行く鳴沢くん。

 これが私と彼の初めての出会いで、初めて会話を交わした出来事だった。

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