終章 眠れる俺と美女

届かぬ手


 夢を見ていた。


 満開の向日葵ひまわりの園で、初恋の少女が笑っている。

 少女の名はアンリエッタ・ソレイユ──ヴラマンクの幼なじみ。銅にも似た輝く褐色の髪を腰まで伸ばした、美しい少女だった。


 ヴラマンクはその少女に恋をしていた。


 2人の心は──その後の人生を考えれば、それはほんの短い間だったけれども──確かに、通じあっていた。


 アンリエッタが26歳の時、彼女は子供を産んだ。ヴラマンクの子ではない、他の男の子供を。いつまでも子供の姿のままのヴラマンクを、彼女は待ち続けることができなかった。


 アンリエッタは出産のおりの出血がひどく、そのままあっさり死んでしまった。その後に残っていたのは色のない戦争漬けの日々。父も、兄弟も失い、気がついたときにはヴラマンクのそばには誰も残っていなかった。


 懐かしい時代は、今では乾いた羊皮紙に刻まれた文字の一節に過ぎない。時折、こうして過去の残影が夢に現れ、ヴラマンクを慰めてくれるだけだ。

 こちらを振り向いて困ったように笑う。

 駆け寄ってきて、いたずらそうに微笑む。

 摘んだばかりの花束をかかえ、嬉しそうにはにかむ。


 永遠に届かない手を、ヴラマンクは伸ばし続けるのだ。


 すると、今まで一度も触ることのできなかったアンリエッタが近寄ってきて、ヴラマンクの腕に抱かれた。何年も寝かせた芳醇な酒のような、甘くツンとした香りが鼻をくすぐる。


 ──何かおかしいと思いながら、その背中に手を回し、夢中でまさぐった。


 むにゅ。

 ヴラマンクの手が、アンリエッタの背中の下の、何か柔らかいものに触れる。


(なんだ、これは)

 夢とは思えない量感があった。


 ついにアンリエッタの元に行けると思って、その体をきつく抱きしめる。

「あ……っ、んっ」


 アンリエッタが鼻にかかった熱い吐息をもらした。

 これは夢ではないのだろうか。

 自分は眠っている間に死んだのだろうか。では──、俺を迎えに来てくれたのか。


 アンリエッタにそっと口づけをしようと、そのあごを持ち上げる。

 ──その顔が、どこか記憶にあるアンリエッタと違うような気がした。ほとんど同じはずなのだが、どこか違う、という直感がある。


 もう一度、アンリエッタの顔を見た。よく見れば、褐色の髪は耳ほどまでしかない。


(そんな、おかしい)


 さっきまでアンリエッタの髪は腰ほどまであったはずだ。アンリエッタの顔が怒りに歪んでいく。

 いや、アンリエッタではない。ルイだ。


「どこを触っているんです!」

 ルイは怒りをあらわにした顔で、ヴラマンクをにらみつけている。


 すると、後ろから右腕をつかまれ、ぐいと引かれた。

 そこにいたのは銀髪の少女だった。銀髪の少女──アテネイは困ったような顔で、やはりヴラマンクをにらんでいる。


「おーさま……、不潔ですっ」


 2人は同時に手を振り上げ──、ヴラマンクのほほを思いっきり引っ叩いた!

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