第162話・終わり×始まり
一番忙しいお昼時を過ぎると、飲食関係のお店はどこもそれなりに客足は落ち着きを見せ始める。
しかしそんな中でも、我らが喫茶店はお昼時と大して変わらない賑わいを未だに見せていた。
俺は厨房の中で注文された品が出来上がるのを待ちながら、右手の平に
休憩時間中に杏子と愛紗がやっていたロシアンクレープ屋をあとにした俺とまひるちゃんは、杏子たちのクラスがやっている他の出店を探し回りながらせっせと杏子の言っていたスタンプ集めをした。
俺としてはスタンプラリーにたいして興味はなかったのだが、まひるちゃんは『宝探しみたいで面白い』と言って、スタンプ集めを大いに楽しんでいるようだったから良しとしよう。
「それにしてもこのスタンプ、全然落ちやしねえ。本当にちゃんと落ちるんだろうな……」
手の平に捺された七つのスタンプを見つめながら、俺はボソッとそう呟く。
スタンプラリーを終えて休憩から戻った時にハンドソープでしっかりと手を洗ったのだが、このスタンプに使われているインクは
お店で杏子が言っていた『渡さんから貰った特殊インクだから、ちょっとしたことじゃ滲みもしないって言ってたし』との言葉どおりだが、いくらなんでも強力すぎるだろう……このインク。
「お待ちどうさま!」
軽快な声と共に調理担当のクラスメイトが注文された品を俺の所へと持って来る。
そして用意された品を丁寧にシルバーのおぼんに乗せてから厨房をあとにし、俺はこの品を注文した人物たちのもとへと向かって行く。
「お待たせしました。サンドイッチBセットと特製ケーキセットです」
俺は目の前に居る見慣れた人物たちの前に、丁寧に注文された品を置いていく。
「ありがとう、お兄ちゃん。
「う、うん。とっても似合ってると思う」
「そ、そうか? ありがとな」
「いえ……どういたしまして」
2人からの言葉を照れくさく思いながらもお礼の言葉を口にすると、愛紗は少し微笑みながら顔を俯かせた。
「注文はそれだけでいいのか?」
「うん、愛紗と半分ずつ交換して食べるから大丈夫だよ」
「そっか、じゃあゆっくりと食べていってくれ」
「ありがとう。あっ、ところでお兄ちゃん、ちゃんと七つのスタンプ集めてくれた?」
「ああ、ちゃんと集めてきたよ。ほら」
俺は杏子の問いかけに答えてから自分の右手の平を前へと差し出し、その証拠を見せる。
そして手の平に捺された七つのカラフルなスタンプを見た杏子はにっこりと笑顔を浮かべると、白の水玉模様が描かれた水色の綺麗な包み紙に包まれた、10センチくらいの長方形の小さな箱を二つ白く小さな袋から取り出した。
「はいお兄ちゃん、スタンプコンプリートおめでとう。サンタさんからの贈り物だよ」
そんなことを可愛らしく言いながら、二つの箱を手渡してくる杏子。妹じゃなかったら惚れてしまいそうな笑顔だ。
しかしサンタさんからの贈り物とは洒落た演出じゃないか。箱を入れていた小さな白い袋も、サンタを意識しての演出だったのだろう。
「おう、サンキュ。もう1個はまひろに渡せばいいんだよな?」
「うん、お願いするね」
「ああ、ちなみに中身はなんなんだ?」
「ふっふっふ、それは開けてのお楽しみなのでーす」
もったいぶった言い方をする杏子を前に、俺は即座にこの話題に対する追及を諦めた。
杏子の性格上、教えないと言ったら絶対に教えてはくれないからだ。聞くだけ無駄と分かっている内容に、いつまでも時間を割くほど俺は愚か者ではない。
「へいへい、そんじゃあ開ける時を楽しみにしておくよ。じゃあ俺は仕事に戻るから、愛紗も杏子もゆっくりしていってくれ」
俺がそう言葉をかけると、杏子はちょっと物足りなかったのか『ちぇっ、もうちょっとつっこんで聞いてくれてもいいのに』――などとぼやいていた。
そんなことを言うなら、最初っから素直に教えてくれればいいじゃないかと思ってしまうが、それを口にすると面倒くさいことになるのは目に見えているので黙っておこう。
ブツブツと不満を口にする杏子に愛紗が優しくケーキを差し出すのを見つつ、俺は再び接客の仕事を再開した――。
「繁盛しているようだな」
あと1時間程で2年目の文化祭も終わろうかという16時頃。
昼頃よりは落ち着きを見せていたとは言え、未だそれなりに客足がある店内に宮下先生が白衣をひらめかせながらやって来た。
「あっ、宮下先生、おかげさまで好調ですよ」
「そのようだな。ところで、涼風はどうしている?」
「まひろですか? まひろならあっちで接客してますけど、どうかしたんですか?」
「いや、少々気になる話しを聞いたので様子を見に来ただけだ」
宮下先生が口にした言葉を聞いた俺は、心臓がドキッと大きく跳ねた。
勘ぐり過ぎかもしれないが、もしかしてまひろとまひるちゃんの入れ替わりがばれたのだろうかと思ったからだ。
「気になる話ってなんですか?」
俺は動揺する気持ちを必死で隠しつつ、簡単に答えてくれるわけがないとは思いながらも、宮下先生が聞いたであろう“気になる話”というものの内容を聞き出そうとした。
「ん? ああ、なーにたいしたことではないよ。昼間に君の妹さんがやっていたクレープ屋に行った時、その妹さんから話を聞いたのだよ。『まひろさんの様子がちょっと変だった』――とな。それで体調でも悪くしているのではないかと思って様子を見に来たわけだよ」
杏子のやつ、余計なことを言ってくれやがって……。
そんなことを思いながらも、それを口にすることも態度に出すこともできない。黙って何事もないように
「そうだったんですか。でも、俺が見る限りは特に変わった様子はありませんけどね」
「そうか、それならそれでいいさ。まあせっかくここまで来たんだから、このお店に貢献していくとしよう。空いている席に案内してくれたまえ」
俺がしれっとした感じでそう言うと、宮下先生は大して意に介した様子も見せずにそんなことを言ってきた。
「あ、はいっ。じゃあこちらへどうぞ」
なにかしらの追求を受けると思っていたから少々拍子抜けした感は否めないが、平穏無事にこの場を切り抜けられたのだから良しとしよう。
「ご注文はどうしますか?」
俺は空いている席へ宮下先生を案内すると、通常どおりの接客を始めた。
「ふむ、色々あって迷うな……」
宮下先生はメニュー表を開き見ながら、うーん……と声を上げて悩みだした。
普段からスパッと物事を決めているようなイメージがあるから、このように深々と悩んでいる様子の宮下先生は凄く新鮮に見えてしまう。
「宮下先生でも悩んだりするんですね」
そんな宮下先生の姿を少し微笑ましく感じてしまった俺は、つい素直に思ったことを口にしてしまった。
「ん? まあ、私もただの人だからな、時には悩み迷うこともあるさ」
「宮下先生はいつも迷いなく物事をやっている感じがあるから、ちょっと意外でしたよ」
「ふむ……悩みなく生きている人間など居ないとは思うが、もしもそんな人間が居たとしたら、その人物は個人的には幸せなのだろうな」
「個人的には?」
「自分のやることや考えに迷いがないと言うのは、一見よく見えるかもしれないが、これは案外危ないことでもあるのだよ。自身はどこまでも迷いなく自身の行動を疑わない。それが例え周りからいけないと言われる行動であったとしてもだ。だからこそ、一切の迷いがない人間が居たとしたら、それはとてつもなく怖い存在でもあるのだよ。人は迷いや悩みがあるからこそ、他人の言葉に耳を傾ける。時にはそれで失敗もするだろうが、人は失敗という経験から考察を経て別の答えへと至ることができる。そこが人間の素晴らしいところでもあるのだよ」
実に宮下先生らしい物言いだとは思うが、その内容はやや哲学染みていて難しい。
「難しい話ですね」
「別に難しくなどないさ。要するに人間というものは、悩み迷ってこそ人間だと言うことなのだから」
宮下先生は自らの持論を簡潔にそうまとめると、持っていたメニュー表をパタッと閉じてテーブルに置き、『君のお勧めの品を持って来てくれたまえ』と言ってきた。
俺は宮下先生の下した選択を了承し、そのまま厨房へと向かう。
そしてそのあと、俺が持って来たお勧めの品をペロリと平らげた宮下先生は、帰り際に『人というのはどこまでも、自分を騙せてしまう生き物なのだな』――という謎の一言を残して去って行った。
「あー、腹減った」
宮下先生が店を去ったあとで俺が食器を持って厨房へ向かうと、渡が大きな声でお腹を押さえながら大きな息を吐き出していた。
「そういえば渡、休憩には行ったのか?」
「いいや、みんなの休憩の調整やら呼び込みやらで全然行ってねえ」
「マジかよ……だったら腹も減るよな。あっ、そうだ。冷蔵庫に杏子がやってた店で買ったクレープがあるから、良かったら食べてくれよ」
「おっ、いいのか? わりいな」
渡はそう言うと嬉しそうに冷蔵庫の方へと歩き始めた。
そして俺は再び接客をするために厨房を出て店内へと戻る。
「あっ!?」
店内に戻って数十秒。俺はあることを思い出し、急いで
「渡! そのクレープを食うのはちょっとまっ――」
「ぐあああああああ――――――――っ!」
杏子のお店で買ったクレープがロシアンクレープだということをすっかり忘れていた俺は、急いで渡がそのクレープを食べることを止めようとしたが、ほんの少しの差で間に合わず、渡の大きな叫び声が店内に響き渡った。
「み、みずぅぅぅぅぅぅぅ――――――――!」
「あちゃあ…………」
水を求めて悶え苦しむ渡。
そんな狂ったように悶え苦しむ渡に水を飲ませつつ、騒がしくも楽しかった2年目の文化祭は過ぎて行った。
× × × ×
「お待たせ、龍之介」
「大して待ってないよ、じゃあ行くか」
「うん」
17時になって店を閉めたあと、1時間程をかけて簡単に店の片づけをした俺たちは、学園の一室を使って2時間程の打ち上げをすることになっていた。
店の本格的な片づけは、明日の代休が終わった翌日に行われる。
俺はお店の片づけを行ってから素早くまひるちゃんと一緒に学園を抜け出し、まひろが待っている最寄の駅へと向かった。
そしてまひるちゃんと入れ替わりでまひろと合流した俺は、今日の出来事を話しながら学園への道を歩き始めた。
「――へえ、そんなことがあったんだね」
「まったく大変だったよ。最後なんてロシアンクレープの当たりを引いた渡の世話をしなきゃいけなかったし」
あとで杏子に聞いた話だが、あのロシアンクレープには、ハバネロの一種で世界一辛い唐辛子と言われているキャロライナ・リーパーをクリームに混ぜていたらしい。
そんな危険な物を混ぜ込んで売るなよと、俺が杏子に言ったのは言うまでもないだろう。
「渡くん、大丈夫だったの?」
「ああ、これでもかってくらいに甘い物を口に詰め込んで誤魔化してたから大丈夫だろう」
打ち上げの時にみんなと話が合わないとまずいので、色々なことを話しながら歩いていると、突然冷たく強い北風が容赦なく吹きつけてきた。
「ううっ……やっぱり陽が落ちると滅茶苦茶寒いな」
まひるちゃんを駅まで送り届けたあと、入れ替わりでまひろが来るまでの約10分間を約束していた屋外の物陰で待っていたのだが、その間に俺の身体はすっかり冷えてしまっていた。
それに加えてこの猛烈な冷たさの風、俺の身体はすっかり体温を奪われてしまい、身体が寒さでブルブルと震えだしてしまった。
「大丈夫?」
「正直大丈夫だとは言い難いが、もう少しで学園に着くから大丈夫さ」
「良かったらこれ使ってよ」
まひろはポケットから手の平サイズのカイロを取り出すと、にこっと微笑みながらそれを俺に差し出してきた。
「ありがたいけど、それじゃあまひろが寒いだろう?」
「ううん、僕は大丈夫。さっきまでずっと暖かい所に居たから。だから遠慮しなくていいよ」
そう言って更にカイロを持った手をグイッと前に差し出してくる。
「そうか? じゃあ遠慮なく使わせてもらうよ」
「うん、そうしてよ」
俺は差し出されたカイロを受け取ったのだが、この時のまひろに妙な違和感を覚えた。
その違和感がなんなのかと言われれば返答に困るけど、一瞬目に映ったそのなにかが、俺の中で妙に引っかかった。まるで2枚の同じような絵の中にある、間違い探しでも見たかのような感覚で。
「ん? どうかしたの?」
「えっ!? ああいや、なんでもない」
きょとんとしながら可愛らしく小首を傾げるいつものまひろにそう言いながら、俺は受け取ったカイロを両手で握りこむ。
「ああ~、温かい」
じんわりと冷えた手に伝わって来るカイロの温かさが心地良く、さっきまでの違和感がどこかへ消え去ってしまっていた。
「よし、風邪をひかないうちに学園に急ぐぞ」
「うん」
まひろと一緒に少し駆け足で学園へと向かう。
この時は特に深く気にすることもなかったけど、この違和感が後に俺を深く悩ませることになるとは想像もしていなかった。
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