第63話
目を開けると、今までとは違い真っ白な世界が広がっていた。見渡す限りの白の景色には何もなく、誰もいない。
遙か前方に白以外の何かが見えた。歩いて近づくとそれは壁のように高くて大きな扉だった。何もない空間に両開きのそれだけが自立している。首が痛くなるほど見上げても取っ手らしきものは見当たらない。
どうやったら開くのだろう?
軽い好奇心で扉に手を伸ばした。
「願いは叶いましたか?」
聞き覚えのある声が聞こえ、驚いて手を引っ込める。顔を向けると、さっきまで誰もいなかったはずなのに、いつの間にか綺麗な女性が立っていた。
長い黒髪が白い世界に際立っている。
初めて会う彼女が、あの時にいた巫女の一人だとわかった。
少し視線を落としてから口を開いた。
――はい。
呪術を解く約束は果たせなかった。好きだと言えなかった。
もうすぐ死ぬ相手に告白されても困るだろう、と口にはできなかった。
でも最期に彼に会えた。
家族に別れを言えなかったとか、大家のミシェルさんに迷惑をかけるとか、心残りを上げればきりがない。
でも、もうどうしようもない。
自分を納得させ、再び扉に触れようとして――何かに頭を掴まれた。
「どこへ行く?」
不機嫌な時の聞き覚えのある声がすぐ背後から聞こえてきた。首だけで振り返ると、右手で頭を鷲掴む、静かな怒りを湛えた表情の、思った通りの端整な顔があった。
え? えええええっ?! な、何でここに?
嬉しさや疑問は綺麗に吹き飛び、今は驚きしかない。右頬にあった古代文字がないことにも気付けなかった。
「どこへ行くのか、と聞いている」
彼は語気を少し強めて同じ言葉を繰り返した。
馬車に乗った後と同じだ。今の彼の姿は頭の角といい背中の翼といい、まさに『魔王』そのものだ。
けれどそれとは別に、雰囲気がいつもとは違うことが引っかかる。
「どうした?」
怪訝そうな声でサラは我に返った。
この状況を打破しようと黒髪の美女に視線で助けを求めたが、彼女はどこか楽しげに苦笑しているだけだ。
仕方なく自力で魔王の説得を試みた。
ど、どうやら死んでしまったみたいで――。
あはははは、と笑って誤魔化してみたものの魔王の機嫌は直らない。それどころか切れ長の目が鋭く細められ、頭を掴んでいる指に力が込められる。
「笑い事じゃない」
いたたたたっ――死んじゃうから!
手加減してくれているとはわかっているが、長く鋭い爪のせいで以前よりも数段痛い。
魔王は口の端をつり上げた。
「お前の話だと、もう死んでいるのだろう?」
妖艶とも言える笑みだが、その目は全く笑っていない。
そ、そうだけど、そういうことじゃなくて!
サラは必死に頭に食い込む指を掴む。
そしてふと気付く。
あれ? 死んでいるのに何で痛いんだろう?
気のせいや雰囲気ではなく、確かに痛みを感じている。
「あなたはまだ死んでいませんよ」
黒髪の美女の言葉にサラは顔を向けた。
死んだから迎えにきたのでは――?
「危険な状態だがまだ生きている」
驚いて見上げると、魔王は僅かに表情を緩めて掴んでいた手をようやく離した。
「その扉の先は死者の国です。例え生者であっても足を踏み入れれば死者となります。まだ生きているあなたが入ってしまわないよう、ここで待っておりました」
恐ろしい事実に慌てて扉から後ずさる。
「どうやら少しはお役に立てたようですね」
彼女は幼い子供を見守る母親のような笑顔を見せた。
何から何まですみません。
恥ずかしさと感謝でサラは頭を下げた。
ふと、わき上がった疑問に促されるように自分を見つめている彼を見上げた。
どうしてここにいるんですか?
そんなこともわからないのか、といった雰囲気を惜しみなく漂わせ、呆れた顔で魔王は見下ろしている。
「勝手に死ぬなと言っただろう」
レイが初めて会ったときに確かそんなことを言っていた、と混乱した頭で必死に思い出す。
「そのままでは本当に死にそうだったので連れ戻しに来た」
あまりのことに驚き固まっていると、彼は次第に困ったような表情になった。
「迷惑だったか?」
死者の国に迷い込む寸前で連れ戻そうとしてくれている。それが嬉しくないわけがない。
慌てて彼の袖の裾を掴んだ。
来てくれてありがとう。
こみ上げてくる喜びに自然と笑顔になる。
彼もつられたようにようやく笑った。けれどそれは子供のように笑うレイでもなく、静かに微笑むレクスでもなく、初めて見る笑顔だった。
「では帰るか」
そう言うか否やサラの背中と膝の裏に手を回し、横抱きにして軽々と持ち上げた。
わわわっ! お、降ろしてください!
恥ずかしさで暴れたが、魔王はその程度ではびくともしない。
「嫌だ」
聞き慣れた言葉とその意味に抵抗を諦めた。
「すぐ転ぶし、目を離した隙にいなくなられても困る」
何もないところだったら転ばないし、そんなにふらふらしていませんよ!
抗議を彼は一笑に付した。
「斡旋所へ行く時に、平坦な道で
た、確かに――。
あっさり言い返される。
あれはレクスと一緒だった時のことだ。
間近にある端整な顔を見つめる。見慣れたはずのその顔がまるで別人のように見える。そこでようやく顔に刻まれているはずの文字がないことに気が付いた。
自然と手がその頬に触れる。
彼は驚きも嫌がりもせず、嬉しそうに微笑んだ。
「やっと会えた」
あなたは――。
目が合うと彼は真剣な表情になった。
「今度会うことができたなら、そのときは名前を呼んで欲しい」
その意味を本能で理解した。
それはきっと――。
「レクスでもレイでもない、俺だけの名前を」
それはきっと、レクスとレイとの別れを意味している。
レクスが洞窟の中で言い掛けたことはこれだったのかもしれない。
今、見つめる黄金の瞳はレクスでもありレイでもあり、同じようで僅かに、確かに違う。
でも私はこの人が好きだ。
心の中は様々な想いの糸が絡まり、
複雑な気持ちを抱えたまま、小さく頷いた。
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